3 / 8
第2章「再びの邂逅」前編
しおりを挟む
湿度の層を抜けた瞬間、空気の向きが変わった。
蛍光灯の白は消え、やわらかな橙が並んでいる。
それがガス灯の光だと、もう知っていた。前に見たときと同じ高さ、同じ間隔。けれど今は、炎そのものが呼吸しているように見えた。
和毅は自転車を押して進む。風が頬を撫で、金属の匂いがかすかに混じる。トンネルの出口に残る湿気が、背後から引き戻すようにまとわりついたが、彼は振り返らなかった。
確かめたいのは、もう一つの光景のほうだった。
のれんの奥で木の棚が軋む音がした。
駄菓子屋の入口から怜子が出てくる。
「また来てくれたんですね」
「うん」
それだけで、灯りが少し明るくなったように見えた。怜子の髪に小さな光が点のように留まり、風が通るたびに位置を変える。
怜子はレバーを軽く引いて見せた。
「ブレーキ、ちゃんと効いてます。ありがとうございました」
「よかった。昨日、ワイヤーがだいぶ緩んでたから」
「本当に助かりました。あの……お名前、うかがってもいいですか?」
「橘です。橘和毅」
怜子は小さく繰り返した。
「橘さん……いいお名前ですね」
和毅はわずかに視線をそらし、うなずいた。
炎が風に揺れ、二人の影が石畳の上で重なり、すぐ離れた。
女将が店の奥から顔を出し、縁台を顎で示した。
「そこ、座っといで」
二人は並んで腰を下ろした。板は少し湿っていて、沈むように軋む。ガス灯の光が瓶詰めの飴に反射し、壁に淡い影を作る。
怜子は瓶の前で指を止めた。
「風が通りますね。ここ、いつも気持ちいいんです」
「たしかに。さっきまで息が重かったのに」
「店が多いから、甘い匂いが混じるんですよ」
「……そうか。俺のほうの通りは、もう少し乾いてる」
怜子が首を傾げた。
「同じ通りでも、風が違うんですね」
「うん、なんかそんな気がする」
怜子は瓶から二つの紙包みを取った。
「梅と金柑、どちらがいいですか」
「金柑で」
包みを渡す指が軽く触れる。和毅は紙をひねって開いた。丸い飴が掌で転がり、舌に載せるとひやりとした冷たさが広がる。
ほんの少し酸っぱく、あとから甘さが追ってくる。怜子も同じ動きで飴を口に含み、頬の内側がふくらんだ。
「この飴、風に乗るんです」
「風に?」
「ええ。ほら、少し金柑の匂いが混じってきませんか」
和毅は鼻で息を吸った。
「……たしかに。前より甘い」
怜子は小さく笑って頷いた。
「ね、言ったとおりでしょう」
屋根の下で風が鳴り、瓶の布がふわりと膨らむ。
太鼓の音が遠くで一つ響き、和毅が耳を傾けると、怜子も同じ方向を見た。
「この石畳、きれいですね」
和毅が足先で目地をなぞる。
「ええ。雨の日は滑るけれど、乾くと光るんです」
「……そうなんだ」
「通りが少し広いの、気づきました?」
「うん。でも、どこかで見た気もする」
「見た?」
「うん。……同じ場所なのに、違うみたいな」
怜子は一瞬だけ言葉を止め、微笑んだ。
「そういうこと、ありますね」
沈黙が流れる。けれど重くはない。
ガス灯の炎がわずかに揺れ、光の輪が二人の膝のあたりを撫でていく。
「この灯り、落ち着きますね」
和毅が言うと、怜子は頷いた。
「炎は呼吸しますから」
「呼吸?」
「ほら、見てください」
怜子は指でガス灯を指した。炎が風に合わせて揺れ、影が壁をゆらゆらと動かす。
「……ほんとだ。息してるみたいだ」
「でしょう?」
怜子の目が光を受けて少しだけ明るくなった。
通りを紙風船が転がっていく。子どもたちの笑い声が庇に跳ね、炎の光がその笑いに合わせて強くなったり弱くなったりする。
怜子がそれを見て、微笑む。
「この辺の子は、風を見るのが上手なんです」
「風を、見る?」
「ええ。風の通り道を知ってると、紙風船が遠くまで飛ばせます」
「なるほど」
和毅がうなずくと、怜子はうれしそうに目を細めた。
女将が甕に水を足す音がして、冷たい響きが静かに広がる。怜子はその音に耳を傾けた。
「ここは夏でも涼しいんですよ」
