EchidnaProjectⅠ-ラミアの眼

ukon osumi

文字の大きさ
22 / 25

第二十一話「破られた絆」

しおりを挟む
  その夜――空気の粒子さえ重く、肌に絡みつくような感触だった。
道場の木製の床に正座し、美沙は黙したまま瞑想を続けていた。窓の外では、風ひとつ吹いていない。それでも空気はざわついていた。気配――この言葉でしか言い表せない“圧”が、地の底から這い上がってくるような感覚だった。
蓮はもう三日、言葉を発していない。
 食事もとらず、眠っているのかどうかも分からない。しろを抱いたまま、ただじっとしている。空間の中で“人”としての存在がぼやけていくようで、美沙は息を詰めてしまうことがあった。
 「……あの場所に、戻るしかない」
 美沙は静かに立ち上がる。空手の道着の上からジャケットを羽織り、髪をひとつに結った。背後では、道場の壁に掛けられた「神原道場」の木札が、わずかにきしんでいる。
 出入口の鍵を閉めたとき、どこか遠くで犬が鳴いた。いや、犬ではない。“あれ”だ。
 彼らは呼んでいる。美沙の内にある“母”の輪郭を、削り取ろうと。
 十五分後、燈子の車が道場前に到着した。言葉はなかった。視線だけが交差する。助手席に乗り込んだ美沙に、燈子は地図を差し出した。
 「旧桜山モールの地下。……“アクセス通路”があるはず」
 「どうしてわかったの?」
 「建築資料と、あの子たちの歩いた軌跡。それと“声”」
 声――それは、夢の中で交わされた記憶の残響。名もない母たちの“祈り”が、都市構造に染み込んだ結果だという。
 車は旧モールの裏手、かつて搬入口だった場所に停まった。周囲は再開発の名目で立ち入り禁止となっており、夜間は完全な無人地帯になっている。
 照明の落ちたコンクリートの空洞。そこにだけ、かすかな振動が響いていた。
 「ここが……入口」
 美沙はジャケットを脱ぎ、道着姿になる。拳を握ったとき、皮膚の内側が熱を帯びるように脈動した。
 階段を下る。濡れた空気が鼻腔を刺す。コンクリートの壁には古びた張り紙や剥がれた塗装が残っていた。
 そして、美沙は見た。
 暗闇の先――そこに、並ぶように立つ人影たち。
 無言。無表情。足元にペットを携えた十数人の若者たち。
 高校生か。いや、体格からして大学生の年代にも見える。全員が同じ角度でこちらを見ていた。見開かれた瞳の奥には、光も感情もなかった。
 「来たのか。……私たちを、“壊し”に」
 燈子の声が震えていた。彼女もまた、ただの学者としてではなく、何かを“背負う者”として、この場に来ていた。
 だが、彼らは応えない。ペットたちの眼だけが、まるでひとつの生き物のように、こちらを見ていた。
 次の瞬間、若者たちが一斉に動いた。
 無音のまま、完全な同調で――突進してきた。
 「美沙!」
 燈子の叫びが後方から聞こえたとき、美沙の身体はすでに動いていた。左足を軸に、下段払いからの裏拳。正面の一人が吹き飛ぶ。
 だが、次がくる。さらに次――数で圧してくる。
 美沙は身を翻し、両手刀で制圧しようとするが、彼らの動きには“ためらい”がない。感情も痛みも感じていないように、次々と飛びかかってくる。
 「ッ!」
 肩に一撃。肘で払いのけ、次の敵に膝蹴りを入れる。だが体勢が崩れた。背後にもう一人。
 振り返る暇もなく、蹴りが背中に入った。
 「ぐ……ッ!」
 壁に叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出される。美沙は歯を食いしばりながら、もう一度立ち上がった。
 「まだ……終わってない」
 目の前には、さらに十人以上の同調者たちが並んでいた――。
 
