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第4章「夏の商店街」前編
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風鈴の鳴り方が少しだけ違っていた。和毅はトンネルの縁で一度立ち止まり、肩の位置をわずかに右にずらした。頬に触れる流れの向きが返る。吸いこむ空気はひんやり、吐き出す息は乾いている。境界蝶番をくぐると、仲町の通りは提灯の骨と木の香りで満ちていた。
駄菓子屋の戸口には、色ガラスの瓶が十一本。赤、緑、琥珀、藍。斜めに差し込む日が瓶の中で屈折し、丸い影を床板に落としている。怜子は戸を内側に引いた。蝶番が一度鳴り、止む。店の奥から「怜子姉さま」と呼ぶ声が二つ、少し遅れてもう一つ。指の短い男の子が紙風船を両手で抱えて、怜子の裾に当てた。
「姉さま、見てて」
男の子は紙風船をいっぺん胸の高さまで上げ、両手を離した。風船は一度沈み、怜子が軽く蹴ると、まっすぐ天井の梁をなめて戻る。梁と風船と怜子の足先が一直線にそろう瞬間、和毅は自分の呼吸を止めていた。
「映画のセットみたいだ」
口に出してから、和毅は怜子の眉がわずかに持ち上がるのを見た。
「えいが?」
「動く絵、かな。たくさんの写真をつないで、動かして見せる」
「絵は絵、でしょう?」
「うん。でも、目の前のように見える。音も一緒に」
怜子は少し考えてから、紙風船を指でつまみ上げた。薄い和紙が光を通す。彼女は店先の手鏡を取って、紙風船を鏡の前に近づける。鏡の面の向こうで、紙の丸が逆向きに揺れた。
「こういうの?」
「似てる。でも鏡は返すだけ」
「じゃあ、ここは返す前?」
怜子はいたずらを仕掛ける子どものように、わずかに口角を上げた。和毅は首を横に振りかけ、やめた。言葉にすると、何かが遠のく気がする。代わりにポケットの中の手鏡を出す。金属の縁は指の温度でぬるい。
店の外、通りの奥から太鼓が低く鳴った。間を置いて笛が短く返す。和毅は鏡を腰の高さに立て、通りの流れを映す。人の列は左から右へ進んでいる。鏡の中では右から左へ。ごく当たり前のことなのに、胸の中心に重さが落ちた。鏡の像が現実より半拍だけ早く揺れる。列の先頭の肩が動く前に、鏡の中の肩が動いた。
「あっ」
怜子が短く声を出した。彼女の指先が鏡の縁に触れたからではない。駄菓子屋の軒先、風鈴の舌が東へ一度、すぐ西へ一度、揺れ方を逆にした。和毅は鏡から目を放さず、頬を通る風の向きを確認した。鏡の像と実際の風鈴の動きが、ほんの瞬間ずれる。その差がここにある距離だ、と身体の方が先に判断する。
「和毅さん、そっちは眩しくない?」
「少し。光の入り方が……」
和毅は鏡をゆっくり傾け、瓶の列を映した。色の順番が左右で反転する。赤の影が床板の節目に重なり、節目の木目が波のように見える。怜子は瓶の位置を指でひとつずつなぞり、指を瓶の口から離すたび、わずかな甘い匂いが上がった。飴の糖が湿気を吸っている。
「これ、好きだったんだ。小さい子が泣くと、ひとつだけ多く入れてやってね、と祖母さまに言われてる」
「じゃあ、さっきの子は二つ多かった?」
「三つ」
怜子は指を三本立てて見せた。爪の先に薄く粉がつく。和毅は笑った。笑いながらも、鏡の面は下げなかった。鏡は重いわけではないのに、腕が重くなる。像が現実より先に瞬きをする。怜子のまぶたが落ちる前に、鏡の中の怜子が一度小さく瞬いた。
店の前を山車の骨組みが通る。杉材の面に斜めの傷が二十本、等間隔。綱を引く男たちの肩甲骨の動きがそろう。和毅は鏡を垂直に起こし、山車の足元に合わせた。鏡の中で車輪の放つ粉塵が先に上がり、わずかに遅れて現実の粉塵が頬に当たる。粉の粒は細い。舌で触れるとわずかに苦い。
「囃子の練習、見ていく? 道場の方」
怜子が顎を西へ向けた。通りの奥で笛の音が一度切れ、別の旋律が入る。和毅は鏡を畳み、上着の内ポケットに滑り込ませた。畳むと暗さが増す。目がその暗さに合わせるより早く、通りの温度が少し上がる。
道場の板間は、裸足が触れるたびに低い音を返す。子どもたちが二列、背中をまっすぐにして立つ。太鼓の皮は硬く張られ、指で押せば返る弾力。怜子は脇に座り、拍子木を膝で支えた。和毅は正面の壁に並んだ手鏡を一本借り、壁際に立つ。鏡の帯の中央に自分の肩が写る。肩の上下が、壁の脈動と同期しはじめる。
「いち、に、さん」
年長の少年が合図を出す。太鼓が五つ、順に鳴り、最後の音が空間の角に溜まる。鏡の中では、その溜まる動きが先に見える。怜子が息を吸う。帯の端の小さな紙が一枚、ふわりと上がる。和毅は鏡を下げ、今度は鏡を使わずに通りの反応を待った。開け放した戸の外、駄菓子屋の軒の短い旗が一回だけ逆へ向いた。怜子が吐いた息の量と、旗の揺れ幅が合う。身体は誤魔化せない。
「どう?」
怜子がささやく。和毅は指で「よく見える」と示し、右手をすこしだけ広げた。掌の線に汗が溜まる。自分の体温がこちらの面に馴染むほど、向こう側が遠のく。それでも、どちらも消えない。同じ座標で別の面が息をしている。和毅は足裏に重さを乗せ直し、板の節を踏んだ。
「怜子さん」
「はい」
「ここにいると、匂いまで違ってわかる」
「団子の炭?」
「それと、木の汁。乾いた布のにおい」
「和毅さんの帯から、紙の匂い」
怜子は小さく笑った。彼女は拍子木を軽く打ち合わせ、子どもたちの背筋を伸ばす。和毅は鏡を胸の前で立て、怜子の横顔を映した。頬の筋肉が動くたび、鏡の像がわずかに早い。像のまばたきが先に来る。差を測る道具のように、鏡は正直だ。
「この鏡、好き」
怜子が言った。「今のわたしの形が、形のまま返ってくるから」
「向きが違うだけで、同じ」
「向きが違うから、同じになる」
怜子は拍子木を膝に戻し、指先で鏡の縁を一回、なぞった。和毅の指が同時に縁を持ち上げる。二本の指が、鏡の面を挟んで一直線に並んだ。触れていないのに、触れた錯覚が指先を刺激する。鏡の表面に、細い水の筋のような跡が走り、すぐ消えた。汗ではない。空気が反転した時にだけ出る、微かなすり傷のような跡。
練習がひと区切りつくと、子どもたちが外へ飛び出した。通りはさっきより音が多い。遠くで釘を打つ乾いた音、祭具の綿をちぎる裂ける音、油のはねる音。和毅は戸口の木枠に手を置いた。木目は縦に流れ、節は右側に一つ、左側に二つ。目で数えながら、指先の汗を拭った。
「歩こうか」
怜子が言う。二人は通りを北へ取った。飴の瓶は光の角度が変わって、床の影の楕円が伸びる。猫が一匹、用水の縁で身をかがめ、水を舐める。舌が水面に触れる前と後で、波紋の広がり方が左右で違う。和毅は短く息を吸い、鏡を出しかけてやめた。鏡がなくても、揺れは見える。身体が鏡になっていく。
「ねえ、さっきのえいが、ほんとに目の前みたいに見えるの?」
「うん。時――いや、順番が、決まった通りに流れて見える」
言いかけた語を飲み込み、和毅は手をひらいて示した。怜子はうなずく。彼女は通りすがりの豆腐屋に声をかけ、木枠の端を借りて二人で持ち上げた。枠の中の白い塊が波打つ。和毅の掌に冷たさが伝わり、同時にどこか遠い面でコンビニのビニール旗がわずかに逆にしなる像が頭に差し込む。見ていないのに、筋肉が覚える。向こうの旗は青地に白。こっちは白地に黒。色の組み合わせは違っても、折れる角度は同じだ。
豆腐屋を離れると、角の本屋の前で足が止まった。木の看板に墨の字。背表紙が横倒しに二段、縦に一段。その間から、細い青い紙片が一枚のぞいている。怜子は紙片をそっと引き、文字を読まずに折り目を直して差し戻す。その動きに合わせて、和毅の胸のうちで、別の面のノートのページが一枚、風でめくれる像が起こる。音はしないのに、爪の下に微かなざらつきが残る。
「和毅さん」
「うん」
「さっき、えいがって言った時の顔、ちょっと嬉しそうだった」
「嬉しそうに見えた?」
「うん。知らないものを思い出す時の顔」
怜子は歩幅を半分に落とした。和毅も合わせる。二人の靴音は石の継ぎ目を正確に踏み、一定の間隔で響く。通りの端で、紙くずが一枚、風に煽られて浮いた。怜子が息を吸うのと同じ高さまで上がり、怜子が吐くのと同じ速度で落ちる。和毅は横目で確認し、何も言わなかった。
「向こうは、静か?」
「時々、静かになる」
「こっちは、いつも誰かが声を出してる。夜でも」
「その声が、向こうの静けさを少しだけ動かしてる」
怜子は驚いたように和毅を見た。やがて、小さく頷く。「感じるの?」
「風の向きで」
「わたしは匂いで」
二人は同じ角で立ち止まった。角の家の壁に手を置く。木の冷たさが掌を通して互いの腕に入る。和毅は鏡をそっと取り出した。角の先で人の列が折れ、山車の骨が光を反射する。鏡の中の列と現実の列がずれている。彼は肩を一歩分だけ外にずらし、鏡の角度を三度ほど変えた。像が現実に近づき、離れ、また近づく。怜子の視線が鏡の面に落ちる。像が重なる瞬間、風が一度だけ止まり、次の瞬間に左右へ分かれて走った。二人の髪が同時に後ろへ流れ、すぐに収まる。
「今、合った」
怜子が言った。和毅は頷く。鏡の面に、二人の指先が等間隔で並ぶ。触れていないのに、触れた後のような温度が皮膚に残る。鏡をわずかに倒すと、その温度は消えかけ、戻した瞬間にまた立ち上がる。像と像の一致は、約束の作法に似ている、と和毅は思った。言葉より先に、位置が先にある。
通りの端で、太鼓が別の型に移った。一定の間が短くなる。囃子方の手首の返しが速い。和毅は鏡を畳み、内ポケットに入れた。畳むと暗さが深くなる。その暗さの中から、怜子の声がよく届く。声の帯域は高くない。胸にかかる。ここでの体温が、向こうでの孤独を温めるのを、身体が勝手に測っている。
「姉さま」
さっきの男の子が、紙風船を抱えて戻ってきた。風船の口は細い紐で固く結んである。男の子は怜子に風船を渡し、和毅の方を一度見て、すぐ足元に視線を落とした。怜子は風船を和毅に手渡す。和毅は受け取り、ほんの軽く指で押した。和紙の面がへこみ、すぐ戻る。戻る速さは、向こうの面でコンビニの自動ドアが閉じる速さと奇妙に一致している。和毅は指先の動きを止め、風船を男の子に返した。
「ありがとう」
男の子はうなずき、走り去った。怜子は和毅の横に並び、歩き出す。並ぶと、腕と腕の間に空気の細い道が一本できる。その細道に、通りの音が一本ずつ入り、抜けていく。太鼓、笛、足音、釘の音。一本ずつ確かめられる。それらが抜けるたび、細道に温度が戻る。
「和毅さんは、また来る?」
怜子は足を止めずに言った。和毅は答えをすぐに作らなかった。作る代わりに、彼は角で試したのと同じように、身体の位置を半歩だけ変えた。怜子も同じだけ動いた。二人の影が石畳の継ぎ目で重なる。重なった線は短く、すぐ分かれる。和毅はわずかに笑い、頷いた。
「また」
「うん」
