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第4章「夏の商店街」後編
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日が落ちる前に、提灯の芯に火が入った。一本ずつ、指先の動きに合わせて橙が増える。和毅は手鏡を胸の前に立て、列の進みと像の進みを同時に測った。鏡の面では右から左、通りでは左から右。ずれは小さく、息の長さで補えるほどだった。
「こっち、もう少し詰めて」
怜子が右手を軽く上げ、山車の綱を持つ若者へ合図を送る。若者は顎で応じ、足幅を半歩狭めた。綱の撓みが消え、太鼓の皮が一打ごとに均等に揺れる。鏡の中では、その揺れが一瞬だけ先に走る。和毅は鏡の角度を三度変え、縁を親指で押さえた。縁は体温で温かい。
「姉さま、ほら」
紙風船の男の子が戻り、怜子の左側、少し後ろに立った。男の子は風船を胸の前に構え、片膝を曲げて、控えめに蹴る。風船は肩の高さで一度止まり、下がり、また上がる。怜子は右足の甲でそっと押し返した。風船の上下が、太鼓の二拍目と四拍目に合う。和毅は呼吸を合わせ、鏡の面に同じ上下を載せた。像は半拍早く跳ね、現実がそれに追いつく。
「いい、今の」
怜子が男の子の頭を一度だけ撫でる。髪が指に絡まず、すぐ離れる。男の子は紅の瓶を見上げ、数を数えた。「いち、に、さん……じゅういち」先ほどと同じ数。瓶の中の飴は減っていない。店の奥で柄杓が水をすくう音が二回、間を置いて一回。水面の光は、鏡の面では角度が逆だ。和毅は鏡をわずかに寝かせ、縁が怜子の指先と一直線になる位置を探した。
「ここ」
怜子が縁に触れる。和毅の人差し指と中指が同時に縁を持ち上げる。鏡の面の中央で、二人の指の幅が一致した。触れていないが、触れた後に出る体温のにじみだけが皮膚に残る。風がその瞬間だけ止まり、次の瞬間に背中側から押し返す。提灯の房が一斉に一度だけ逆を向いた。
囃子の練習場に移ると、板間は足音で詰まっていた。年長の少年が拍子を取り、子どもたちが短く返す。怜子は壁寄りに座り、拍子木を膝の上に置く。和毅は柱と柱の間、鏡の帯の前に立ち、面を水平に保った。帯に映る太鼓の皮が、打たれる前にわずかに沈む。皮の張りが息の速度と同じだと、鏡の像と現実の光の筋が重なる。帯の一番端にかかった白い紙片が、怜子の吸う息の高さで上がり、吐く息で静かに戻る。
「そこ、止めて」
怜子の声は低く長い。少年はスティックを握り直し、手首の角度を変えた。打面とスティックの角度が五度だけ浅くなる。次の一打は音の尾が短い。鏡の中で尾が短くなり、現実がそれに揃う。和毅は右足の向きを少し外へ向け、板の節を踏み替えた。足裏に伝わる振動が左右で均等になり、鏡の面が安定する。
「ね、今の、合った」
怜子が膝の上で拍子木を一回だけ鳴らす。子どもたちの背骨が同時に伸びる。鏡の中の背骨の線も同時に伸びる。ずれが消えた。和毅は一度だけ目を閉じ、すぐ開いた。閉じている間、戸の外ののぼり旗が逆へ折れる像が、瞼の裏をかすめた。開けると、実際の旗が同じ角度で折れて、すぐ戻った。視線を怜子に戻す。怜子は拍子木を膝から外し、床に平行に置いた。木と木が触れる面のすべりが小さく、音は出ない。
練習が終わると、子どもたちは道場を出て、通りの光の帯に吸いこまれていく。板間の温度が一度下がり、畳に残った足跡の湿りが薄くなる。怜子は帯の前に立ち、髪を耳にかけた。髪が指を抜ける時の音は短い。和毅は鏡を胸の前で立て直し、怜子の横顔の輪郭を面の中央に据えた。像は安定している。まばたきは同時だ。さっきまであった半拍の早さが消えている。板間にいる者の呼吸が、同じ長さになったのだとわかる。
「行こう」
怜子が先に戸口へ向かい、左手で木枠を押した。外は提灯の列が端まで続き、骨の影が石畳に均等な縞を作っている。油の匂い、焼き団子の焦げの匂い、濡れた縄の匂い。和毅は鏡を畳み、内ポケットに入れた。畳むと、耳の奥の音が少し遠のく。代わりに足音が近くなる。二人は人の流れに逆らわず、屋台の背を縫って歩いた。
