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第3章「白鳥家の屋敷」後編
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庭を出て長い塀沿いに下ると、空気の層が一段薄くなった。石垣の継ぎ目から冷えが滲み、指の甲の汗がそこだけ早く乾いた。怜子は門を背にして並び、右手で袖口を整えた。和毅は歩幅を半枚ぶん縮め、視線を路地の先へ置いた。槙の枝が背後で二度揺れ、葉先の擦れる音が小さく残った。
曲がり角の手前、竹箒を持った女が板戸の前を掃いていた。箒の穂が地面を押す音は一定で、砂が左右に分かれて細い帯を作る。怜子が会釈をすると、女は笑って箒を止めた。歯が白く、頬に小さな皺が出る。和毅も軽く頭を下げた。三人の影が地面の上で重なり、すぐに離れた。影の縁だけが一瞬濃くなり、すぐ薄れた。
通りに出ると、熱が低く溜まっていた。軒ごとに吊られた提灯が風に揺れ、骨が鳴った。屋台の板の上で包丁がまな板を叩き、太鼓が遠くで二度、間を置いて打たれた。若い衆が縄を引き、声を重ねて固める。声は同じ高さに集まり、戸板へ跳ね返って散った。怜子は歩きながら、子どもに呼び止められた。髪に紙の飾りを挿した女の子が、掌をひらひらさせる。怜子は膝を少し折り、目線を揃えて「こんにちは」と言った。声は柔らかく、末尾で微かに上がった。女の子の母親が頭を下げ、飴玉をひとつ差し出す。怜子は辞退の仕草をし、代わりに巾着から小さな紙を出して折り鶴を作った。鶴の背を指で滑らかに押すと、紙の繊維が光を均等に返した。
和毅は輪の外側に立ち、合図のように肩を一度上下させた。呼吸の出入りが胸の前で揃い、熱の膜の上に細い涼しさが一筋通った。通りの端で、白い紙片が突然持ち上がり、旋回して石畳へ落ちた。和毅はそれを目で追った。怜子は小さく息を吸い、鶴を女の子の掌へ置いた。女の子は礼を言って駆け、草履の裏で砂を蹴った。砂は扇形に広がり、すぐに沈んだ。
「行きましょう」
怜子が言い、歩調を一定に戻した。和毅は半歩横で並び、足音の間隔を合わせた。屋台の間を抜けるうちに、提灯の列が緩やかに曲がり、通りの向こうで再び一直線に整った。和毅は鞄から手鏡を取り出して怜子へ差し出した。怜子は受け取り、柄の根元を指で押さえ、面を斜めに傾けた。面に提灯の列が映り、火の粒が左右を入れ替えながら流れた。現の列と鏡の列が、時折ぴたりと重なる。重なった瞬間、二人の歩調も自然に合い、踵の着く音が一拍で揃った。ずれが起きると、音が薄く二重になった。
「あの店で水を」
怜子が屋台の端に張られた布を指差す。井戸水の桶が並び、氷柱が二本浮かんでいる。柄杓の柄は濡れて黒く、木目が縦に走る。怜子は銅の楕円の器を受け取り、両手で支えて和毅へ渡した。和毅は口を器の縁へ寄せ、少しだけ傾けた。冷たさが舌から喉へ落ち、汗の塩が薄く解けた。器の側面についた水滴が一つ、指の付け根へ転がり、皮膚の上で止まった。怜子も一口飲み、息を吐いた。吐いた息で器の縁が曇り、すぐに透き通った。氷柱の角が溶け、桶の水面に小さな輪が広がる。
道をさらに進むと、人の列が途切れ、石畳が素の色を見せた。小さな神社の前で、紙垂が風を受ける。紙は一定の角度で揺れ、縄のねじれと同期する。和毅が鏡を受け取り、今度は自分の肩の高さで面を立てた。面に怜子の横顔が入り、現の怜子と半歩ぶんの差で重なった。怜子の睫毛が閉じる前に、鏡の中が先に閉じた。差は短いが、確かにあった。和毅が鏡を下ろすと、神社の鈴が一度だけ鳴り、参道の埃が細かく舞い上がった。
「和毅さん」
怜子は名を呼び、視線を道の先に置いた。そこには、石積みの向こうへ口を開ける小さなトンネルがある。出入り口の縁に蔦が絡み、内側の空気は外より冷たい色をしている。和毅は頷き、歩みをゆっくりにした。足の裏で石の段差を確かめ、踵から土踏まずへ圧を移した。入口の手前で二人は立ち止まった。怜子は鏡を胸の前で水平にし、面を自分と和毅の顔の間にすっと差し入れた。面の中の二人は、現より近い。その距離が、板の上に置いた飴のように一定だった。
