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第二十一話「破られた絆」
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その夜――空気の粒子さえ重く、肌に絡みつくような感触だった。
道場の木製の床に正座し、美沙は黙したまま瞑想を続けていた。窓の外では、風ひとつ吹いていない。それでも空気はざわついていた。気配――この言葉でしか言い表せない“圧”が、地の底から這い上がってくるような感覚だった。
蓮はもう三日、言葉を発していない。
食事もとらず、眠っているのかどうかも分からない。しろを抱いたまま、ただじっとしている。空間の中で“人”としての存在がぼやけていくようで、美沙は息を詰めてしまうことがあった。
「……あの場所に、戻るしかない」
美沙は静かに立ち上がる。空手の道着の上からジャケットを羽織り、髪をひとつに結った。背後では、道場の壁に掛けられた「神原道場」の木札が、わずかにきしんでいる。
出入口の鍵を閉めたとき、どこか遠くで犬が鳴いた。いや、犬ではない。“あれ”だ。
彼らは呼んでいる。美沙の内にある“母”の輪郭を、削り取ろうと。
十五分後、燈子の車が道場前に到着した。言葉はなかった。視線だけが交差する。助手席に乗り込んだ美沙に、燈子は地図を差し出した。
「旧桜山モールの地下。……“アクセス通路”があるはず」
「どうしてわかったの?」
「建築資料と、あの子たちの歩いた軌跡。それと“声”」
声――それは、夢の中で交わされた記憶の残響。名もない母たちの“祈り”が、都市構造に染み込んだ結果だという。
車は旧モールの裏手、かつて搬入口だった場所に停まった。周囲は再開発の名目で立ち入り禁止となっており、夜間は完全な無人地帯になっている。
照明の落ちたコンクリートの空洞。そこにだけ、かすかな振動が響いていた。
「ここが……入口」
美沙はジャケットを脱ぎ、道着姿になる。拳を握ったとき、皮膚の内側が熱を帯びるように脈動した。
階段を下る。濡れた空気が鼻腔を刺す。コンクリートの壁には古びた張り紙や剥がれた塗装が残っていた。
そして、美沙は見た。
暗闇の先――そこに、並ぶように立つ人影たち。
無言。無表情。足元にペットを携えた十数人の若者たち。
高校生か。いや、体格からして大学生の年代にも見える。全員が同じ角度でこちらを見ていた。見開かれた瞳の奥には、光も感情もなかった。
「来たのか。……私たちを、“壊し”に」
燈子の声が震えていた。彼女もまた、ただの学者としてではなく、何かを“背負う者”として、この場に来ていた。
だが、彼らは応えない。ペットたちの眼だけが、まるでひとつの生き物のように、こちらを見ていた。
次の瞬間、若者たちが一斉に動いた。
無音のまま、完全な同調で――突進してきた。
「美沙!」
燈子の叫びが後方から聞こえたとき、美沙の身体はすでに動いていた。左足を軸に、下段払いからの裏拳。正面の一人が吹き飛ぶ。
だが、次がくる。さらに次――数で圧してくる。
美沙は身を翻し、両手刀で制圧しようとするが、彼らの動きには“ためらい”がない。感情も痛みも感じていないように、次々と飛びかかってくる。
「ッ!」
肩に一撃。肘で払いのけ、次の敵に膝蹴りを入れる。だが体勢が崩れた。背後にもう一人。
振り返る暇もなく、蹴りが背中に入った。
「ぐ……ッ!」
壁に叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出される。美沙は歯を食いしばりながら、もう一度立ち上がった。
「まだ……終わってない」
目の前には、さらに十人以上の同調者たちが並んでいた――。
突き出された拳を、体をねじって外す。すぐさま反撃の正拳を相手の鳩尾に打ち込む。倒れ込んだ一人を踏み越えた瞬間、左脚の脛に重い衝撃が走った。横からの回し蹴りだ。
「……ッつ!」
美沙はよろめきながらも踏ん張り、反撃の足払いで相手の軸を崩す。だが、崩した先にもうひとりいた。肩を掴まれ、肘を打ち込まれる。咄嗟に顎を引いて受けたが、鼻の奥に鈍い痛みが広がった。
