雪虫

ukon osumi

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雪虫

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雪虫が見えると、雪が降る。

そんなことを最初に教えてくれたのは、たしか小学校の理科の時間だったと思う。白い綿のような虫がふわふわと空を漂い始めると、数日後には初雪が降る。先生は黒板に「トドノネオオワタムシ」と書いたけれど、誰もそんな名前では呼ばなかった。ただ、雪虫だ。

ボクは、雪虫が視界に入った瞬間、必ずタイムリープしてしまう。
白い綿が舞うみたいな、あの虫だ。理由は分からない。条件も、仕組みも、説明できない。ただ、見えた瞬間に世界が裏返る。体が落ちるわけじゃないのに、落ちたように息が詰まり、音が一拍遅れてから戻ってくる。次の瞬間には、別の時間の同じ場所に立っている。

最初にそうなった日のことだけは、妙に具体的に残っている。川沿いの道。放課後の風。コンクリートの縁に積もった砂。そこで彼女が、足を滑らせた。水に落ちる、というほどの大事じゃない。膝下まで届くかどうかの浅い場所で、ただ体勢が崩れて、手すりに指が届かない。
ボクは反射で腕を伸ばした。届いた。手首をつかんで引き上げた。彼女は肩で息をして、髪にくっついた細い草を払った。

「ありがとう」
それだけの声が、想像していたより低くて、落ち着いていた。

「大丈夫?」
ボクが言うと、彼女はうなずいた。
「うん。びっくりした」
笑うでもなく、泣くでもなく、状況を確かめるみたいに言った。

名前を知った。ボクの名前も言った。
その場で何かが始まった、というより、そこに一つ線が引かれた気がした。今まで同じ教室にいても交わらなかった線が、ようやく触れた。その手触りだけが嬉しくて、帰り道の景色が少し違って見えた。

翌日、廊下で目が合った。
彼女が先に小さく会釈した。
ボクも返した。
それだけなのに、胸の奥が静かに動いた。

でも、雪虫は飛ぶ。
秋のある日、校庭の端で白が舞った。風に乗って、視界の隅にふっと入った。
次の瞬間、世界が裏返った。

戻った場所は同じだった。時間も、同じ日付の同じ放課後だった。
川沿いの道に彼女がいた。足を滑らせ、体勢が崩れ、手すりに指が届かない。
ボクはまた腕を伸ばした。届いた。引き上げた。

「ありがとう」
同じ声、同じ言い方。

ボクの胸の奥が、冷えた。
これは偶然じゃない。最初が再生されている。
彼女はボクのことを知らない顔をしていた。昨日の会釈も、廊下の一瞬も、なかったことになっている。

「……大丈夫?」
言葉は出た。出さない選択ができない。出すと、彼女は同じようにうなずいて言う。
「うん。びっくりした」

名乗り合う。
また線が触れる。
でも、触れたはずの線は、雪虫が飛ぶたびに切り戻される。

それから、同じことが続いた。
挨拶をするようになる。
次の日、席が近いと少し話す。
昼休みに、プリントを見せ合う。
「これ、どこ?」
「ここだと思う」
そんな、教科書の端っこみたいな会話が積み上がりそうになる。

そして、雪虫。
視界に白。
世界が裏返る。
また最初から。

彼女は彼女のまま存在する。声も、癖も、言葉の間も変わらない。
変わるのは、ボクとの間にできかけたものだけだ。
昨日言ったことが、今日は言っていないことになる。
昨日笑った場所が、今日はただの廊下になる。
距離は、最初の距離へ戻る。

ボクは何度も、同じ場面に立った。
川沿いで手を伸ばす。
教室で挨拶する。
同じ話題を探して、同じ言葉を選び直す。
うまくいった日の翌日は、必ずそれが無かったことになる。

最初のうちは、やり直せるのが得だと思った。
違う言い方を試せる。別のタイミングで話しかけられる。失敗を消せる。
でも、それは違った。
消えるのは失敗だけじゃない。うまくいったことも全部消える。
積み上がるはずのものが、積み上がらない。

気づいた。
これは、やり直しの力じゃない。
関係を続けることを否定する力だ。

怒りはなかった。絶望もなかった。
ただ、世界の仕組みとしてそうなっている、と理解してしまった。
雪虫を見る。跳ぶ。戻る。
それだけが繰り返される。

ある日、彼女と少しだけ長く話せた。
帰り道が同じになって、川の手前で足を止めた。
「このへん、寒くなると白いの増えるよね」
彼女が空を見ながら言った。
ボクはうなずいた。
「雪みたい」
彼女は短く笑った。
その笑いが、初めてこちらに向いている気がした。