「ここまで、お送りします」
怜子の声は低く、言い終わりで揺れない。和毅は鏡から目を離し、怜子の肩の線を見た。肩は下がらず、首の付け根の筋がまっすぐ立っている。和毅は一度だけ深く頷いた。胸の内側で言葉が動いたが、舌は動かさなかった。代わりに、履物のかかとを石の縁で軽く叩き、音の短さで返事の量を調整した。
「また」
怜子が言った。短い音の一語が、通りから来る喧噪の表面で小さな膜を作り、音の回りが滑らかになった。和毅は首を縦に動かし、鏡を怜子へ返した。鏡の縁が怜子の掌に収まり、銀の背が光を拾った。その光が和毅の指へ触れ、薄く跳ねた。
トンネルの口へ一歩入る。空気が顎の下から入ってきて、耳の奥で密度が変わる。壁の石は冷え、苔の湿りが皮膚の表面に触れた。和毅は足の位置を正面にそろえ、右肩を一度だけ引いた。向きが合う。空気の流れは外と同じ方向だが、頬を撫でる向きだけが逆になった。前髪が額へ張り付き、次の瞬間、逆へ戻る。足元の小石がひとつ転がり、音がトンネルの奥へ吸い込まれた。
暗がりで、左右の壁の反射が変わる。右側の壁は光をわずかに多く返し、左側は湿りが強い。歩を進めるごとに、靴底が拾う音が平らになり、間隔が一定になった。和毅は掌を壁へ寄せ、触れずに温度を確かめた。冷えは動かない。鼻腔に、石灰の粉の匂いがわずかに入る。喉で飲み込むと、舌の上に飴の甘さが戻り、同じ場所で広がった。微かな甘さが壁の匂いと重なり、均等になった。
半ばを過ぎたところで、背後から細い風が追いつき、後頭部の髪を一列に揺らした。和毅は足を止めない。足音は一定のまま、響きだけが浅くなった。前方の出口の縁が少しずつ明るくなり、輪郭がはっきりする。和毅は肩の力を抜き、手のひらを軽く開いた。皮膚の熱が均され、指先に残っていた木肌のざらつきが再び浮かび上がった。
外へ一歩出る。熱が層になって顔へ掛かり、額の汗が細い筋を作って耳の下へ落ちた。自転車のベルが短く鳴り、風が横から抜けた。通りの看板の薄い樹脂が一枚だけ震え、膨らんでから戻った。和毅は首をひねって背後を見た。トンネルの口は同じ形でそこにあり、蔦がこちら側でも同じ位置に絡んでいる。空気の向きが入れ替わり、頬の右側から左側へ熱が移動した。
道沿いのガラス窓に自分の像が薄く重なった。像は現より半歩だけ手前で、目の瞬きが先に落ちた。差は短いが、目で拾える。和毅は掌でガラス面を軽く叩いた。乾いた音が一つだけ返り、遅れはない。ここは表側だ。けれど、ガラスの角に小さな水滴が残り、外気と内気の境で震え続けた。その揺れ方だけが、裏を思わせた。
交差点の手前で足を止め、ポケットから飴の包み紙を取り出した。透明の紙は指の間で薄く鳴り、粘りが残っていた。指先を舐める。甘さはまだある。木の欄干に触れたときのざらつきも、皮膚の上で薄く続いている。向こうの縁側で吸い込んだ土の匂いが鼻の奥に残り、こちらの排気と混ざった。混ざったあと、どちらも強すぎず、同じ高さに揃った。
角を曲がると、ビルの陰から風が吹き出した。向きは一定で、髪が左から右へ流れる。右耳に汗が冷え、次に乾いた。信号機の灯が青に切り替わり、人々が渡り始める。足音が石からアスファルトへ変わり、音の高さが少し下がった。和毅は人の流れに合わせて歩き、歩幅を少し広げた。肩の力は抜けたまま、背筋は自然に立つ。
横断歩道の中央で、ポケットの中の手鏡の重さを確かめた。面は布で保護してあり、銀の縁が指へ冷たかった。和毅は布越しに面を軽く撫で、すぐ離した。撫でた指の腹に、あちらの光の残り方が薄く移った気配があった。気配はすぐに薄れたが、消え切らない。