「たしかに。息が軽い」
和毅の言葉に怜子は頷き、袖口を整える。布の動きが風の流れに合い、和毅の側で紙片が一枚だけふわりと浮かんだ。
その紙片は風に乗り、飴の瓶の上をかすめ、縁台の端をかるく打った。
陽の名残のような光が透け、文字のような影が一瞬だけ石畳に映る。
怜子が息を吸い、袖で押さえようとしたが、紙はするりと逃げた。
和毅は手を伸ばしかけてやめる。追えば届く距離だったが、触れてはいけない気がした。
風が一度だけ逆に流れ、二人の間を抜けていった。
二人はそれを追わず、ただ見送った。
紙片が石畳に落ち、金柑の香りが淡く残る。
「また……来られますか」
怜子の声は小さいが、確かだった。
「うん。たぶん」
「たぶん、ですか」
「いや、きっと」
怜子は静かに笑い、のれんの端を押さえた。
その笑みの奥に、和毅は昨日と同じ空気を見つけた。
炎が揺れ、通りの光が少しだけ濃くなった。
トンネルの湿度も、風の匂いも、もう恐ろしくはなかった。
そこに“戻ってきた”という確信だけが、彼の胸にあった。
読んでくれて、ありがとう。次回は金曜の夜に。
蛍光灯の白は消え、やわらかな橙が並んでいる。
それがガス灯の光だと、もう知っていた。前に見たときと同じ高さ、同じ間隔。けれど今は、炎そのものが呼吸しているように見えた。
和毅は自転車を押して進む。風が頬を撫で、金属の匂いがかすかに混じる。トンネルの出口に残る湿気が、背後から引き戻すようにまとわりついたが、彼は振り返らなかった。
確かめたいのは、もう一つの光景のほうだった。
のれんの奥で木の棚が軋む音がした。
駄菓子屋の入口から怜子が出てくる。
「また来てくれたんですね」
「うん」
それだけで、灯りが少し明るくなったように見えた。怜子の髪に小さな光が点のように留まり、風が通るたびに位置を変える。
怜子はレバーを軽く引いて見せた。
「ブレーキ、ちゃんと効いてます。ありがとうございました」
「よかった。昨日、ワイヤーがだいぶ緩んでたから」
「本当に助かりました。あの……お名前、うかがってもいいですか?」
「橘です。橘和毅」
怜子は小さく繰り返した。
「橘さん……いいお名前ですね」
和毅はわずかに視線をそらし、うなずいた。
炎が風に揺れ、二人の影が石畳の上で重なり、すぐ離れた。
女将が店の奥から顔を出し、縁台を顎で示した。
「そこ、座っといで」
二人は並んで腰を下ろした。板は少し湿っていて、沈むように軋む。ガス灯の光が瓶詰めの飴に反射し、壁に淡い影を作る。
怜子は瓶の前で指を止めた。
「風が通りますね。ここ、いつも気持ちいいんです」
「たしかに。さっきまで息が重かったのに」
「店が多いから、甘い匂いが混じるんですよ」
「……そうか。俺のほうの通りは、もう少し乾いてる」
怜子が首を傾げた。
「同じ通りでも、風が違うんですね」
「うん、なんかそんな気がする」
怜子は瓶から二つの紙包みを取った。
「梅と金柑、どちらがいいですか」
「金柑で」
包みを渡す指が軽く触れる。和毅は紙をひねって開いた。丸い飴が掌で転がり、舌に載せるとひやりとした冷たさが広がる。
ほんの少し酸っぱく、あとから甘さが追ってくる。怜子も同じ動きで飴を口に含み、頬の内側がふくらんだ。
「この飴、風に乗るんです」
「風に?」
「ええ。ほら、少し金柑の匂いが混じってきませんか」
和毅は鼻で息を吸った。
「……たしかに。前より甘い」
怜子は小さく笑って頷いた。
「ね、言ったとおりでしょう」
屋根の下で風が鳴り、瓶の布がふわりと膨らむ。
太鼓の音が遠くで一つ響き、和毅が耳を傾けると、怜子も同じ方向を見た。
「この石畳、きれいですね」
和毅が足先で目地をなぞる。
「ええ。雨の日は滑るけれど、乾くと光るんです」
「……そうなんだ」
「通りが少し広いの、気づきました?」
「うん。でも、どこかで見た気もする」
「見た?」
「うん。……同じ場所なのに、違うみたいな」
怜子は一瞬だけ言葉を止め、微笑んだ。
