時を超えて、君を―永遠の約束

ukon osumi

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第3章「白鳥家の屋敷」前編

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 白壁と黒門の前で、怜子が一歩進み、掌で門柱の表面を軽く押した。乾いた石の粉が親指に付いた。和毅は隣で息を整えた。槙の枝が門の上で左右に揺れ、葉先がこすれて小さな音を続ける。門扉が内へ回ると、風の向きがわずかに変わり、頬の右側だけが冷えた。重ねている二枚の薄紙のうち、下の一枚だけが遅れて擦れるような感触だった。

敷石は大きさが均一で、角が欠けていない。三歩ごとに苔が薄く生えて、濃淡の帯を作っている。怜子の踵が石から石へ移るたび、裾の布が膝に触れ、その音が先へ滑っていく。和毅は半歩後ろを歩き、足音を怜子の音に合わせた。屋敷の白い壁は光を返し、黒い雨樋が真っ直ぐ地面まで落ちている。庭の松の枝が水平に延び、枝元に縄が巻かれていた。縄の毛羽立ちが風に沿って寝ている。

玄関の木戸に手をかける前、怜子が振り向いた。指が一瞬だけ躊躇の形を作り、すぐに力が加わる。蝶番は軋まず、戸は一定の速さで後ろへ滑った。内側はひんやりしている。畳の匂いが低く漂い、磨かれた板間の光が足元で切り替わった。和毅は靴の向きを揃え、つま先を揃えた自分の影の輪郭を確認した。影は二重にはならない。だが、障子紙へ落ちる明るさが、呼吸に合わせるようにわずかに濃淡を変えた。

廊下の奥、洋風の間仕切りの向こうに背のまっすぐな人影が見えた。怜子の祖母だ。黒の羽織の襟は折り目が崩れず、両手は膝へ置かれている。椅子は革張りで、背もたれに押された皴が均等だった。卓上のガラス器に水が入っており、表面に細い波が一本だけ斜めに走って止まった。和毅と怜子が敷居の手前で立ち止まる。怜子は手をついて頭を下げ、和毅も同じ角度まで腰を折った。

「おばあさま」
怜子の声は無理をしない高さで、終わりが少しだけ上がった。
祖母は目線だけを近づけ、ゆっくり頷いた。
「上がっておくれ」

座を移す間、椅子の革が短く鳴った。祖母の前に座ると、怜子が湯を注いだ。湯気が一度まっすぐに立ち、次に左へ倒れた。障子の桟に当たる明るさがそれに連動して薄くなり、すぐ戻る。和毅は湯呑の縁へ指を添え、温度を確かめた。熱は強すぎず、握った指が汗ばむまで四呼吸かかった。

「この子はね、あなたのことを話すとき、とてもいい顔をします」
祖母の声は低く、句の切れ目で空気が少しだけ沈んだ。
怜子の肩がすっと下がり、眉の形が柔らかくなる。
和毅は湯呑を静かに卓へ戻した。コトという小さな音が室内に残り、すぐに吸い込まれた。

「失礼をいたします。白鳥さまのお宅に招いていただきました」
和毅は言葉の速度を調整し、一音ずつはっきり置いた。祖母はその置き方を最後まで聞き、目元だけを緩めた。
「礼を言うのはこちら。怜子に良い友ができた」

廊下を渡る風が、掛け軸の下端を一度だけ浮かせた。書は太い線で「守」の字が書かれている。墨のにじみは少なく、紙の繊維が細かい。卓上のガラス器の水面に小さな揺れが走り、光が天井に反射して、四角の明るい片が二つ、重なってから離れた。和毅はその重なりを目で追い、視線の先で、窓ガラスに映った自分の顔が現実より半歩手前に見える位置へ滑るのを見た。鏡類の像が先に動き、現の動きが後に続く。差は一瞬だが、確かに残る。

「庭をご覧になりますか」
祖母の言葉に、怜子が立ち上がる。椅子が短い音を立て、裾が膝を撫でた。縁側の戸を開けると、外の熱が差し込んだ。簾が揺れ、光が縞になって床に落ちる。池は楕円で、端に石が三つ出ている。水面は透明で、小さな魚が二匹、同じ速さで輪を描いていた。怜子が腰を下ろし、足をそろえて板の端へ置いた。和毅も横へ座り、手の位置を少し後ろに引いた。

怜子は手鏡を帯から取り出した。銀の枠に細かい彫りがあり、持ち手の付け根がわずかに擦れている。彼女が鏡面を庭へ向けると、池と松と空が上下を入れ替えて集まった。鏡の中の怜子は現実より半歩近く、肩の線がわずかに大きい。和毅が静かに息をし、鏡の縁を凝視すると、像が先に瞬きをして、現の怜子のまぶたがその後で閉じた。差は一拍にも満たず、しかし、そこにある。簾の影が二度、床をまたぎ、縁側の空気が手前から奥へ、次に奥から手前へと方向を入れ替えた。

「こちらの庭は、祖父が形を整えたと聞いております」
怜子の言葉に合わせ、松の枝の揺れが一段だけ穏やかになった。遠くで子らの声が一斉に上がり、すぐに収まる。縁側の下の土から少し湿りの匂いが上がり、和毅の袖口へ触れた。袖の布が重くなるほどではない。肌へ当たった匂いは短く、すぐに薄れた。

「よく見て、よく触る者が、人を守る手を持つようになる」
後ろで祖母が言った。縁側に立ったまま、縞の光の端に腰の影を落としている。
「怜子はよく見る子です。手も、冷たくない」

怜子は鏡を膝へ伏せ、視線を祖母へ向けた。瞼の動きは速くない。和毅は祖母の言葉のあと、怜子の指先を見た。指は細く、第二関節の皺が等間隔に並んでいる。膝の上に置かれた鏡の銀が、外の光を拾って、縁側の板へ楕円の明るさを作った。和毅の影がその楕円に触れ、縁が一瞬だけ歪んだ。

「わたくし、先のことは、まだ口に出すのが恥ずかしいのですが」
怜子が口を開き、言葉の切れ目で唇の端を固くした。祖母は返事を急がず、簾の下で風の止むのを待つように静かにしている。
「医に携わる道を望んでおります。見ること、触れることを、怠らぬ道を」

和毅は喉の筋を固くした。舌の位置を奥へ引き、息の出口を狭めた。声は出さず、視線だけで頷く。胸の内で浮いた語は外へ出ない。代わりに、右手の人差し指と中指を合わせ、板の上でそっと押し、圧を確かめた。板は乾き、押した点だけが温度を返す。

「怜子」
祖母の呼びかけは短い。
「背を伸ばしなさい。背が伸びれば、目に入るものの数が増えます」
怜子は肩甲骨を寄せ、頭の位置を指一本分だけ高くした。縁側から眺める庭の線が、少しだけ違う並びで胸へ入ってくる。和毅が同じように姿勢を整えると、簾の影の位置が僅かに変わり、床の縞が二人の膝のところで重なった。

「君なら、できる」
和毅はようやく声を出した。音は低く、途中で割れないように静かに落とした。怜子は目尻を少しだけ細くし、鏡の銀の縁を親指で撫でた。銀の表面に指の脂が薄い線を残し、直後に消えた。池の魚が角度を揃えて向きを変え、二つの輪が重なって広がる。風が一度止み、次に反対へ抜けた。和毅の頬の汗が、その風の方向に沿って乾いた。

「お客さまにお菓子を」
祖母が奥に声をかけると、障子の向こうで布が擦れる音がした。黒い盆が出てきて、飴の小さな包みが並ぶ。透明な包みの表面に光が点在し、指でつまむと静かな皺が寄った。和毅がひとつ受け取る。紙の端をゆっくり引くと、飴が出た。舌に乗せると、甘さが均一に広がり、口の中の温度で角が丸くなっていく。甘さは長く残り、喉の奥へ降りると同時に、外の風鈴が一度だけ鳴った。怜子もひとつ口に入れ、頬の内側がわずかに膨らむ。

「怜子、お話を続けておいで。客人はよく見て、よく聞く人だ」
祖母はそう言い、椅子の横の杖を軽く床へ触れさせた。小さな音が縁側へ届く。怜子は軽く会釈し、視線を庭から和毅へ戻した。鏡は膝の上で伏せられたままで、円い背が光を受けている。