  突き出された拳を、体をねじって外す。すぐさま反撃の正拳を相手の鳩尾に打ち込む。倒れ込んだ一人を踏み越えた瞬間、左脚の脛に重い衝撃が走った。横からの回し蹴りだ。
 「……ッつ!」
 美沙はよろめきながらも踏ん張り、反撃の足払いで相手の軸を崩す。だが、崩した先にもうひとりいた。肩を掴まれ、肘を打ち込まれる。咄嗟に顎を引いて受けたが、鼻の奥に鈍い痛みが広がった。
 そのまま地面に倒されそうになり、腕を地につけると、反対側から別の足が振り抜かれる。肘で受け止めるが、皮膚の内側で鈍く何かがひびいた。
 「……まだ!」
 地面を蹴り、前転して間合いを取る。呼吸が荒くなっていた。胸が焼けるように苦しい。目の前の光景が、じわじわと霞んでいく。
 敵の顔は見えない。みな表情のない仮面のような顔をしている。目は光を宿さず、ただ“誰か”の意志に沿って動いているだけのようだった。
 「お前たち……どこまで、自分を捨てるつもりなの」
 返事はない。代わりに、また一斉に動き出す。三人が横一列に並び、同時に踏み込んでくる。美沙はその中心の一人の突きを受け止め、体ごと投げた――が、その体勢の崩れを他の二人に狙われた。左から、踵落とし。右から、膝蹴り。
 美沙の体が、ぐらついた。
 腰が落ちる。視界が波打つ。
 (……やられる、だけじゃない。私が、止まったら)
 脳裏に浮かんだのは、蓮の顔だった。無表情で、フェンスの奥を見ていたあの目だ。
 「……まだ倒れないっ!」
 叫ぶように言い放ち、最後の力で踏み込む。最前列の敵の肩を掴み、足を払って倒し、その背を蹴り台にして跳び上がる。空中で身体をひねり、回転と共に旋風脚を振るった。
 一瞬、空気が止まり――次の瞬間、二人が吹き飛んだ。
 が、着地の衝撃が、足首から膝へと響いた。軋むような痛みが骨に伝う。呼吸を整える暇もなく、次の波が押し寄せる。
 背後からの肘打ち。右肩に。骨が軋む音がした。
 振り返った瞬間、掌底が顔面を襲う。よけられなかった。
 頭蓋に鈍い衝撃。視界が一瞬、白く染まる。
 「ッ……!」
 地面に崩れそうになる身体を、膝で支えた。
 そのときだった。
 ――後頭部に、重い一撃が入る。
 何かが、ぽきりと音を立てた気がした。
 脚が、動かない。手が、うまく握れない。視界がぐらぐらと揺れていた。
 (……これで、終わり?)
だが、違う。
唇を噛み、ふらつく体をもう一度だけ起こす。だがそのとき、真正面から迫っていた膝蹴りが、美沙の腹部を貫いた。
 胃の奥から、何かが逆流するような痛み。喉の奥で嘔気がせりあがる。
 よろけた美沙の側頭部に、今度は横から回し蹴りが突き刺さった。
 バランスが崩れ、片膝が落ちる。
 それでも、まだ、立とうとした。
 だが。
 次の一撃は、背後からの跳び膝蹴りだった。
 意識が、ぶつりと切れる。
 音も、光も、遠のいていく。
 「くぅ…っ……」
  膝が折れ、片腕が床についた。その腕もすぐに、力を失った。
 (……まだ……終われな……)
 けれど、その声はもう、自分の中でさえ響いていなかった。
 重力だけが身体を抱え、視界の底へ沈んでいく。

 ――その瞬間、燈子は叫んだ。
 「美沙っ!!」
 声が喉の奥で反響し、敵に囲まれた空間に広がった。振り返ると、美沙はすでに、崩れ落ちた体勢のまま動かない。足元には、もう三、四人の同調者が立ちふさがっていた。
 「どきなさいよッ!」
 低く踏み込む。足首の角度と体重移動だけで、真横にいたひとりの膝裏を崩す。技名など、もう頭にはなかった。身体が覚えている動きだけを繰り返す。つかみかかってきた腕を外し、相手の肘関節を刈るように跳ねると、倒れた同調者が無言で床に転がる。
 「どうして黙ったままなのよ……!」
 歯を食いしばりながら、右手で床を叩くように立ち直る。痛む。肩が、足が、呼吸するたびに熱を持っていく。だが美沙が倒れた今、止まることはできなかった。
 (――わたしだって、かつては母だった)
 そう思った瞬間、次の敵の拳が顔面に迫る。体をひねり、かわした。左肩にかすった拳が突き抜けていく。真正面から突っ込んでくるもうひとりに対しては、真正面から膝を入れた。
 「子どもたちをこんなふうに……!」
 言葉にならない怒りが、動きの原動力に変わっていた。だが、包囲は崩れない。
 美沙の周囲には、すでに十数人が円を描くように立っている。まるで、美沙という存在を囲み、何かを“封印”しようとするかのように。
 「返してよ……!」
 燈子の拳が一人に届く。倒れる。だがその背後には、すぐに次の影が迫ってくる。
 (……だめ、持たない……)
 自分でもわかっていた。
 だがそれでも――
 (今、美沙を……一人にしちゃいけない)
 その一心で、燈子は立ち続ける。
 自分の拳が、もうどこを打っているのかさえわからない。ただ、囲まれた中心に倒れる美沙の姿だけが、視界に焼き付いていた。
 