その瞬間、風が揺れた。
視界の端に白が舞った。
雪虫だ。
世界が跳ぶ前の、あの一拍の間が来る。

また最初に戻る。
その確定だけが、胸の奥に残ったまま、世界が裏返りかけた。

裏返った世界の中で、ボクは何度も同じ日を歩いた。
雪虫は、増えていく。
風が吹けば白が舞い、ただ歩いているだけで視界に入る。見ようとして見ているわけじゃない。避けようとしても避けられない。だから跳ぶ。毎回跳ぶ。例外はない。

回数は数えなくなった。
数えた瞬間に、それが意味を持ちそうで嫌だった。
ただ、増えていることだけは分かった。白い点が視界に散るたびに、ボクの中で「また」という言葉が先に立つ。

彼女との関係は、始まりかけては消える。
ある日は、教室で自然に話せた。
次の日は、彼女がボクを知らない目で通り過ぎる。
ある日は、放課後に一緒に帰った。
次の跳びで、その帰り道はなかったことになる。

「明日、続きを話そう」
そう言った口が、雪虫で塞がる。
続きを話す明日が、消える。

彼女は変わらない。
彼女の声の高さも、歩幅も、目線の置き方も。
変わるのは、ボクの側の連続性だけだ。
ボクだけが覚えている。ボクだけが積み上げようとして、ボクだけが何度も初期化される。

最初のうちは、何度でも話しかければいいと思っていた。
でも、同じ言葉を繰り返す自分が、だんだん薄くなる。
彼女の前で「はじめまして」を言うたびに、自分の声が一段だけ軽くなる。
軽くなったものは、戻らない。

そして、ある時、気づいた。
ボクは跳びたくなくなっていた。

世界を変えたいわけじゃない。
運命を回避したいわけでもない。
時間を操りたいとも思っていない。
ただ、彼女と話せる状態を失いたくない。関係が続く状態を失いたくない。
それだけだった。

雪虫が飛ぶ季節の中で、ボクは「見ないようにする」ことを試さなかった。
それは無理だと分かっていた。視界に入る以上、跳ぶ。意思では止められない。
だから、止めたいのは雪虫じゃない。
止めたいのは、この否定の繰り返しだった。

ある日、風が強かった。
白がまとまって流れてくる。
視界の端に入るだけで跳ぶのに、その日は視界の中心にまで白が散った。

跳んだ。
世界が裏返った。
着地する感覚が来て、足裏が地面を掴む。

その瞬間、もう白が見えていた。
着地した瞬間に、すでに雪虫が視界にいる。
理屈の上では、また跳ぶはずだ。連続してリープするはずだ。世界のルールはそういう一貫性でできている。

「あ、また跳ぶ」
そう思った。

次の瞬間、世界は裏返らなかった。
空気が変わらない。音が遅れない。
ただ、足元が少し揺れた。
つま先が段差に引っかかり、体が前に傾いた。
踏み外した。
それだけだった。

手を出して壁に触れ、倒れずに立ち直った。
そして、世界は続いていた。

跳ばない。
雪虫は視界にいるのに、跳ばない。

理由は分からない。
説明しない。説明できない。
選んだわけでも、覚悟したわけでもない。
成長でもない。
ただ、踏み外した結果として、跳びが止まった。

ボクはその時間に残った。
残った時間の中に、彼女もいる。
そして、関係も、その時点のまま残っていた。

翌日、教室で彼女が言った。
「昨日さ、あの話の続きだけど」
その言葉が、当たり前みたいに出た。
当たり前みたいに、続きがある。

ボクは、うなずいた。
「うん」
それだけで良かった。

特別な約束はいらない。
勝利宣言も、意味づけもいらない。
世界は救われないし、世界は変わっていない。
ただ、普通の日常が続く。

放課後、廊下で彼女が隣に並んだ。
歩く速度が同じで、靴音が揃う。
昨日の続きが、今日に繋がる。
それだけが、ボクにとっては十分だった。

窓の外に、雪虫が飛んでいた。
白い点が風に乗って流れていく。
ボクの視界に入る。
でも、世界は裏返らない。

跳ばない自分を確認するみたいに、ボクは一度だけ瞬きをした。
時間は進む。
彼女は隣にいる。
世界はそのまま、続いていく。
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