「では、少しだけ」
怜子は息を整え、言葉の間隔を一定に保った。
「わたくし、手を汚すことを厭いません。布でも、紙でも、人の肌でも。触れて、温度を確かめるのが好きです」

和毅は頷いた。視線は怜子の手と鏡、そして庭を順に辿る。鏡の面は伏せられているのに、映りこみの気配が縁側の板の上をうすく走る。板の木目が、それに応じてわずかに濃淡を変える。遠い路地のどこかで紙片が一枚舞い上がり、すぐに石畳へ落ちた気配があった。こちらの縁側で、簾の端がその落ち方に合わせて小さく震えた。

「手は、守るために使いなさい」
祖母の声が畳の上で低く響いた。怜子は正面を向き、腰の位置を変えずに頷いた。和毅も同じ速さで頷き、喉の奥で息を一度止めた。

庭の隅で、石灯籠の影が午後の光を受けて角度を変えた。影の輪郭ははっきりしていて、縁側の端には届かない。池の表面に、うすい風の筋が一本、斜めに走った。筋は松の影と交わり、その交点で一瞬だけ光が強くなった。和毅はその交点を見る。次の瞬間、縁側の板に映る二人の影が短く近づき、また離れた。像と現が、ほんのわずかに一致して、すぐに離れる。揺らぎは小さいが、確かに合図のように見えた。

「怜子」
和毅は名前だけ呼んだ。
怜子は返事を短く置き、鏡を持ち上げる。鏡面はまだ伏せられている。持ち手の根元を中指と薬指で支え、親指で縁を押さえる。彼女が鏡を返す。面がこちらを向く。和毅と怜子が同じ高さで映る。鏡の中の二人は、現実より半歩近い。怜子が瞬きをする。映像が先に閉じ、現が後で追う。差は小さい。だが、そこにあることを二人とも見ている。

「また、明日も来てよろしいでしょうか」
和毅は祖母へ向け、はっきり言った。音は濁らず、途中で切れない。祖母は間を置かずに頷いた。
「ようございます。怜子、案内しなさい」

縁側に立ち上がると、外の熱がもう一度まとわりついた。簾の縞が顔にかかり、視界が細かく区切られる。廊下へ戻ると、磨かれた板が足の裏の汗をすぐに吸い、すぐ乾いた。玄関で履物の向きを整えて外へ出る。門を出ると、街道からの声が一段上がった。遠くで太鼓が二度打たれ、提灯の骨が風に鳴る。怜子は門柱の角を指で確かめ、表面のざらつきに一度だけ親指を滑らせた。和毅はその動きを目で追い、同じ角度で視線を切り替えた。

門を離れると、槙の枝が背後で左右に揺れた。揺れはすぐに小さくなり、葉先のこすれる音だけが残った。和毅は肩の力を抜き、歩幅を怜子の歩幅に合わせた。道の端で、子どもが紙風船を両手でたたき、二回続けて打ち損じ、三回目で成功した。紙風船の色が光を受け、赤と白の面が交互に入れ替わる。怜子は横目でそれを見、口角を少しだけ上げた。和毅も同じ動きで唇の端を上げ、頷いた。

曲がり角の手前、和毅は立ち止まって振り返った。門は閉じ、白壁は静かに光を返している。壁の上の空気が薄く震え、手の甲の汗がそこへ吸い込まれるように乾いた。怜子が一歩先で振り向き、短く言った。
「また」

その一語は短く、重みが軽い。だが、蝶番に油を差すように、周囲の音の回りを滑らかにした。和毅は首を一度だけ縦に動かし、歩き出す。歩調は自然に揃った。提灯の火が通りの先で横へ流れ、鏡の中の列と現の列が一瞬だけぴたりと重なる。その一致がほどける前に、和毅は足裏の圧を少し強め、地面を確かめた。足音は二つ、ほぼ同じ間隔で伸び、やがて街のざわめきへ吸い込まれていった。

読んでくれて、ありがとう。次回は金曜日の夜に。
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