  坂東は、街の灯りの滲む夜道を車で流していた。巡回という名目だったが、正確には落ち着かなかったのだ。脳裏にこびりつく“記憶の地図”。複数の証言と子供たちの夢が指し示していた奇妙な一点――旧桜山モール跡地。そこが何かの核であると、どこかで直感していた。
モールの裏手、現在は再開発予定地として立入禁止の柵が設置された一帯。だが坂東は迷わずハンドルを切り、その隅の旧搬入口に車を止めた。ヘッドライトの灯りが、雑草に覆われた舗装路を淡く照らす。古い標識が錆び、壁面のスロープには落書きが浮かぶ。鉄扉の脇には、かすかに誰かの足跡が残っていた。
……違和感。
視界の端、駐車された一台の車。その車体に見覚えがあった。近づいて確認すると、それは――久世燈子の所有する車だった。
「……なんで、こんな場所に……?」
坂東は車を降り、躊躇なくフェンスの隙間から中へと足を踏み入れた。風のない夜。搬入口は無音で口を開けたまま、沈黙を飲み込んでいる。かつて搬入トラックが出入りしていた地下構造。コンクリートの通路を下っていくと、空気が変わった。冷たい。音が、吸い込まれていく。
そして、彼は見た。
倒れている、ふたりの人影。
「神原さん――!? 久世さん!」
駆け寄り、膝をついて確認する。神原美沙は意識がなく、額から流れた血が頬をつたっている。道着の袖は裂け、拳には乾いた血がこびりついていた。顔面には擦過傷が数カ所、唇が切れ、首元まで斑状の痣が浮かんでいた。
隣にいた燈子は、左肩から崩れるように倒れていた。呼吸は浅く、目はうっすらと開いているが、焦点が合っていない。眼鏡は砕け、顔の右半分が砂埃と血で汚れていた。スカートの裾は裂け、膝に土と擦過痕。右手は胸元で丸められ、左手は不自然な角度で伸びていた。白いブラウスには、誰かに掴まれたかのような指の跡がはっきりと残っていた。
あたりに、人影はない。攻撃の気配も、逃走の音も、何も。
まるで戦闘だけが終わり、すべてが引き潮のように消えた後のようだった。
坂東は震える指でスマートフォンを取り出し、救急へと通報した。
「こちら坂東……二名倒れている。意識なし。至急、桜山旧モール搬入口まで……!」
声が震えた。だが抑えきれなかった。
目の前の光景が、現実だとは思えなかった。だが確かに、そこには――“祈りの破片”が残されていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

七竈 ~ふたたび、春~

菱沼あゆ
ホラー
 変遷していく呪いに終わりのときは来るのだろうか――?  突然、英嗣の母親に、蔵を整理するから来いと呼び出されたり、相変わらず騒がしい毎日を送っていた七月だが。  ある日、若き市長の要請で、呪いの七竃が切り倒されることになる。  七竃が消えれば、呪いは消えるのか?  何故、急に七竃が切られることになったのか。  市長の意図を探ろうとする七月たちだが――。  学園ホラー&ミステリー

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

きさらぎ駅

水野華奈
ホラー
親友から電話があった。 きさらぎ駅という場所にいるらしい… 日常の中の小さな恐怖が今始まる。 触れてしまったが最後。 二度と戻れない。

唯一魂の侵蝕

白猫斎
ホラー
大学三年、夏。退屈を埋めるための些細な悪ふざけ。 閉鎖された「幽霊マンション」へ足を踏み入れた五人を待っていたのは、光さえも物質として削り取る漆黒の闇だった。 闇を抜け、日常へ帰還したはずの瀬良結希を待っていたのは、決定的な違和感。 事故で失った十五歳の妹、結奈。遺影の中で静止していたはずの彼女が、そこでは「生きた質量」として、温かな吐息を漏らしていた。 喜びに沸く周囲。だが結希だけは気づく。この世界に魂は一つしかない。 私たちがここへ来たのなら、元からいた「私」はどこへ消えたのか。 五感に突き刺さるようなリアリズムで描かれる、実存を賭けた「上書き」の記録。 ※生成AI(Gemini)をプロット検討、文章校正などの補助に使用しています。

紅葉-くれは-

菊池まりな
ホラー
山間の小さな町で行われる秋祭り。 提灯の灯りが揺れる夜、少女・くれはは謎めいた声に導かれるように姿を消した。 必死に探す母・春香は、その瞬間に悟る。 ──これは二十年前にも起きた「忌まわしい出来事」と同じ始まりだ。 町に伝わる古い言い伝え。 “赤い森に呼ばれた者は戻らない” だが、外から赴任してきた刑事・祐真は、その話をただの迷信と切り捨てる。 少女の失踪を追ううちに、彼は次第に目を逸らせぬ現実に直面していく。 森に蠢くもの。木々に浮かぶ人の顔。 血のように濡れた葉が降りしきる中で、人々はひとり、またひとりと消えていく──。 過去と現在が交錯し、町の秘密が暴かれるとき、 くれはの名を呼ぶ声の正体が明らかになる。

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

処理中です...