「そういうこと、ありますね」
沈黙が流れる。けれど重くはない。
ガス灯の炎がわずかに揺れ、光の輪が二人の膝のあたりを撫でていく。
「この灯り、落ち着きますね」
和毅が言うと、怜子は頷いた。
「炎は呼吸しますから」
「呼吸?」
「ほら、見てください」
怜子は指でガス灯を指した。炎が風に合わせて揺れ、影が壁をゆらゆらと動かす。
「……ほんとだ。息してるみたいだ」
「でしょう?」
怜子の目が光を受けて少しだけ明るくなった。
通りを紙風船が転がっていく。子どもたちの笑い声が庇に跳ね、炎の光がその笑いに合わせて強くなったり弱くなったりする。
怜子がそれを見て、微笑む。
「この辺の子は、風を見るのが上手なんです」
「風を、見る?」
「ええ。風の通り道を知ってると、紙風船が遠くまで飛ばせます」
「なるほど」
和毅がうなずくと、怜子はうれしそうに目を細めた。
女将が甕に水を足す音がして、冷たい響きが静かに広がる。怜子はその音に耳を傾けた。
「ここは夏でも涼しいんですよ」
「たしかに。息が軽い」
和毅の言葉に怜子は頷き、袖口を整える。布の動きが風の流れに合い、和毅の側で紙片が一枚だけふわりと浮かんだ。
その紙片は風に乗り、飴の瓶の上をかすめ、縁台の端をかるく打った。
陽の名残のような光が透け、文字のような影が一瞬だけ石畳に映る。
怜子が息を吸い、袖で押さえようとしたが、紙はするりと逃げた。
和毅は手を伸ばしかけてやめる。追えば届く距離だったが、触れてはいけない気がした。
風が一度だけ逆に流れ、二人の間を抜けていった。
二人はそれを追わず、ただ見送った。
紙片が石畳に落ち、金柑の香りが淡く残る。
「また……来られますか」
怜子の声は小さいが、確かだった。
「うん。たぶん」
「たぶん、ですか」
「いや、きっと」
怜子は静かに笑い、のれんの端を押さえた。
その笑みの奥に、和毅は昨日と同じ空気を見つけた。
炎が揺れ、通りの光が少しだけ濃くなった。
トンネルの湿度も、風の匂いも、もう恐ろしくはなかった。
そこに“戻ってきた”という確信だけが、彼の胸にあった。
読んでくれて、ありがとう。次回は金曜の夜に。
0
あなたにおすすめの小説
婚活に疲れたアラサーOLの私、癒やし的存在の弟分(高校生)に「もう待てない」と外堀を埋められています ~10年分の執着は、甘すぎて重すぎる~
ダルい
恋愛
「29歳? 子供産むならもっと若い子がよかったな」
中堅企業で働く早川結衣(29)は、婚活市場における年齢の壁と、デリカシーのない男たちにすり減らされる日々を送っていた。
そんな結衣の唯一の癒やしは、マンションの隣に住む幼馴染の高校生・瀬戸湊(16)。
両親が共働きの彼に代わって、幼い頃はお世話をしてあげていた……はずが、いつの間にか立場は逆転。
手料理を振る舞われ、愚痴を聞かれ、マッサージまでされる始末。「湊がお嫁さんならいいのに」なんて冗談を言っていたけれど。
「今の結衣姉が一番綺麗だよ。……早く、誰も手出しできない『おばさん』になってくれればいいのに」
可愛い弟分だと思っていた彼が、時折見せる『オス』の顔。
16歳の高校生と、もうすぐ30歳のアラサー。
13歳差の常識と理性に抗いながら、生意気な年下男子に外堀を埋められていく、甘くて重い現状維持(ラブストーリー)。
「俺が大人になるまで、誰とも結婚しないで」
癒やされたいすべての女性に贈る、最強の年下幼馴染による溺愛包囲網、開始。
拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました
星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝――
路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、
気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる