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第2章「再びの邂逅」後編
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駄菓子屋の縁台から立ち上がると、怜子は紙袋の口を折って、指で角をきれいに揃えた。袋の皺が一筋ずつ消え、光が面に沿って走る。彼女は掌の奥から手鏡を出し、その縁を親指の腹で一度なぞった。金属が低く鳴る。
「これ、あなたに預けるね」
和毅が受け取ると、鏡面に提灯の赤がのぼり、遅れて怜子の瞳が灯った。鏡の中の彼女の笑みが、現実の口元より半呼吸ぶん早い。和毅は意識して息を止め、像のほうが先にまばたきを終えるのを確かめた。
「返すときは?」
「次に会うときでいいの」
怜子は自転車のハンドルを軽く押し、前輪のゴムが地面を短く擦る音を出す。ハンドルのベルが触れもしないのに細く鳴った。風が通りを抜け、提灯の列の端から端へと順に揺れが移動する。鏡の中では逆向きに波が走った。
「また、ここで」
「うん」
和毅がうなずくと、怜子は駄菓子屋の軒から出て、通りの奥へ歩いた。足音が板の継ぎ目ごとに高さを変え、やがて太鼓の基音だけが残る。和毅は鏡を胸の前に立て、角度を少しずつ変える。怜子の背中は現実では小さくなるのに、鏡の中ではいったん近づき、それから遠ざかった。面の向きだけが入れ替わっていた。
トンネルの口は湿り、壁の石が汗をかいている。和毅は境目の風に片足から触れ、靴底の溝で水たまりの縁を切った。空気がひっくり返る。頬に当たる流れは同じで、撫でる向きだけが逆になる。耳が内側へ絞られ、太鼓の基音が一段沈んだ。
歩幅を狭めて進む。水滴が均等な間隔で天井から落ち、床で跳ねる。鏡を胸の高さに構えると、落下の列は鏡の中でわずかに速い。和毅は指先の圧を一定に保って、鏡面の中心をトンネルの出口の白に合わせた。白が広がり、湿度が離れていく。表の風が肩を乾かす。
横断歩道の信号が変わる。電子音の高さが三段階で下がり、歩道に並ぶ人の膝が一斉にほどける。アスファルトに水の匂いが薄く残る。和毅は家までの坂を押し、途中で鏡を取り出して街灯の根元に立てかけた。街灯の影は彼の背後へ伸びるが、鏡の中では手前へ滑る。自転車のリムが短い光輪を作り、回転と逆向きの線が鏡の面でだけ進む。表裏の風が交差する位置に自分が立っているのが、影の向きで分かった。
玄関を開けると、油の香りが軽く立っていた。
「おかえり。手、洗って」
台所から母の声。流しの水がまっすぐ落ち、シンクの底で揺れる。和毅は蛇口を絞り、手鏡を流し台の棚に立ててみた。鏡の中の水面は現実より先に静まり、最後の波紋だけが遅れて残る。
「今日は塩鮭と冷や奴。あと味噌汁」
「うん」
食卓に座ると、テレビの音が壁で反射し、箸が茶碗に触れるたびに小さく跳ね返る。和毅は会釈して椀を持ち、湯気の向きを見た。湯気は窓へ流れる。鏡の中の湯気は、いったん天井へ上がってから窓へ行く。流路が一度折れている。母が置いたコップの水面に光が揺れ、鏡の中だけ波の向きが逆だった。
「遅かったね」
「うん、ちょっと寄り道した」
「ふうん。ごはん、温め直す?」
「そのままでいい」
母が笑い、氷の入ったピッチャーを傾ける。氷がぶつかる音が三度鳴り、最後の一個だけが遅れて沈んだ。鏡の中では最初の一個が沈み、残りが後から追う。整列の順番が表と裏で入れ替わる。和毅は返事をして、鮭の皮の端を箸で押さえ、身の層を一枚ずつ剥いだ。塩の結晶が白く光る。舌に載せると、遠い太鼓の基音が喉の奥で揺れた。
食後、和毅は部屋に戻り、机の上を整えた。教科書、ノート、ペン。手鏡は立てずに、まず机に伏せた。鏡の裏の花模様が照明を柔らかく拾う。窓を十センチだけ開け、風の入り口を固定する。カーテンが一定の間隔で膨らみ、引く。窓の外、電線の上に鳥が二羽止まり、頭だけ同時に動いた。鏡を起こして電線を映すと、鳥の動きは左右で逆向きになる。現実で首が右に回れば、鏡では左。だが回し終える高さは一致する。和毅は電線のたるみの曲率を目で測り、鏡と現実の輪郭が同じ値であることを確認した。向きだけが違う。
机に鞄を置く。教科書が少し傾き、ページの端が風でめくれる。閉じてもまた開く。
手のひらに残った飴の匂いが薄れていく。水を飲み、空になったコップを机の隅に押しやった。
部屋の空気は昼より重く、窓の外の明かりが白く反射している。
和毅は立ち上がり、カーテンの裾を指でつまんで離した。布のしなりが遅れて戻る。
ベッドの上に制服の上着を置く。肩が落ちる音がして、静かになる。
息をひとつ吐く。天井の影がわずかに動き、すぐ止まる。
スマートフォンを手に取り、画面をつけないまま机に戻す。
光がひとつ減り、部屋の輪郭が柔らかくなった。
そのまま椅子に腰を下ろし、何も見ずに指先を合わせる。
時間を測るでもなく、考えるでもなく、ただ指の温度だけが続いていた。
外で犬が吠え、風の向きが変わる。カーテンがふくらみ、静かに落ちる。
部屋の中には、自分の呼吸と机の木の匂いしか残らない。
「ただいまー」
玄関のドアが開き、父の声。靴の底がマットで水気を落とす音が二度。母の声が返る。会話の高さは日常のままで、間の取り方も同じだ。違うのは、和毅の胸の鼓動が太鼓の基音と絡むこと。音が合うたび、鏡面の光が細く脈打つ。
夜が濃くなる。窓の外の空が黒へ寄り、屋根の稜線が一本の線になる。飴の包み紙をもう一度指で折り、耳元で小さく鳴らす。乾いた音が部屋の四方で返り、鏡の中で同じ回数だけ返る。回数は同じだが、初めの一音と終わりの一音が入れ替わる。始まりと終わりの交換。それがこの鏡面の規則だ。和毅は包み紙を指先で放り、机の角で受けた。跳ね返りの角度は現実も鏡も同じ。着地点だけが左右で反転する。
廊下の明かりが消え、台所でコップが重なる音が一度。家全体の空気が深く吸って、ゆっくり吐く。和毅は立ち上がり、窓を少しだけ閉めた。隙間から入る風が細くなり、カーテンの裾の揺れ幅が半分になる。鏡の中でも同じ幅で揺れが減る。揺れの周期は変わらない。向きだけが決まる。
机に戻り、帳面の端に短い言葉を一つ書いた。
読んでくれて、ありがとう。次回は火曜日の夜に。
「これ、あなたに預けるね」
和毅が受け取ると、鏡面に提灯の赤がのぼり、遅れて怜子の瞳が灯った。鏡の中の彼女の笑みが、現実の口元より半呼吸ぶん早い。和毅は意識して息を止め、像のほうが先にまばたきを終えるのを確かめた。
「返すときは?」
「次に会うときでいいの」
怜子は自転車のハンドルを軽く押し、前輪のゴムが地面を短く擦る音を出す。ハンドルのベルが触れもしないのに細く鳴った。風が通りを抜け、提灯の列の端から端へと順に揺れが移動する。鏡の中では逆向きに波が走った。
「また、ここで」
「うん」
和毅がうなずくと、怜子は駄菓子屋の軒から出て、通りの奥へ歩いた。足音が板の継ぎ目ごとに高さを変え、やがて太鼓の基音だけが残る。和毅は鏡を胸の前に立て、角度を少しずつ変える。怜子の背中は現実では小さくなるのに、鏡の中ではいったん近づき、それから遠ざかった。面の向きだけが入れ替わっていた。
トンネルの口は湿り、壁の石が汗をかいている。和毅は境目の風に片足から触れ、靴底の溝で水たまりの縁を切った。空気がひっくり返る。頬に当たる流れは同じで、撫でる向きだけが逆になる。耳が内側へ絞られ、太鼓の基音が一段沈んだ。
歩幅を狭めて進む。水滴が均等な間隔で天井から落ち、床で跳ねる。鏡を胸の高さに構えると、落下の列は鏡の中でわずかに速い。和毅は指先の圧を一定に保って、鏡面の中心をトンネルの出口の白に合わせた。白が広がり、湿度が離れていく。表の風が肩を乾かす。
横断歩道の信号が変わる。電子音の高さが三段階で下がり、歩道に並ぶ人の膝が一斉にほどける。アスファルトに水の匂いが薄く残る。和毅は家までの坂を押し、途中で鏡を取り出して街灯の根元に立てかけた。街灯の影は彼の背後へ伸びるが、鏡の中では手前へ滑る。自転車のリムが短い光輪を作り、回転と逆向きの線が鏡の面でだけ進む。表裏の風が交差する位置に自分が立っているのが、影の向きで分かった。
玄関を開けると、油の香りが軽く立っていた。
「おかえり。手、洗って」
台所から母の声。流しの水がまっすぐ落ち、シンクの底で揺れる。和毅は蛇口を絞り、手鏡を流し台の棚に立ててみた。鏡の中の水面は現実より先に静まり、最後の波紋だけが遅れて残る。
「今日は塩鮭と冷や奴。あと味噌汁」
「うん」
食卓に座ると、テレビの音が壁で反射し、箸が茶碗に触れるたびに小さく跳ね返る。和毅は会釈して椀を持ち、湯気の向きを見た。湯気は窓へ流れる。鏡の中の湯気は、いったん天井へ上がってから窓へ行く。流路が一度折れている。母が置いたコップの水面に光が揺れ、鏡の中だけ波の向きが逆だった。
「遅かったね」
「うん、ちょっと寄り道した」
「ふうん。ごはん、温め直す?」
「そのままでいい」
母が笑い、氷の入ったピッチャーを傾ける。氷がぶつかる音が三度鳴り、最後の一個だけが遅れて沈んだ。鏡の中では最初の一個が沈み、残りが後から追う。整列の順番が表と裏で入れ替わる。和毅は返事をして、鮭の皮の端を箸で押さえ、身の層を一枚ずつ剥いだ。塩の結晶が白く光る。舌に載せると、遠い太鼓の基音が喉の奥で揺れた。
食後、和毅は部屋に戻り、机の上を整えた。教科書、ノート、ペン。手鏡は立てずに、まず机に伏せた。鏡の裏の花模様が照明を柔らかく拾う。窓を十センチだけ開け、風の入り口を固定する。カーテンが一定の間隔で膨らみ、引く。窓の外、電線の上に鳥が二羽止まり、頭だけ同時に動いた。鏡を起こして電線を映すと、鳥の動きは左右で逆向きになる。現実で首が右に回れば、鏡では左。だが回し終える高さは一致する。和毅は電線のたるみの曲率を目で測り、鏡と現実の輪郭が同じ値であることを確認した。向きだけが違う。
机に鞄を置く。教科書が少し傾き、ページの端が風でめくれる。閉じてもまた開く。
手のひらに残った飴の匂いが薄れていく。水を飲み、空になったコップを机の隅に押しやった。
部屋の空気は昼より重く、窓の外の明かりが白く反射している。
和毅は立ち上がり、カーテンの裾を指でつまんで離した。布のしなりが遅れて戻る。
ベッドの上に制服の上着を置く。肩が落ちる音がして、静かになる。
息をひとつ吐く。天井の影がわずかに動き、すぐ止まる。
スマートフォンを手に取り、画面をつけないまま机に戻す。
光がひとつ減り、部屋の輪郭が柔らかくなった。
そのまま椅子に腰を下ろし、何も見ずに指先を合わせる。
時間を測るでもなく、考えるでもなく、ただ指の温度だけが続いていた。
外で犬が吠え、風の向きが変わる。カーテンがふくらみ、静かに落ちる。
部屋の中には、自分の呼吸と机の木の匂いしか残らない。
「ただいまー」
玄関のドアが開き、父の声。靴の底がマットで水気を落とす音が二度。母の声が返る。会話の高さは日常のままで、間の取り方も同じだ。違うのは、和毅の胸の鼓動が太鼓の基音と絡むこと。音が合うたび、鏡面の光が細く脈打つ。
夜が濃くなる。窓の外の空が黒へ寄り、屋根の稜線が一本の線になる。飴の包み紙をもう一度指で折り、耳元で小さく鳴らす。乾いた音が部屋の四方で返り、鏡の中で同じ回数だけ返る。回数は同じだが、初めの一音と終わりの一音が入れ替わる。始まりと終わりの交換。それがこの鏡面の規則だ。和毅は包み紙を指先で放り、机の角で受けた。跳ね返りの角度は現実も鏡も同じ。着地点だけが左右で反転する。
廊下の明かりが消え、台所でコップが重なる音が一度。家全体の空気が深く吸って、ゆっくり吐く。和毅は立ち上がり、窓を少しだけ閉めた。隙間から入る風が細くなり、カーテンの裾の揺れ幅が半分になる。鏡の中でも同じ幅で揺れが減る。揺れの周期は変わらない。向きだけが決まる。
机に戻り、帳面の端に短い言葉を一つ書いた。
読んでくれて、ありがとう。次回は火曜日の夜に。
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