「これ、好き?」
怜子が団子を二本受け取り、一本を和毅へ渡す。串は乾いていて、指に粉がつく。和毅は齧り、歯の当たる音を小さく鳴らした。甘い汁が舌の奥へ流れ、同じ瞬間に、遠い面でコンビニの保冷ケースが短く唸って止まる像が頭をかすめる。口を閉じると、その像は消えた。嚙む回数を数える。六、七、八。怜子の嚙む速度と合う。
「好き」
「よかった」
二人は屋台の端の空地で立ち、串の先を同じ角度で斜めに下げた。捨て場には木片が四つ、紙が三枚。並びは乱れているが、風が一度大きく抜けたとき、紙三枚が同時に同じ方向へ滑った。怜子が吸う息に合わせ、和毅の肩が自然に上がる。肩はすぐ下がり、二人の影が短くなる。
駄菓子屋の前まで戻ると、瓶の色は橙に変わった。瓶の底に小さな気泡がいくつも浮き、光がひとつずつ弾ける。店主が柄杓を置き、盆の縁を拭いた。和毅は一歩だけ店内に入り、鏡を取り出した。面に瓶を入れる。色の順序は左右で逆だが、気泡の弾ける間隔は同じ。面と現実を交互に見ていると、気泡が弾ける瞬間だけ、風鈴が鳴らない。鳴らない時間は短い。怜子の息が安定しているせいだ。
「今日、楽しかった」
怜子が瓶の前で停止し、両手を前で軽く組んだ。指の関節は白くならない程度の力。和毅は鏡を下げ、顔を怜子へ向ける。怜子の目線は瓶の奥。声は小さく、届き方ははっきりしている。
「また、来てもいい?」
和毅は言葉をすぐに乗せず、位置を合わせた。肩を半歩だけ下げ、足の向きを石畳と平行に直す。怜子も同じだけ動く。二人の影が瓶の影に重なる。重なったところは暗く、輪郭がきれいに出る。その位置で、和毅は短く頷いた。喉が小さく動く。声は出していないのに、頷いた音が自分の耳に届いた。
「待ってる」
怜子は一拍置いて言い、ゆっくりと手を解いた。組んでいた指が離れるとき、爪の先がわずかに触れ、音はしない。顔は変えない。視線は瓶から外れ、和毅の胸のあたりで止まる。和毅は鏡をもう一度だけ上げ、面の中央に二人の胸から上を入れた。像は落ち着いている。まばたきは同時だ。口の動きは小さい。言葉は短い。
通りの端で、太鼓が長い打ち上げを始めた。打つ手の角度は高く、腕の筋は浮いている。囃子の終わりを知らせる合図だ。人の流れが緩み、空気の通り道が一本できる。その道に涼しさが入り、提灯の房が右へ一度、左へ一度返る。和毅は鏡を畳み、ポケットの中で縁を指でなぞった。金属の縁は汗で滑らず、指紋の線だけが残る。
「送るよ」
「ここでいい」
怜子は店の前で足を止め、踵をそろえた。和毅もそろえる。二人は正面から一度だけ目を合わせ、同時に目を外した。怜子は店へ戻り、戸を内側に引く。蝶番が一度鳴り、止む。和毅は戸が完全に閉まる前に、背を向けた。通りの風が背中を押す。押されるままに歩く。歩幅は一定。呼吸は浅い。鏡はポケットの中で静かだ。
境界蝶番の口まで戻ると、風の向きが変わった。頬を撫でる流れが、さっきと逆。和毅は肩を半歩分だけずらし、足首の角度を直した。踏み出すと、空気の密度が変わる。耳の奥の音が一度遠のき、すぐ別のざわめきが満ちた。照明の白い帯、車の薄い風、どこかの部屋のテレビの笑い声。和毅は立ち止まらず、敷石からアスファルトへそのまま移った。
家の前に着くと、玄関灯は一定の明るさで地面を照らしていた。ドアを開け、靴を揃え、手を洗い、タオルを絞る。布の水気は少なく、手の甲の水はすぐ乾く。居間から人の声がする。母の声は高く、父の声は低い。和毅は返事を短く一度だけ返し、食卓の端に腰を落ち着けた。コップに水を入れ、半分だけ飲む。水はぬるい。氷はない。
「遅かったね」
「うん」
母は食器を片づけ、父は新聞を二つ折りにして、テーブルの端に置く。文字の列は黒く、等間隔。和毅は新聞に触れず、ポケットから鏡を出した。面は暗い。部屋の光が一つ、天井の中心から落ちる。鏡の面はその光を返すが、像は薄い。和毅は鏡を掌で覆った。覆うと、温度が上がる。掌を離すと、面に微かな線が現れ、すぐ消えた。さっき板間で見た細い水の筋に似ている。