そのまま地面に倒されそうになり、腕を地につけると、反対側から別の足が振り抜かれる。肘で受け止めるが、皮膚の内側で鈍く何かがひびいた。
「……まだ!」
地面を蹴り、前転して間合いを取る。呼吸が荒くなっていた。胸が焼けるように苦しい。目の前の光景が、じわじわと霞んでいく。
敵の顔は見えない。みな表情のない仮面のような顔をしている。目は光を宿さず、ただ“誰か”の意志に沿って動いているだけのようだった。
「お前たち……どこまで、自分を捨てるつもりなの」
返事はない。代わりに、また一斉に動き出す。三人が横一列に並び、同時に踏み込んでくる。美沙はその中心の一人の突きを受け止め、体ごと投げた――が、その体勢の崩れを他の二人に狙われた。左から、踵落とし。右から、膝蹴り。
美沙の体が、ぐらついた。
腰が落ちる。視界が波打つ。
(……やられる、だけじゃない。私が、止まったら)
脳裏に浮かんだのは、蓮の顔だった。無表情で、フェンスの奥を見ていたあの目だ。
「……まだ倒れないっ!」
叫ぶように言い放ち、最後の力で踏み込む。最前列の敵の肩を掴み、足を払って倒し、その背を蹴り台にして跳び上がる。空中で身体をひねり、回転と共に旋風脚を振るった。
一瞬、空気が止まり――次の瞬間、二人が吹き飛んだ。
が、着地の衝撃が、足首から膝へと響いた。軋むような痛みが骨に伝う。呼吸を整える暇もなく、次の波が押し寄せる。
背後からの肘打ち。右肩に。骨が軋む音がした。
振り返った瞬間、掌底が顔面を襲う。よけられなかった。
頭蓋に鈍い衝撃。視界が一瞬、白く染まる。
「ッ……!」
地面に崩れそうになる身体を、膝で支えた。
そのときだった。
――後頭部に、重い一撃が入る。
何かが、ぽきりと音を立てた気がした。
脚が、動かない。手が、うまく握れない。視界がぐらぐらと揺れていた。
(……これで、終わり?)
だが、違う。
唇を噛み、ふらつく体をもう一度だけ起こす。だがそのとき、真正面から迫っていた膝蹴りが、美沙の腹部を貫いた。
胃の奥から、何かが逆流するような痛み。喉の奥で嘔気がせりあがる。
よろけた美沙の側頭部に、今度は横から回し蹴りが突き刺さった。
バランスが崩れ、片膝が落ちる。
それでも、まだ、立とうとした。
だが。
次の一撃は、背後からの跳び膝蹴りだった。
意識が、ぶつりと切れる。
音も、光も、遠のいていく。
「くぅ…っ……」
膝が折れ、片腕が床についた。その腕もすぐに、力を失った。
(……まだ……終われな……)
けれど、その声はもう、自分の中でさえ響いていなかった。
重力だけが身体を抱え、視界の底へ沈んでいく。
――その瞬間、燈子は叫んだ。
「美沙っ!!」
声が喉の奥で反響し、敵に囲まれた空間に広がった。振り返ると、美沙はすでに、崩れ落ちた体勢のまま動かない。足元には、もう三、四人の同調者が立ちふさがっていた。
「どきなさいよッ!」
低く踏み込む。足首の角度と体重移動だけで、真横にいたひとりの膝裏を崩す。技名など、もう頭にはなかった。身体が覚えている動きだけを繰り返す。つかみかかってきた腕を外し、相手の肘関節を刈るように跳ねると、倒れた同調者が無言で床に転がる。
「どうして黙ったままなのよ……!」
歯を食いしばりながら、右手で床を叩くように立ち直る。痛む。肩が、足が、呼吸するたびに熱を持っていく。だが美沙が倒れた今、止まることはできなかった。
(――わたしだって、かつては母だった)
そう思った瞬間、次の敵の拳が顔面に迫る。体をひねり、かわした。左肩にかすった拳が突き抜けていく。真正面から突っ込んでくるもうひとりに対しては、真正面から膝を入れた。
「子どもたちをこんなふうに……!」
言葉にならない怒りが、動きの原動力に変わっていた。だが、包囲は崩れない。
美沙の周囲には、すでに十数人が円を描くように立っている。まるで、美沙という存在を囲み、何かを“封印”しようとするかのように。
「返してよ……!」
燈子の拳が一人に届く。倒れる。だがその背後には、すぐに次の影が迫ってくる。
(……だめ、持たない……)
自分でもわかっていた。