それだけ言って、二人は同じ速さで歩き続けた。通りの音は増え、風の向きは何度か返った。鏡を出さなくても、面の重なりは確かめられた。和毅は肩の高さを一度落とし、また戻した。歩幅は一定。足裏の圧は安定。呼吸は浅く、均等。彼は鏡の重さを掌の記憶に残したまま、提灯の骨の間を抜けていった。
読んでくれて、ありがとう。次回は金曜日の夜に。
駄菓子屋の戸口には、色ガラスの瓶が十一本。赤、緑、琥珀、藍。斜めに差し込む日が瓶の中で屈折し、丸い影を床板に落としている。怜子は戸を内側に引いた。蝶番が一度鳴り、止む。店の奥から「怜子姉さま」と呼ぶ声が二つ、少し遅れてもう一つ。指の短い男の子が紙風船を両手で抱えて、怜子の裾に当てた。
「姉さま、見てて」
男の子は紙風船をいっぺん胸の高さまで上げ、両手を離した。風船は一度沈み、怜子が軽く蹴ると、まっすぐ天井の梁をなめて戻る。梁と風船と怜子の足先が一直線にそろう瞬間、和毅は自分の呼吸を止めていた。
「映画のセットみたいだ」
口に出してから、和毅は怜子の眉がわずかに持ち上がるのを見た。
「えいが?」
「動く絵、かな。たくさんの写真をつないで、動かして見せる」
「絵は絵、でしょう?」
「うん。でも、目の前のように見える。音も一緒に」
怜子は少し考えてから、紙風船を指でつまみ上げた。薄い和紙が光を通す。彼女は店先の手鏡を取って、紙風船を鏡の前に近づける。鏡の面の向こうで、紙の丸が逆向きに揺れた。
「こういうの?」
「似てる。でも鏡は返すだけ」
「じゃあ、ここは返す前?」
怜子はいたずらを仕掛ける子どものように、わずかに口角を上げた。和毅は首を横に振りかけ、やめた。言葉にすると、何かが遠のく気がする。代わりにポケットの中の手鏡を出す。金属の縁は指の温度でぬるい。
店の外、通りの奥から太鼓が低く鳴った。間を置いて笛が短く返す。和毅は鏡を腰の高さに立て、通りの流れを映す。人の列は左から右へ進んでいる。鏡の中では右から左へ。ごく当たり前のことなのに、胸の中心に重さが落ちた。鏡の像が現実より半拍だけ早く揺れる。列の先頭の肩が動く前に、鏡の中の肩が動いた。
「あっ」
怜子が短く声を出した。彼女の指先が鏡の縁に触れたからではない。駄菓子屋の軒先、風鈴の舌が東へ一度、すぐ西へ一度、揺れ方を逆にした。和毅は鏡から目を放さず、頬を通る風の向きを確認した。鏡の像と実際の風鈴の動きが、ほんの瞬間ずれる。その差がここにある距離だ、と身体の方が先に判断する。
「和毅さん、そっちは眩しくない?」
「少し。光の入り方が……」
和毅は鏡をゆっくり傾け、瓶の列を映した。色の順番が左右で反転する。赤の影が床板の節目に重なり、節目の木目が波のように見える。怜子は瓶の位置を指でひとつずつなぞり、指を瓶の口から離すたび、わずかな甘い匂いが上がった。飴の糖が湿気を吸っている。
「これ、好きだったんだ。小さい子が泣くと、ひとつだけ多く入れてやってね、と祖母さまに言われてる」
「じゃあ、さっきの子は二つ多かった?」
「三つ」
怜子は指を三本立てて見せた。爪の先に薄く粉がつく。和毅は笑った。笑いながらも、鏡の面は下げなかった。鏡は重いわけではないのに、腕が重くなる。像が現実より先に瞬きをする。怜子のまぶたが落ちる前に、鏡の中の怜子が一度小さく瞬いた。
店の前を山車の骨組みが通る。杉材の面に斜めの傷が二十本、等間隔。綱を引く男たちの肩甲骨の動きがそろう。和毅は鏡を垂直に起こし、山車の足元に合わせた。鏡の中で車輪の放つ粉塵が先に上がり、わずかに遅れて現実の粉塵が頬に当たる。粉の粒は細い。舌で触れるとわずかに苦い。
「囃子の練習、見ていく? 道場の方」
怜子が顎を西へ向けた。通りの奥で笛の音が一度切れ、別の旋律が入る。和毅は鏡を畳み、上着の内ポケットに滑り込ませた。畳むと暗さが増す。目がその暗さに合わせるより早く、通りの温度が少し上がる。