和毅は商店の軒先で立ち止まり、氷水の入ったカップを買った。ストローを一度噛んでから、口へ差し込む。冷たさがすぐに舌の中央へ降り、喉を直線に通った。目の前で、レシートが印字口から伸び、店主の指が端を押さえて切った。切る音は短い。紙は軽い。和毅は受け取り、財布へ差した。その動きの最中に、通りの向こうで旗が一枚だけ逆方向へ倒れ、すぐに戻った。風の向きが一瞬だけ裏返った。
角のベンチに腰を下ろす。ベンチの板は薄く温かく、膝の裏の汗を吸った。遠くでサイレンが鳴り、近づかず、遠ざからなかった。和毅は背筋を伸ばし、首を左右に倒してから正面へ戻した。呼吸は深く、一定だ。胸の内側の動きは静かに整い、表面で見えるものの並びがはっきりした。
携帯の画面に、未読の通知が二つ出ていた。指で一度なぞり、閉じた。画面に自分の像が映る。像はわずかに遅れ、閉じた目が先に戻る。和毅は口角を少しだけ上げ、頬の筋を緩めた。ベンチから立ち上がる。足裏で地面を押し、つま先で身体を前へ送る。背に風が当たり、シャツの布が薄く持ち上がった。
歩き出した和毅の肩の横を、小さな紙片が一枚、一定の速度で追い越した。紙片は前方でふっと落ち、石の上で静止した。和毅は足を止めず、紙片の位置を目の端で捉えた。その瞬間、ポケットの中の手鏡が僅かに温かくなり、銀の縁が皮膚へ密着した。裏と表の向きが、身体の周りでひとときだけ一致したのだと、皮膚が静かに知らせた。
和毅は肩を落とし、息を一度長く吐いた。吐いた息は顔の前で薄く広がり、すぐに風に混ざった。指先に残る木肌のざらつきと、舌の上の甘さは、まだ落ちない。前方で信号が赤に変わり、人の流れが止まる。立ち止まった人々の影が地面で重なり、すぐにほどけた。和毅はその重なりを目で追い、歩道の縁へ視線を戻した。
「また」
声は出していない。だが、舌の奥の筋が、その一音に必要な形で一瞬動き、喉が微かに震えた。周囲の音がその震えと同じ高さで揺れ、すぐに平らに戻った。蝶番に油を差す動作と同じだけの滑らかさで、表の世界のざわめきが整った。和毅は頬の汗を手の甲で拭い、歩き出した。歩幅は一定、肩の線は安定している。通りの光は真っ直ぐに進み、時折、ガラスで反射して彼の目へ届いた。届いた光は痛くない。向きが合っているときの光だった。
読んでくれて、ありがとう。次回は火曜日の夜に。
曲がり角の手前、竹箒を持った女が板戸の前を掃いていた。箒の穂が地面を押す音は一定で、砂が左右に分かれて細い帯を作る。怜子が会釈をすると、女は笑って箒を止めた。歯が白く、頬に小さな皺が出る。和毅も軽く頭を下げた。三人の影が地面の上で重なり、すぐに離れた。影の縁だけが一瞬濃くなり、すぐ薄れた。
通りに出ると、熱が低く溜まっていた。軒ごとに吊られた提灯が風に揺れ、骨が鳴った。屋台の板の上で包丁がまな板を叩き、太鼓が遠くで二度、間を置いて打たれた。若い衆が縄を引き、声を重ねて固める。声は同じ高さに集まり、戸板へ跳ね返って散った。怜子は歩きながら、子どもに呼び止められた。髪に紙の飾りを挿した女の子が、掌をひらひらさせる。怜子は膝を少し折り、目線を揃えて「こんにちは」と言った。声は柔らかく、末尾で微かに上がった。女の子の母親が頭を下げ、飴玉をひとつ差し出す。怜子は辞退の仕草をし、代わりに巾着から小さな紙を出して折り鶴を作った。鶴の背を指で滑らかに押すと、紙の繊維が光を均等に返した。
和毅は輪の外側に立ち、合図のように肩を一度上下させた。呼吸の出入りが胸の前で揃い、熱の膜の上に細い涼しさが一筋通った。通りの端で、白い紙片が突然持ち上がり、旋回して石畳へ落ちた。和毅はそれを目で追った。怜子は小さく息を吸い、鶴を女の子の掌へ置いた。女の子は礼を言って駆け、草履の裏で砂を蹴った。砂は扇形に広がり、すぐに沈んだ。
「行きましょう」
怜子が言い、歩調を一定に戻した。和毅は半歩横で並び、足音の間隔を合わせた。屋台の間を抜けるうちに、提灯の列が緩やかに曲がり、通りの向こうで再び一直線に整った。和毅は鞄から手鏡を取り出して怜子へ差し出した。怜子は受け取り、柄の根元を指で押さえ、面を斜めに傾けた。面に提灯の列が映り、火の粒が左右を入れ替えながら流れた。現の列と鏡の列が、時折ぴたりと重なる。重なった瞬間、二人の歩調も自然に合い、踵の着く音が一拍で揃った。ずれが起きると、音が薄く二重になった。
「あの店で水を」
怜子が屋台の端に張られた布を指差す。井戸水の桶が並び、氷柱が二本浮かんでいる。柄杓の柄は濡れて黒く、木目が縦に走る。怜子は銅の楕円の器を受け取り、両手で支えて和毅へ渡した。和毅は口を器の縁へ寄せ、少しだけ傾けた。冷たさが舌から喉へ落ち、汗の塩が薄く解けた。器の側面についた水滴が一つ、指の付け根へ転がり、皮膚の上で止まった。怜子も一口飲み、息を吐いた。吐いた息で器の縁が曇り、すぐに透き通った。氷柱の角が溶け、桶の水面に小さな輪が広がる。
道をさらに進むと、人の列が途切れ、石畳が素の色を見せた。小さな神社の前で、紙垂が風を受ける。紙は一定の角度で揺れ、縄のねじれと同期する。和毅が鏡を受け取り、今度は自分の肩の高さで面を立てた。面に怜子の横顔が入り、現の怜子と半歩ぶんの差で重なった。怜子の睫毛が閉じる前に、鏡の中が先に閉じた。差は短いが、確かにあった。和毅が鏡を下ろすと、神社の鈴が一度だけ鳴り、参道の埃が細かく舞い上がった。
「和毅さん」
怜子は名を呼び、視線を道の先に置いた。そこには、石積みの向こうへ口を開ける小さなトンネルがある。出入り口の縁に蔦が絡み、内側の空気は外より冷たい色をしている。和毅は頷き、歩みをゆっくりにした。足の裏で石の段差を確かめ、踵から土踏まずへ圧を移した。入口の手前で二人は立ち止まった。怜子は鏡を胸の前で水平にし、面を自分と和毅の顔の間にすっと差し入れた。面の中の二人は、現より近い。その距離が、板の上に置いた飴のように一定だった。
「ここまで、お送りします」
怜子の声は低く、言い終わりで揺れない。和毅は鏡から目を離し、怜子の肩の線を見た。肩は下がらず、首の付け根の筋がまっすぐ立っている。和毅は一度だけ深く頷いた。胸の内側で言葉が動いたが、舌は動かさなかった。代わりに、履物のかかとを石の縁で軽く叩き、音の短さで返事の量を調整した。
「また」
怜子が言った。短い音の一語が、通りから来る喧噪の表面で小さな膜を作り、音の回りが滑らかになった。和毅は首を縦に動かし、鏡を怜子へ返した。鏡の縁が怜子の掌に収まり、銀の背が光を拾った。その光が和毅の指へ触れ、薄く跳ねた。
トンネルの口へ一歩入る。空気が顎の下から入ってきて、耳の奥で密度が変わる。壁の石は冷え、苔の湿りが皮膚の表面に触れた。和毅は足の位置を正面にそろえ、右肩を一度だけ引いた。向きが合う。空気の流れは外と同じ方向だが、頬を撫でる向きだけが逆になった。前髪が額へ張り付き、次の瞬間、逆へ戻る。足元の小石がひとつ転がり、音がトンネルの奥へ吸い込まれた。
暗がりで、左右の壁の反射が変わる。右側の壁は光をわずかに多く返し、左側は湿りが強い。歩を進めるごとに、靴底が拾う音が平らになり、間隔が一定になった。和毅は掌を壁へ寄せ、触れずに温度を確かめた。冷えは動かない。鼻腔に、石灰の粉の匂いがわずかに入る。喉で飲み込むと、舌の上に飴の甘さが戻り、同じ場所で広がった。微かな甘さが壁の匂いと重なり、均等になった。
半ばを過ぎたところで、背後から細い風が追いつき、後頭部の髪を一列に揺らした。和毅は足を止めない。足音は一定のまま、響きだけが浅くなった。前方の出口の縁が少しずつ明るくなり、輪郭がはっきりする。和毅は肩の力を抜き、手のひらを軽く開いた。皮膚の熱が均され、指先に残っていた木肌のざらつきが再び浮かび上がった。
外へ一歩出る。熱が層になって顔へ掛かり、額の汗が細い筋を作って耳の下へ落ちた。自転車のベルが短く鳴り、風が横から抜けた。通りの看板の薄い樹脂が一枚だけ震え、膨らんでから戻った。和毅は首をひねって背後を見た。トンネルの口は同じ形でそこにあり、蔦がこちら側でも同じ位置に絡んでいる。空気の向きが入れ替わり、頬の右側から左側へ熱が移動した。