だがそれでも――
(今、美沙を……一人にしちゃいけない)
その一心で、燈子は立ち続ける。
自分の拳が、もうどこを打っているのかさえわからない。ただ、囲まれた中心に倒れる美沙の姿だけが、視界に焼き付いていた。
坂東は、街の灯りの滲む夜道を車で流していた。巡回という名目だったが、正確には落ち着かなかったのだ。脳裏にこびりつく“記憶の地図”。複数の証言と子供たちの夢が指し示していた奇妙な一点――旧桜山モール跡地。そこが何かの核であると、どこかで直感していた。
モールの裏手、現在は再開発予定地として立入禁止の柵が設置された一帯。だが坂東は迷わずハンドルを切り、その隅の旧搬入口に車を止めた。ヘッドライトの灯りが、雑草に覆われた舗装路を淡く照らす。古い標識が錆び、壁面のスロープには落書きが浮かぶ。鉄扉の脇には、かすかに誰かの足跡が残っていた。
……違和感。
視界の端、駐車された一台の車。その車体に見覚えがあった。近づいて確認すると、それは――久世燈子の所有する車だった。
「……なんで、こんな場所に……?」
坂東は車を降り、躊躇なくフェンスの隙間から中へと足を踏み入れた。風のない夜。搬入口は無音で口を開けたまま、沈黙を飲み込んでいる。かつて搬入トラックが出入りしていた地下構造。コンクリートの通路を下っていくと、空気が変わった。冷たい。音が、吸い込まれていく。
そして、彼は見た。
倒れている、ふたりの人影。
「神原さん――!? 久世さん!」
駆け寄り、膝をついて確認する。神原美沙は意識がなく、額から流れた血が頬をつたっている。道着の袖は裂け、拳には乾いた血がこびりついていた。顔面には擦過傷が数カ所、唇が切れ、首元まで斑状の痣が浮かんでいた。
隣にいた燈子は、左肩から崩れるように倒れていた。呼吸は浅く、目はうっすらと開いているが、焦点が合っていない。眼鏡は砕け、顔の右半分が砂埃と血で汚れていた。スカートの裾は裂け、膝に土と擦過痕。右手は胸元で丸められ、左手は不自然な角度で伸びていた。白いブラウスには、誰かに掴まれたかのような指の跡がはっきりと残っていた。
あたりに、人影はない。攻撃の気配も、逃走の音も、何も。
まるで戦闘だけが終わり、すべてが引き潮のように消えた後のようだった。
坂東は震える指でスマートフォンを取り出し、救急へと通報した。
「こちら坂東……二名倒れている。意識なし。至急、桜山旧モール搬入口まで……!」
声が震えた。だが抑えきれなかった。
目の前の光景が、現実だとは思えなかった。だが確かに、そこには――“祈りの破片”が残されていた。
道場の木製の床に正座し、美沙は黙したまま瞑想を続けていた。窓の外では、風ひとつ吹いていない。それでも空気はざわついていた。気配――この言葉でしか言い表せない“圧”が、地の底から這い上がってくるような感覚だった。
蓮はもう三日、言葉を発していない。
食事もとらず、眠っているのかどうかも分からない。しろを抱いたまま、ただじっとしている。空間の中で“人”としての存在がぼやけていくようで、美沙は息を詰めてしまうことがあった。
「……あの場所に、戻るしかない」
美沙は静かに立ち上がる。空手の道着の上からジャケットを羽織り、髪をひとつに結った。背後では、道場の壁に掛けられた「神原道場」の木札が、わずかにきしんでいる。
出入口の鍵を閉めたとき、どこか遠くで犬が鳴いた。いや、犬ではない。“あれ”だ。
彼らは呼んでいる。美沙の内にある“母”の輪郭を、削り取ろうと。
十五分後、燈子の車が道場前に到着した。言葉はなかった。視線だけが交差する。助手席に乗り込んだ美沙に、燈子は地図を差し出した。
「旧桜山モールの地下。……“アクセス通路”があるはず」
「どうしてわかったの?」
「建築資料と、あの子たちの歩いた軌跡。それと“声”」
声――それは、夢の中で交わされた記憶の残響。名もない母たちの“祈り”が、都市構造に染み込んだ結果だという。
車は旧モールの裏手、かつて搬入口だった場所に停まった。周囲は再開発の名目で立ち入り禁止となっており、夜間は完全な無人地帯になっている。
照明の落ちたコンクリートの空洞。そこにだけ、かすかな振動が響いていた。