道場の板間は、裸足が触れるたびに低い音を返す。子どもたちが二列、背中をまっすぐにして立つ。太鼓の皮は硬く張られ、指で押せば返る弾力。怜子は脇に座り、拍子木を膝で支えた。和毅は正面の壁に並んだ手鏡を一本借り、壁際に立つ。鏡の帯の中央に自分の肩が写る。肩の上下が、壁の脈動と同期しはじめる。
「いち、に、さん」
年長の少年が合図を出す。太鼓が五つ、順に鳴り、最後の音が空間の角に溜まる。鏡の中では、その溜まる動きが先に見える。怜子が息を吸う。帯の端の小さな紙が一枚、ふわりと上がる。和毅は鏡を下げ、今度は鏡を使わずに通りの反応を待った。開け放した戸の外、駄菓子屋の軒の短い旗が一回だけ逆へ向いた。怜子が吐いた息の量と、旗の揺れ幅が合う。身体は誤魔化せない。
「どう?」
怜子がささやく。和毅は指で「よく見える」と示し、右手をすこしだけ広げた。掌の線に汗が溜まる。自分の体温がこちらの面に馴染むほど、向こう側が遠のく。それでも、どちらも消えない。同じ座標で別の面が息をしている。和毅は足裏に重さを乗せ直し、板の節を踏んだ。
「怜子さん」
「はい」
「ここにいると、匂いまで違ってわかる」
「団子の炭?」
「それと、木の汁。乾いた布のにおい」
「和毅さんの帯から、紙の匂い」
怜子は小さく笑った。彼女は拍子木を軽く打ち合わせ、子どもたちの背筋を伸ばす。和毅は鏡を胸の前で立て、怜子の横顔を映した。頬の筋肉が動くたび、鏡の像がわずかに早い。像のまばたきが先に来る。差を測る道具のように、鏡は正直だ。
「この鏡、好き」
怜子が言った。「今のわたしの形が、形のまま返ってくるから」
「向きが違うだけで、同じ」
「向きが違うから、同じになる」
怜子は拍子木を膝に戻し、指先で鏡の縁を一回、なぞった。和毅の指が同時に縁を持ち上げる。二本の指が、鏡の面を挟んで一直線に並んだ。触れていないのに、触れた錯覚が指先を刺激する。鏡の表面に、細い水の筋のような跡が走り、すぐ消えた。汗ではない。空気が反転した時にだけ出る、微かなすり傷のような跡。
練習がひと区切りつくと、子どもたちが外へ飛び出した。通りはさっきより音が多い。遠くで釘を打つ乾いた音、祭具の綿をちぎる裂ける音、油のはねる音。和毅は戸口の木枠に手を置いた。木目は縦に流れ、節は右側に一つ、左側に二つ。目で数えながら、指先の汗を拭った。
「歩こうか」
怜子が言う。二人は通りを北へ取った。飴の瓶は光の角度が変わって、床の影の楕円が伸びる。猫が一匹、用水の縁で身をかがめ、水を舐める。舌が水面に触れる前と後で、波紋の広がり方が左右で違う。和毅は短く息を吸い、鏡を出しかけてやめた。鏡がなくても、揺れは見える。身体が鏡になっていく。
「ねえ、さっきのえいが、ほんとに目の前みたいに見えるの?」
「うん。時――いや、順番が、決まった通りに流れて見える」
言いかけた語を飲み込み、和毅は手をひらいて示した。怜子はうなずく。彼女は通りすがりの豆腐屋に声をかけ、木枠の端を借りて二人で持ち上げた。枠の中の白い塊が波打つ。和毅の掌に冷たさが伝わり、同時にどこか遠い面でコンビニのビニール旗がわずかに逆にしなる像が頭に差し込む。見ていないのに、筋肉が覚える。向こうの旗は青地に白。こっちは白地に黒。色の組み合わせは違っても、折れる角度は同じだ。
豆腐屋を離れると、角の本屋の前で足が止まった。木の看板に墨の字。背表紙が横倒しに二段、縦に一段。その間から、細い青い紙片が一枚のぞいている。怜子は紙片をそっと引き、文字を読まずに折り目を直して差し戻す。その動きに合わせて、和毅の胸のうちで、別の面のノートのページが一枚、風でめくれる像が起こる。音はしないのに、爪の下に微かなざらつきが残る。
