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第1章「雨の仲町商店街」前編
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夕立は看板の縁をまっすぐ打った。軒から流れた水が白い筋になり、商店街の石畳で跳ねた。和毅は自転車のハンドルを握ったまま速度を落とし、古いトンネルの入口で足を地面に付けた。ブレーキゴムのにおいと濡れた紙袋のにおいが混ざり、湿った空気が低いところへ流れている。
入口の左側、灰色の柱に寄りかかるようにして、一人の少女が前輪を抱えていた。白い襟に太い三本線。布の艶は新しくない。髪は黒く、雨を受けて束になって頬に貼りついている。少女はワイヤーの端を指で摘み、キャリパーのくの字を狭めようとしていた。指先がすべって、金属の端が軽く鳴った。
「手、貸すよ」
和毅は脚立代わりにしていた縁石の上から降り、前輪の上に両手を置いた。少女が顔を上げる。瞳に雨粒が数個、均等に並んでいた。視線が和毅の右手に移る。彼はブレーキのワイヤー留めの六角を親指で探り、ポケットから短いアーレンキーを出した。
「父さんに教わった」
言い切る前に、彼は六角を半回転だけ戻し、ワイヤーを外側へ引いた。左手の四本指で銀色の被覆をつまみ、右手の根もとでキャリパーを寄せる。ワイヤーの余りを小さく出し、留め具を押さえながら再び締める。工具の角が雨で滑らないように、手の付け根をゴムタイヤへ当てて支点を作った。締まり切る瞬間、金属が乾いた音を一度だけ立てた。
少女は手を胸の前で重ねて待っていた。和毅がブレーキレバーを二回引く。レバーの遊びが短くなり、パッドがリムに均等に当たる。前輪を回すと、ゴムが銀の縁を軽く擦る音が一拍、次に消える。
「これで行ける。雨で伸びただけ」
「ありがとうございます」
少女は深く頭を下げた。黒髪から雫が一筋、和毅の手の甲へ落ちた。温度は低く、触れたところだけ冷えた。
「白鳥怜子です。しらとり、れいこ」
彼女は名乗り、手のひらを袖で拭った。和毅は頷いて、自分の名を短く言った。言い終えると同時に、怜子の掌から小さな丸い手鏡が滑り落ちた。柄に白い紐が巻いてある。鏡面が一度、濁った空を映し、次に石畳を映す。和毅は腰をひねって右手を差し込み、落下の軌道を止めた。鏡が掌に収まり、縁の金具が軽く指を噛んだ。
怜子の掌から、小さな丸い手鏡が滑り落ちた。柄に白い紐が巻いてある。鏡面が一度、濁った空を映し、次に石畳を映す。
和毅は腰をひねって右手を差し込み、落下の軌道を止めた。鏡が掌に収まり、縁の金具が軽く指を噛んだ。
「ごめんなさい」
怜子は両手を差し出した。濡れた袖が揺れる。
和毅は鏡の縁を人差し指と親指でつまみ、柄のほうを彼女に向ける。鏡は軽い。縁の金色は摩耗して、ところどころ地の銅色が出ている。
トンネルからは、一定の幅で風が出入りしている。入口の薄暗さは雨で濃く、内側の壁に貼られた古いポスターは端が波打っている。和毅は自分の自転車を押し、怜子の前に立った。二人の靴底が濡れて、石面に小さな音を残す。入って四歩、空気の密度が変わった。湿り気の層を抜けるように、肌の表面で温度の向きが入れ替わる。風は同じ方向へ進んでいるのに、頬を撫でる向きだけが逆になった。
「こっちへ」
怜子が鏡を胸元に当てて、和毅と同じ歩幅に合わせた。壁の反響は一拍遅く、靴音は二人でひとつ分の厚みになって返る。濡れた髪が歩くたびに肩に触れる。鏡の面は二人の顔を混ぜて映し、奥のほうで別の光を抱えている。
中央を過ぎる頃、雨音が遠のいた。代わりに、低い太鼓のような連打が重なって来た。間隔は一定ではない。風の匂いが変わる。油紙の匂い、飴の瓶の甘さ、炭の粉っぽさ。外へ出る前に、和毅は呼吸を一度深くして、肩を落とし、ハンドルの向きを少しだけ正した。
出た先は、見慣れた白い蛍光灯ではなかった。商店街の同じ幅の通りに、背の低い柱が等間隔で立ち、その先で小さな火がゆれていた。
電球ではない。けれど、光は確かに街を照らしていた。
商店街の同じ幅の通りに、背の低い柱が等間隔で立ち、その先で小さな火がゆれていた。
電球ではない。けれど、光は確かに街を照らしている。
和毅は立ち止まり、見上げた。
「……これ、火ですよね? なんて言うんですか、こういうの」
怜子が少し驚いたように目を瞬かせ、すぐ笑った。
「ガス灯です。知らないんですか?」
「初めて見ました。電気じゃないんですね」
「ええ、火のほうが落ち着くんですよ。風があると、少し傾くのが好きで」
怜子は炎を見上げた。その頬に光が柔らかく当たり、影が揺れる。
和毅もつられて見上げ、
「……たしかに、やさしいですね」と呟いた。
風が通りを抜け、炎が一度だけ細く伸びた。
その瞬間、二人の影が石畳の上で重なり、すぐ離れた。
光は丸く、縁が柔らかく落ち、木造の店並みの看板を煤色に沈める。軒の造作は似ているのに、木の継ぎ目の幅が違う。格子戸の桟が細かい。紙風船を蹴る子らの笑い声は同じ高さだが、音の厚みが違う。草履の擦れる音が先行し、下駄の歯が石に当たる音が後から重なった。
和毅は足を止めた。背後から吹く風は先ほどと同じ向きだが、前髪の倒れる方向だけが逆になった。ガス灯の炎が揺れ、青い芯が一瞬細くなる。屋台の上で湯が静かに芯を立て、蓋がわずかに震えた。飴の瓶の中で色の違う飴玉が触れ合い、硬質な音がひとつ跳ねた。鼻腔の奥に砂糖水の甘さが残る。
怜子は両手を前で組み、通りの端を見た。目線の先には祭りの台がある。布の赤は深く、縁に金の糸が縫い込まれている。太鼓の皮が湿りを含んで重そうだが、叩き手の腕は迷いなく上がる。和毅は自転車のスタンドを下ろし、地面に金属の足が触れた音を確認した。タイヤは濡れているが、溝は泥を噛んでいない。
怜子は鏡をそっと下げた。鏡の面にガス灯の炎が二つ映り、和毅の顔の輪郭に重なった。映った彼の像は、現実よりわずかに先に目を伏せ、少し遅れて現実の彼が目を伏せた。怜子はそのずれを見て、息を静かに整えた。胸の上下は小さく、背中の布の皺は増えない。
通りの向こうから、駄菓子屋の女将がのれんを払って外へ出た。年配で、白い前掛けに小さな黒い染みが二つ。女将の目は和毅の服と自転車に留まり、眉が少しだけ寄った。それ以上は近寄らない。怜子が身を半歩、和毅より前に出た。
「直してくださって、助かりました」
怜子は和毅の名を確かめるように、二度呼んだ。音の上がり下がりは同じで、間の取り方は最初より短い。和毅は頷き、口角を少しだけ上げた。笑いは音にならない。雨はない。にもかかわらず、トンネル側から来る風が、彼の頬の内側で逆に触れる。風の層が薄く重なって、肌の表面で方向を変える。
別れは短かった。怜子は自転車を押し、ガス灯の並びに沿って歩き出した。草履の音に合わせて、和毅の靴底が一度だけ動いたが、前へは出ない。彼はスタンドを上げ、ハンドルを握り直した。指先に雨上がりのざらつきが残る。
彼がトンネルへ向き直ると、入口の影は先ほどより濃く、内側の湿りは戻らない。和毅が踏み入れる。空気が肌の表面を裏返す。頬を撫でる向きが再び変わり、耳の中で音の層が入れ替わった。太鼓は遠くなり、蛍光灯の低い唸りが戻る。壁のポスターは同じ位置にあるが、紙の白さが違う。濡れた床に足形が二つ並び、やがて水に埋もれた。
出口の手前、ガラスの自販機が左に立っている。中の飲料のラベルは見慣れたものだが、表面の反射に微かな遅れがある。和毅が近づく。ガラスに映った彼の顔が、現実より先に目を細め、のちに現実の目がそれに合った。彼の肩が一段だけ上がり、すぐに下がる。言葉は出ない。喉仏の位置は動かない。彼は自転車を押し続け、出口の明るさへ出た。
外は夕立の名残の水たまりが薄く残り、アスファルトが黒く光っている。蛍光灯の白は均一で、影は輪郭が硬い。遠くで自転車のベルが鳴った。音は高く、短い。耳には、しばらく太鼓の低い余韻が残っていた。和毅はハンドルを握る位置を少し変え、家へ向かう方角へ車体を向けた。脚の筋肉が最初の一踏みで緊張し、次の一踏みで緩む。その調子で速度が一定になった。
曲がり角の手前、彼は一度だけ振り返った。トンネルの入口の暗さは形を保ち、風は同じ方向へ吹いていた。だが、頬に当たる向きだけが、ほんのわずかに違った。彼は前を向き直り、ペダルを踏み続けた。手の甲には、さっきの雫の冷たさが、まだ残っていた。
読んでくれて、ありがとう。次回は火曜の夜に。
入口の左側、灰色の柱に寄りかかるようにして、一人の少女が前輪を抱えていた。白い襟に太い三本線。布の艶は新しくない。髪は黒く、雨を受けて束になって頬に貼りついている。少女はワイヤーの端を指で摘み、キャリパーのくの字を狭めようとしていた。指先がすべって、金属の端が軽く鳴った。
「手、貸すよ」
和毅は脚立代わりにしていた縁石の上から降り、前輪の上に両手を置いた。少女が顔を上げる。瞳に雨粒が数個、均等に並んでいた。視線が和毅の右手に移る。彼はブレーキのワイヤー留めの六角を親指で探り、ポケットから短いアーレンキーを出した。
「父さんに教わった」
言い切る前に、彼は六角を半回転だけ戻し、ワイヤーを外側へ引いた。左手の四本指で銀色の被覆をつまみ、右手の根もとでキャリパーを寄せる。ワイヤーの余りを小さく出し、留め具を押さえながら再び締める。工具の角が雨で滑らないように、手の付け根をゴムタイヤへ当てて支点を作った。締まり切る瞬間、金属が乾いた音を一度だけ立てた。
少女は手を胸の前で重ねて待っていた。和毅がブレーキレバーを二回引く。レバーの遊びが短くなり、パッドがリムに均等に当たる。前輪を回すと、ゴムが銀の縁を軽く擦る音が一拍、次に消える。
「これで行ける。雨で伸びただけ」
「ありがとうございます」
少女は深く頭を下げた。黒髪から雫が一筋、和毅の手の甲へ落ちた。温度は低く、触れたところだけ冷えた。
「白鳥怜子です。しらとり、れいこ」
彼女は名乗り、手のひらを袖で拭った。和毅は頷いて、自分の名を短く言った。言い終えると同時に、怜子の掌から小さな丸い手鏡が滑り落ちた。柄に白い紐が巻いてある。鏡面が一度、濁った空を映し、次に石畳を映す。和毅は腰をひねって右手を差し込み、落下の軌道を止めた。鏡が掌に収まり、縁の金具が軽く指を噛んだ。
怜子の掌から、小さな丸い手鏡が滑り落ちた。柄に白い紐が巻いてある。鏡面が一度、濁った空を映し、次に石畳を映す。
和毅は腰をひねって右手を差し込み、落下の軌道を止めた。鏡が掌に収まり、縁の金具が軽く指を噛んだ。
「ごめんなさい」
怜子は両手を差し出した。濡れた袖が揺れる。
和毅は鏡の縁を人差し指と親指でつまみ、柄のほうを彼女に向ける。鏡は軽い。縁の金色は摩耗して、ところどころ地の銅色が出ている。
トンネルからは、一定の幅で風が出入りしている。入口の薄暗さは雨で濃く、内側の壁に貼られた古いポスターは端が波打っている。和毅は自分の自転車を押し、怜子の前に立った。二人の靴底が濡れて、石面に小さな音を残す。入って四歩、空気の密度が変わった。湿り気の層を抜けるように、肌の表面で温度の向きが入れ替わる。風は同じ方向へ進んでいるのに、頬を撫でる向きだけが逆になった。
「こっちへ」
怜子が鏡を胸元に当てて、和毅と同じ歩幅に合わせた。壁の反響は一拍遅く、靴音は二人でひとつ分の厚みになって返る。濡れた髪が歩くたびに肩に触れる。鏡の面は二人の顔を混ぜて映し、奥のほうで別の光を抱えている。
中央を過ぎる頃、雨音が遠のいた。代わりに、低い太鼓のような連打が重なって来た。間隔は一定ではない。風の匂いが変わる。油紙の匂い、飴の瓶の甘さ、炭の粉っぽさ。外へ出る前に、和毅は呼吸を一度深くして、肩を落とし、ハンドルの向きを少しだけ正した。
出た先は、見慣れた白い蛍光灯ではなかった。商店街の同じ幅の通りに、背の低い柱が等間隔で立ち、その先で小さな火がゆれていた。
電球ではない。けれど、光は確かに街を照らしていた。
商店街の同じ幅の通りに、背の低い柱が等間隔で立ち、その先で小さな火がゆれていた。
電球ではない。けれど、光は確かに街を照らしている。
和毅は立ち止まり、見上げた。
「……これ、火ですよね? なんて言うんですか、こういうの」
怜子が少し驚いたように目を瞬かせ、すぐ笑った。
「ガス灯です。知らないんですか?」
「初めて見ました。電気じゃないんですね」
「ええ、火のほうが落ち着くんですよ。風があると、少し傾くのが好きで」
怜子は炎を見上げた。その頬に光が柔らかく当たり、影が揺れる。
和毅もつられて見上げ、
「……たしかに、やさしいですね」と呟いた。
風が通りを抜け、炎が一度だけ細く伸びた。
その瞬間、二人の影が石畳の上で重なり、すぐ離れた。
光は丸く、縁が柔らかく落ち、木造の店並みの看板を煤色に沈める。軒の造作は似ているのに、木の継ぎ目の幅が違う。格子戸の桟が細かい。紙風船を蹴る子らの笑い声は同じ高さだが、音の厚みが違う。草履の擦れる音が先行し、下駄の歯が石に当たる音が後から重なった。
和毅は足を止めた。背後から吹く風は先ほどと同じ向きだが、前髪の倒れる方向だけが逆になった。ガス灯の炎が揺れ、青い芯が一瞬細くなる。屋台の上で湯が静かに芯を立て、蓋がわずかに震えた。飴の瓶の中で色の違う飴玉が触れ合い、硬質な音がひとつ跳ねた。鼻腔の奥に砂糖水の甘さが残る。
怜子は両手を前で組み、通りの端を見た。目線の先には祭りの台がある。布の赤は深く、縁に金の糸が縫い込まれている。太鼓の皮が湿りを含んで重そうだが、叩き手の腕は迷いなく上がる。和毅は自転車のスタンドを下ろし、地面に金属の足が触れた音を確認した。タイヤは濡れているが、溝は泥を噛んでいない。
怜子は鏡をそっと下げた。鏡の面にガス灯の炎が二つ映り、和毅の顔の輪郭に重なった。映った彼の像は、現実よりわずかに先に目を伏せ、少し遅れて現実の彼が目を伏せた。怜子はそのずれを見て、息を静かに整えた。胸の上下は小さく、背中の布の皺は増えない。
通りの向こうから、駄菓子屋の女将がのれんを払って外へ出た。年配で、白い前掛けに小さな黒い染みが二つ。女将の目は和毅の服と自転車に留まり、眉が少しだけ寄った。それ以上は近寄らない。怜子が身を半歩、和毅より前に出た。
「直してくださって、助かりました」
怜子は和毅の名を確かめるように、二度呼んだ。音の上がり下がりは同じで、間の取り方は最初より短い。和毅は頷き、口角を少しだけ上げた。笑いは音にならない。雨はない。にもかかわらず、トンネル側から来る風が、彼の頬の内側で逆に触れる。風の層が薄く重なって、肌の表面で方向を変える。
別れは短かった。怜子は自転車を押し、ガス灯の並びに沿って歩き出した。草履の音に合わせて、和毅の靴底が一度だけ動いたが、前へは出ない。彼はスタンドを上げ、ハンドルを握り直した。指先に雨上がりのざらつきが残る。
彼がトンネルへ向き直ると、入口の影は先ほどより濃く、内側の湿りは戻らない。和毅が踏み入れる。空気が肌の表面を裏返す。頬を撫でる向きが再び変わり、耳の中で音の層が入れ替わった。太鼓は遠くなり、蛍光灯の低い唸りが戻る。壁のポスターは同じ位置にあるが、紙の白さが違う。濡れた床に足形が二つ並び、やがて水に埋もれた。
出口の手前、ガラスの自販機が左に立っている。中の飲料のラベルは見慣れたものだが、表面の反射に微かな遅れがある。和毅が近づく。ガラスに映った彼の顔が、現実より先に目を細め、のちに現実の目がそれに合った。彼の肩が一段だけ上がり、すぐに下がる。言葉は出ない。喉仏の位置は動かない。彼は自転車を押し続け、出口の明るさへ出た。
外は夕立の名残の水たまりが薄く残り、アスファルトが黒く光っている。蛍光灯の白は均一で、影は輪郭が硬い。遠くで自転車のベルが鳴った。音は高く、短い。耳には、しばらく太鼓の低い余韻が残っていた。和毅はハンドルを握る位置を少し変え、家へ向かう方角へ車体を向けた。脚の筋肉が最初の一踏みで緊張し、次の一踏みで緩む。その調子で速度が一定になった。
曲がり角の手前、彼は一度だけ振り返った。トンネルの入口の暗さは形を保ち、風は同じ方向へ吹いていた。だが、頬に当たる向きだけが、ほんのわずかに違った。彼は前を向き直り、ペダルを踏み続けた。手の甲には、さっきの雫の冷たさが、まだ残っていた。
読んでくれて、ありがとう。次回は火曜の夜に。
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