「ここが……入口」
美沙はジャケットを脱ぎ、道着姿になる。拳を握ったとき、皮膚の内側が熱を帯びるように脈動した。
階段を下る。濡れた空気が鼻腔を刺す。コンクリートの壁には古びた張り紙や剥がれた塗装が残っていた。
そして、美沙は見た。
暗闇の先――そこに、並ぶように立つ人影たち。
無言。無表情。足元にペットを携えた十数人の若者たち。
高校生か。いや、体格からして大学生の年代にも見える。全員が同じ角度でこちらを見ていた。見開かれた瞳の奥には、光も感情もなかった。
「来たのか。……私たちを、“壊し”に」
燈子の声が震えていた。彼女もまた、ただの学者としてではなく、何かを“背負う者”として、この場に来ていた。
だが、彼らは応えない。ペットたちの眼だけが、まるでひとつの生き物のように、こちらを見ていた。
次の瞬間、若者たちが一斉に動いた。
無音のまま、完全な同調で――突進してきた。
「美沙!」
燈子の叫びが後方から聞こえたとき、美沙の身体はすでに動いていた。左足を軸に、下段払いからの裏拳。正面の一人が吹き飛ぶ。
だが、次がくる。さらに次――数で圧してくる。
美沙は身を翻し、両手刀で制圧しようとするが、彼らの動きには“ためらい”がない。感情も痛みも感じていないように、次々と飛びかかってくる。
「ッ!」
肩に一撃。肘で払いのけ、次の敵に膝蹴りを入れる。だが体勢が崩れた。背後にもう一人。
振り返る暇もなく、蹴りが背中に入った。
「ぐ……ッ!」
壁に叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出される。美沙は歯を食いしばりながら、もう一度立ち上がった。
「まだ……終わってない」
目の前には、さらに十人以上の同調者たちが並んでいた――。
突き出された拳を、体をねじって外す。すぐさま反撃の正拳を相手の鳩尾に打ち込む。倒れ込んだ一人を踏み越えた瞬間、左脚の脛に重い衝撃が走った。横からの回し蹴りだ。
「……ッつ!」
美沙はよろめきながらも踏ん張り、反撃の足払いで相手の軸を崩す。だが、崩した先にもうひとりいた。肩を掴まれ、肘を打ち込まれる。咄嗟に顎を引いて受けたが、鼻の奥に鈍い痛みが広がった。
そのまま地面に倒されそうになり、腕を地につけると、反対側から別の足が振り抜かれる。肘で受け止めるが、皮膚の内側で鈍く何かがひびいた。
「……まだ!」
地面を蹴り、前転して間合いを取る。呼吸が荒くなっていた。胸が焼けるように苦しい。目の前の光景が、じわじわと霞んでいく。
敵の顔は見えない。みな表情のない仮面のような顔をしている。目は光を宿さず、ただ“誰か”の意志に沿って動いているだけのようだった。
「お前たち……どこまで、自分を捨てるつもりなの」
返事はない。代わりに、また一斉に動き出す。三人が横一列に並び、同時に踏み込んでくる。美沙はその中心の一人の突きを受け止め、体ごと投げた――が、その体勢の崩れを他の二人に狙われた。左から、踵落とし。右から、膝蹴り。
美沙の体が、ぐらついた。
腰が落ちる。視界が波打つ。
(……やられる、だけじゃない。私が、止まったら)
脳裏に浮かんだのは、蓮の顔だった。無表情で、フェンスの奥を見ていたあの目だ。
「……まだ倒れないっ!」
叫ぶように言い放ち、最後の力で踏み込む。最前列の敵の肩を掴み、足を払って倒し、その背を蹴り台にして跳び上がる。空中で身体をひねり、回転と共に旋風脚を振るった。
一瞬、空気が止まり――次の瞬間、二人が吹き飛んだ。
が、着地の衝撃が、足首から膝へと響いた。軋むような痛みが骨に伝う。呼吸を整える暇もなく、次の波が押し寄せる。
背後からの肘打ち。右肩に。骨が軋む音がした。
振り返った瞬間、掌底が顔面を襲う。よけられなかった。
頭蓋に鈍い衝撃。視界が一瞬、白く染まる。
「ッ……!」
地面に崩れそうになる身体を、膝で支えた。
そのときだった。
――後頭部に、重い一撃が入る。
何かが、ぽきりと音を立てた気がした。
脚が、動かない。手が、うまく握れない。視界がぐらぐらと揺れていた。
(……これで、終わり?)