「和毅さん」
「うん」
「さっき、えいがって言った時の顔、ちょっと嬉しそうだった」
「嬉しそうに見えた?」
「うん。知らないものを思い出す時の顔」
怜子は歩幅を半分に落とした。和毅も合わせる。二人の靴音は石の継ぎ目を正確に踏み、一定の間隔で響く。通りの端で、紙くずが一枚、風に煽られて浮いた。怜子が息を吸うのと同じ高さまで上がり、怜子が吐くのと同じ速度で落ちる。和毅は横目で確認し、何も言わなかった。
「向こうは、静か?」
「時々、静かになる」
「こっちは、いつも誰かが声を出してる。夜でも」
「その声が、向こうの静けさを少しだけ動かしてる」
怜子は驚いたように和毅を見た。やがて、小さく頷く。「感じるの?」
「風の向きで」
「わたしは匂いで」
二人は同じ角で立ち止まった。角の家の壁に手を置く。木の冷たさが掌を通して互いの腕に入る。和毅は鏡をそっと取り出した。角の先で人の列が折れ、山車の骨が光を反射する。鏡の中の列と現実の列がずれている。彼は肩を一歩分だけ外にずらし、鏡の角度を三度ほど変えた。像が現実に近づき、離れ、また近づく。怜子の視線が鏡の面に落ちる。像が重なる瞬間、風が一度だけ止まり、次の瞬間に左右へ分かれて走った。二人の髪が同時に後ろへ流れ、すぐに収まる。
「今、合った」
怜子が言った。和毅は頷く。鏡の面に、二人の指先が等間隔で並ぶ。触れていないのに、触れた後のような温度が皮膚に残る。鏡をわずかに倒すと、その温度は消えかけ、戻した瞬間にまた立ち上がる。像と像の一致は、約束の作法に似ている、と和毅は思った。言葉より先に、位置が先にある。
通りの端で、太鼓が別の型に移った。一定の間が短くなる。囃子方の手首の返しが速い。和毅は鏡を畳み、内ポケットに入れた。畳むと暗さが深くなる。その暗さの中から、怜子の声がよく届く。声の帯域は高くない。胸にかかる。ここでの体温が、向こうでの孤独を温めるのを、身体が勝手に測っている。
「姉さま」
さっきの男の子が、紙風船を抱えて戻ってきた。風船の口は細い紐で固く結んである。男の子は怜子に風船を渡し、和毅の方を一度見て、すぐ足元に視線を落とした。怜子は風船を和毅に手渡す。和毅は受け取り、ほんの軽く指で押した。和紙の面がへこみ、すぐ戻る。戻る速さは、向こうの面でコンビニの自動ドアが閉じる速さと奇妙に一致している。和毅は指先の動きを止め、風船を男の子に返した。
「ありがとう」
男の子はうなずき、走り去った。怜子は和毅の横に並び、歩き出す。並ぶと、腕と腕の間に空気の細い道が一本できる。その細道に、通りの音が一本ずつ入り、抜けていく。太鼓、笛、足音、釘の音。一本ずつ確かめられる。それらが抜けるたび、細道に温度が戻る。
「和毅さんは、また来る?」
怜子は足を止めずに言った。和毅は答えをすぐに作らなかった。作る代わりに、彼は角で試したのと同じように、身体の位置を半歩だけ変えた。怜子も同じだけ動いた。二人の影が石畳の継ぎ目で重なる。重なった線は短く、すぐ分かれる。和毅はわずかに笑い、頷いた。
「また」
「うん」
それだけ言って、二人は同じ速さで歩き続けた。通りの音は増え、風の向きは何度か返った。鏡を出さなくても、面の重なりは確かめられた。和毅は肩の高さを一度落とし、また戻した。歩幅は一定。足裏の圧は安定。呼吸は浅く、均等。彼は鏡の重さを掌の記憶に残したまま、提灯の骨の間を抜けていった。
読んでくれて、ありがとう。次回は金曜日の夜に。
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