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第1章「雨の仲町商店街」後編
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和毅はトンネルを抜け、濡れた舗装にタイヤを取られながら減速した。背中を押していた湿気が一瞬で軽くなり、風の向きが頬の外側だけで変わった。
空はすでに薄明るく、蛍光灯の白が通り全体を均等に照らしている。ガス灯の炎はない。そこにあるのは、令和の夜の光だった。
左側に、錆びたトタン屋根の酒屋。軒先に吊るされたプラスチック看板には〈キリンビール〉の文字。店主がケースを片づけている。
そのすぐ脇に、赤い自販機が立っていた。雨粒を弾く音が細かく響き、青い「COLD」のランプが、点滅もなく一定に光っている。
和毅は自転車を止め、ハンドルを支えたままガラス面に顔を寄せた。
映った自分の像が、現実と同じタイミングでまばたきする。
さっきのような半拍の遅れは、もうない。
「兄ちゃん、濡れたまま走ると転ぶぞ」
酒屋の店主が肩越しに声をかけてくる。
腕に巻かれた腕時計の盤面が蛍光灯を反射して白く光った。
和毅は「ああ」と短く返し、店主の横を抜けて自販機の正面に立つ。
冷気の吹き出し口から一定の温風が足首を撫でた。指でガラス面を軽く叩く。音は乾いて一つ。
映像の遅れはない。ここが表側――令和だ。
けれど、ガラスの角に小さな水滴が残っていて、それが外気と内気の境で震えている。
その揺れ方だけが、どこか“裏”を思わせた。
店主がケースを抱えて奥へ引っ込み、通りは静かになった。
遠くで自転車のベルが短く鳴り、雨上がりの風が吹き抜ける。
和毅はハンドルを握り直し、トンネルのほうを振り返った。
入り口の向こうは、もう完全な闇だった。
奥からは風も匂いも出てこない。
あのとき感じた“面を返す感覚”も、今はどこにもない。
――やっぱり、戻ってきたんだ。
胸の奥でそう呟く代わりに、ペダルを踏んだ。
チェーンが軽く回り、後輪が小さく水を跳ね上げる。
街の灯りが均一に流れ、店の看板がひとつずつ後ろへ消えていく。
ガス灯ではなく蛍光灯。
太鼓ではなくベル。
飴の甘い匂いではなく、揚げ油とアスファルトの匂い。
信号が変わる。赤から青へ。その一瞬、濡れた舗道に映った自分の影が、わずかに遅れて動いた。
その遅れは、怜子の頬の揺れと同じ半拍だった気がする。
ブレーキを軽く握り、呼吸を整える。胸の中に、冷たく澄んだ空気が入り、吐くたびに霧が薄く伸びる。
それでも――指先にはまだ、あの小さな鏡の冷たさが残っていた。
ポケットの中で金属の縁をなぞると、わずかに光が返る。
ほんの一瞬だけ、その反射の中の自分が、半拍先に頷いたように見えた。
夜風がそれを確かめるように、肩口を撫でて過ぎていく。
和毅は目を閉じず、まっすぐ前を見た。
街の光が、もう一度だけ裏返って見えた。
空はすでに薄明るく、蛍光灯の白が通り全体を均等に照らしている。ガス灯の炎はない。そこにあるのは、令和の夜の光だった。
左側に、錆びたトタン屋根の酒屋。軒先に吊るされたプラスチック看板には〈キリンビール〉の文字。店主がケースを片づけている。
そのすぐ脇に、赤い自販機が立っていた。雨粒を弾く音が細かく響き、青い「COLD」のランプが、点滅もなく一定に光っている。
和毅は自転車を止め、ハンドルを支えたままガラス面に顔を寄せた。
映った自分の像が、現実と同じタイミングでまばたきする。
さっきのような半拍の遅れは、もうない。
「兄ちゃん、濡れたまま走ると転ぶぞ」
酒屋の店主が肩越しに声をかけてくる。
腕に巻かれた腕時計の盤面が蛍光灯を反射して白く光った。
和毅は「ああ」と短く返し、店主の横を抜けて自販機の正面に立つ。
冷気の吹き出し口から一定の温風が足首を撫でた。指でガラス面を軽く叩く。音は乾いて一つ。
映像の遅れはない。ここが表側――令和だ。
けれど、ガラスの角に小さな水滴が残っていて、それが外気と内気の境で震えている。
その揺れ方だけが、どこか“裏”を思わせた。
店主がケースを抱えて奥へ引っ込み、通りは静かになった。
遠くで自転車のベルが短く鳴り、雨上がりの風が吹き抜ける。
和毅はハンドルを握り直し、トンネルのほうを振り返った。
入り口の向こうは、もう完全な闇だった。
奥からは風も匂いも出てこない。
あのとき感じた“面を返す感覚”も、今はどこにもない。
――やっぱり、戻ってきたんだ。
胸の奥でそう呟く代わりに、ペダルを踏んだ。
チェーンが軽く回り、後輪が小さく水を跳ね上げる。
街の灯りが均一に流れ、店の看板がひとつずつ後ろへ消えていく。
ガス灯ではなく蛍光灯。
太鼓ではなくベル。
飴の甘い匂いではなく、揚げ油とアスファルトの匂い。
信号が変わる。赤から青へ。その一瞬、濡れた舗道に映った自分の影が、わずかに遅れて動いた。
その遅れは、怜子の頬の揺れと同じ半拍だった気がする。
ブレーキを軽く握り、呼吸を整える。胸の中に、冷たく澄んだ空気が入り、吐くたびに霧が薄く伸びる。
それでも――指先にはまだ、あの小さな鏡の冷たさが残っていた。
ポケットの中で金属の縁をなぞると、わずかに光が返る。
ほんの一瞬だけ、その反射の中の自分が、半拍先に頷いたように見えた。
夜風がそれを確かめるように、肩口を撫でて過ぎていく。
和毅は目を閉じず、まっすぐ前を見た。
街の光が、もう一度だけ裏返って見えた。
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