だが、違う。
唇を噛み、ふらつく体をもう一度だけ起こす。だがそのとき、真正面から迫っていた膝蹴りが、美沙の腹部を貫いた。
胃の奥から、何かが逆流するような痛み。喉の奥で嘔気がせりあがる。
よろけた美沙の側頭部に、今度は横から回し蹴りが突き刺さった。
バランスが崩れ、片膝が落ちる。
それでも、まだ、立とうとした。
だが。
次の一撃は、背後からの跳び膝蹴りだった。
意識が、ぶつりと切れる。
音も、光も、遠のいていく。
「くぅ…っ……」
膝が折れ、片腕が床についた。その腕もすぐに、力を失った。
(……まだ……終われな……)
けれど、その声はもう、自分の中でさえ響いていなかった。
重力だけが身体を抱え、視界の底へ沈んでいく。
――その瞬間、燈子は叫んだ。
「美沙っ!!」
声が喉の奥で反響し、敵に囲まれた空間に広がった。振り返ると、美沙はすでに、崩れ落ちた体勢のまま動かない。足元には、もう三、四人の同調者が立ちふさがっていた。
「どきなさいよッ!」
低く踏み込む。足首の角度と体重移動だけで、真横にいたひとりの膝裏を崩す。技名など、もう頭にはなかった。身体が覚えている動きだけを繰り返す。つかみかかってきた腕を外し、相手の肘関節を刈るように跳ねると、倒れた同調者が無言で床に転がる。
「どうして黙ったままなのよ……!」
歯を食いしばりながら、右手で床を叩くように立ち直る。痛む。肩が、足が、呼吸するたびに熱を持っていく。だが美沙が倒れた今、止まることはできなかった。
(――わたしだって、かつては母だった)
そう思った瞬間、次の敵の拳が顔面に迫る。体をひねり、かわした。左肩にかすった拳が突き抜けていく。真正面から突っ込んでくるもうひとりに対しては、真正面から膝を入れた。
「子どもたちをこんなふうに……!」
言葉にならない怒りが、動きの原動力に変わっていた。だが、包囲は崩れない。
美沙の周囲には、すでに十数人が円を描くように立っている。まるで、美沙という存在を囲み、何かを“封印”しようとするかのように。
「返してよ……!」
燈子の拳が一人に届く。倒れる。だがその背後には、すぐに次の影が迫ってくる。
(……だめ、持たない……)
自分でもわかっていた。
だがそれでも――
(今、美沙を……一人にしちゃいけない)
その一心で、燈子は立ち続ける。
自分の拳が、もうどこを打っているのかさえわからない。ただ、囲まれた中心に倒れる美沙の姿だけが、視界に焼き付いていた。
坂東は、街の灯りの滲む夜道を車で流していた。巡回という名目だったが、正確には落ち着かなかったのだ。脳裏にこびりつく“記憶の地図”。複数の証言と子供たちの夢が指し示していた奇妙な一点――旧桜山モール跡地。そこが何かの核であると、どこかで直感していた。
モールの裏手、現在は再開発予定地として立入禁止の柵が設置された一帯。だが坂東は迷わずハンドルを切り、その隅の旧搬入口に車を止めた。ヘッドライトの灯りが、雑草に覆われた舗装路を淡く照らす。古い標識が錆び、壁面のスロープには落書きが浮かぶ。鉄扉の脇には、かすかに誰かの足跡が残っていた。
……違和感。
視界の端、駐車された一台の車。その車体に見覚えがあった。近づいて確認すると、それは――久世燈子の所有する車だった。
「……なんで、こんな場所に……?」
坂東は車を降り、躊躇なくフェンスの隙間から中へと足を踏み入れた。風のない夜。搬入口は無音で口を開けたまま、沈黙を飲み込んでいる。かつて搬入トラックが出入りしていた地下構造。コンクリートの通路を下っていくと、空気が変わった。冷たい。音が、吸い込まれていく。
そして、彼は見た。
倒れている、ふたりの人影。
「神原さん――!? 久世さん!」
駆け寄り、膝をついて確認する。神原美沙は意識がなく、額から流れた血が頬をつたっている。道着の袖は裂け、拳には乾いた血がこびりついていた。顔面には擦過傷が数カ所、唇が切れ、首元まで斑状の痣が浮かんでいた。
隣にいた燈子は、左肩から崩れるように倒れていた。呼吸は浅く、目はうっすらと開いているが、焦点が合っていない。眼鏡は砕け、顔の右半分が砂埃と血で汚れていた。スカートの裾は裂け、膝に土と擦過痕。右手は胸元で丸められ、左手は不自然な角度で伸びていた。白いブラウスには、誰かに掴まれたかのような指の跡がはっきりと残っていた。
あたりに、人影はない。攻撃の気配も、逃走の音も、何も。
まるで戦闘だけが終わり、すべてが引き潮のように消えた後のようだった。
坂東は震える指でスマートフォンを取り出し、救急へと通報した。
「こちら坂東……二名倒れている。意識なし。至急、桜山旧モール搬入口まで……!」
声が震えた。だが抑えきれなかった。
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