道沿いのガラス窓に自分の像が薄く重なった。像は現より半歩だけ手前で、目の瞬きが先に落ちた。差は短いが、目で拾える。和毅は掌でガラス面を軽く叩いた。乾いた音が一つだけ返り、遅れはない。ここは表側だ。けれど、ガラスの角に小さな水滴が残り、外気と内気の境で震え続けた。その揺れ方だけが、裏を思わせた。
交差点の手前で足を止め、ポケットから飴の包み紙を取り出した。透明の紙は指の間で薄く鳴り、粘りが残っていた。指先を舐める。甘さはまだある。木の欄干に触れたときのざらつきも、皮膚の上で薄く続いている。向こうの縁側で吸い込んだ土の匂いが鼻の奥に残り、こちらの排気と混ざった。混ざったあと、どちらも強すぎず、同じ高さに揃った。
角を曲がると、ビルの陰から風が吹き出した。向きは一定で、髪が左から右へ流れる。右耳に汗が冷え、次に乾いた。信号機の灯が青に切り替わり、人々が渡り始める。足音が石からアスファルトへ変わり、音の高さが少し下がった。和毅は人の流れに合わせて歩き、歩幅を少し広げた。肩の力は抜けたまま、背筋は自然に立つ。
横断歩道の中央で、ポケットの中の手鏡の重さを確かめた。面は布で保護してあり、銀の縁が指へ冷たかった。和毅は布越しに面を軽く撫で、すぐ離した。撫でた指の腹に、あちらの光の残り方が薄く移った気配があった。気配はすぐに薄れたが、消え切らない。
和毅は商店の軒先で立ち止まり、氷水の入ったカップを買った。ストローを一度噛んでから、口へ差し込む。冷たさがすぐに舌の中央へ降り、喉を直線に通った。目の前で、レシートが印字口から伸び、店主の指が端を押さえて切った。切る音は短い。紙は軽い。和毅は受け取り、財布へ差した。その動きの最中に、通りの向こうで旗が一枚だけ逆方向へ倒れ、すぐに戻った。風の向きが一瞬だけ裏返った。
角のベンチに腰を下ろす。ベンチの板は薄く温かく、膝の裏の汗を吸った。遠くでサイレンが鳴り、近づかず、遠ざからなかった。和毅は背筋を伸ばし、首を左右に倒してから正面へ戻した。呼吸は深く、一定だ。胸の内側の動きは静かに整い、表面で見えるものの並びがはっきりした。
携帯の画面に、未読の通知が二つ出ていた。指で一度なぞり、閉じた。画面に自分の像が映る。像はわずかに遅れ、閉じた目が先に戻る。和毅は口角を少しだけ上げ、頬の筋を緩めた。ベンチから立ち上がる。足裏で地面を押し、つま先で身体を前へ送る。背に風が当たり、シャツの布が薄く持ち上がった。
歩き出した和毅の肩の横を、小さな紙片が一枚、一定の速度で追い越した。紙片は前方でふっと落ち、石の上で静止した。和毅は足を止めず、紙片の位置を目の端で捉えた。その瞬間、ポケットの中の手鏡が僅かに温かくなり、銀の縁が皮膚へ密着した。裏と表の向きが、身体の周りでひとときだけ一致したのだと、皮膚が静かに知らせた。
和毅は肩を落とし、息を一度長く吐いた。吐いた息は顔の前で薄く広がり、すぐに風に混ざった。指先に残る木肌のざらつきと、舌の上の甘さは、まだ落ちない。前方で信号が赤に変わり、人の流れが止まる。立ち止まった人々の影が地面で重なり、すぐにほどけた。和毅はその重なりを目で追い、歩道の縁へ視線を戻した。
「また」
声は出していない。だが、舌の奥の筋が、その一音に必要な形で一瞬動き、喉が微かに震えた。周囲の音がその震えと同じ高さで揺れ、すぐに平らに戻った。蝶番に油を差す動作と同じだけの滑らかさで、表の世界のざわめきが整った。和毅は頬の汗を手の甲で拭い、歩き出した。歩幅は一定、肩の線は安定している。通りの光は真っ直ぐに進み、時折、ガラスで反射して彼の目へ届いた。届いた光は痛くない。向きが合っているときの光だった。
読んでくれて、ありがとう。次回は火曜日の夜に。
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