テレビの笑い声が一度大きくなり、すぐ小さくなる。父がリモコンをテーブルの中央に置き、母が台所で火を止める音がした。和毅は鏡を畳み、視線を落としたまま、コップの水をもう一口だけ飲んだ。氷はやはりない。喉を通る水の速度は、向こうの団子の汁が舌を抜けた速度とほぼ同じ。身体はその一致を短く覚え、すぐ手を離す。
「疲れてる?」
「大丈夫」
母の問いに、和毅は短く返した。声は小さく、届き方ははっきりしている。会話はそれ以上伸びず、食器の当たる音が二回、椅子が床を擦る音が一回。和毅は席を立ち、自室へ入った。鍵はかけない。机の上に鏡を置き、窓を少しだけ開ける。外の風が入る。頬を撫でる向きは、向こうで感じた逆。カーテンの裾が一度だけ揺れ、落ち着く。机の端のノートの角が、風で半ページだけめくれた。すぐに戻る。
照明を弱くし、床に座る。鏡は机の上で静かだ。面に何も映さず、ただそこにある。和毅は指先で縁をなぞり、止めた。指は温かい。耳の奥で、遠い囃子の残りが一回だけ鳴る。鳴りは短く、すぐ途切れる。途切れた後の沈みの中に、怜子の声がかすかに差し込む。声は言葉にならず、温度だけを置いていく。和毅は照明をさらに落とした。闇は深くなる。深さの中に、橙の小さな灯りがひとつ、確かに差し込んだ。
読んでくれて、ありがとう。次回は金曜日の夜に。
「こっち、もう少し詰めて」
怜子が右手を軽く上げ、山車の綱を持つ若者へ合図を送る。若者は顎で応じ、足幅を半歩狭めた。綱の撓みが消え、太鼓の皮が一打ごとに均等に揺れる。鏡の中では、その揺れが一瞬だけ先に走る。和毅は鏡の角度を三度変え、縁を親指で押さえた。縁は体温で温かい。
「姉さま、ほら」
紙風船の男の子が戻り、怜子の左側、少し後ろに立った。男の子は風船を胸の前に構え、片膝を曲げて、控えめに蹴る。風船は肩の高さで一度止まり、下がり、また上がる。怜子は右足の甲でそっと押し返した。風船の上下が、太鼓の二拍目と四拍目に合う。和毅は呼吸を合わせ、鏡の面に同じ上下を載せた。像は半拍早く跳ね、現実がそれに追いつく。
「いい、今の」
怜子が男の子の頭を一度だけ撫でる。髪が指に絡まず、すぐ離れる。男の子は紅の瓶を見上げ、数を数えた。「いち、に、さん……じゅういち」先ほどと同じ数。瓶の中の飴は減っていない。店の奥で柄杓が水をすくう音が二回、間を置いて一回。水面の光は、鏡の面では角度が逆だ。和毅は鏡をわずかに寝かせ、縁が怜子の指先と一直線になる位置を探した。
「ここ」
怜子が縁に触れる。和毅の人差し指と中指が同時に縁を持ち上げる。鏡の面の中央で、二人の指の幅が一致した。触れていないが、触れた後に出る体温のにじみだけが皮膚に残る。風がその瞬間だけ止まり、次の瞬間に背中側から押し返す。提灯の房が一斉に一度だけ逆を向いた。
囃子の練習場に移ると、板間は足音で詰まっていた。年長の少年が拍子を取り、子どもたちが短く返す。怜子は壁寄りに座り、拍子木を膝の上に置く。和毅は柱と柱の間、鏡の帯の前に立ち、面を水平に保った。帯に映る太鼓の皮が、打たれる前にわずかに沈む。皮の張りが息の速度と同じだと、鏡の像と現実の光の筋が重なる。帯の一番端にかかった白い紙片が、怜子の吸う息の高さで上がり、吐く息で静かに戻る。
「そこ、止めて」
怜子の声は低く長い。少年はスティックを握り直し、手首の角度を変えた。打面とスティックの角度が五度だけ浅くなる。次の一打は音の尾が短い。鏡の中で尾が短くなり、現実がそれに揃う。和毅は右足の向きを少し外へ向け、板の節を踏み替えた。足裏に伝わる振動が左右で均等になり、鏡の面が安定する。
「ね、今の、合った」
怜子が膝の上で拍子木を一回だけ鳴らす。子どもたちの背骨が同時に伸びる。鏡の中の背骨の線も同時に伸びる。ずれが消えた。和毅は一度だけ目を閉じ、すぐ開いた。閉じている間、戸の外ののぼり旗が逆へ折れる像が、瞼の裏をかすめた。開けると、実際の旗が同じ角度で折れて、すぐ戻った。視線を怜子に戻す。怜子は拍子木を膝から外し、床に平行に置いた。木と木が触れる面のすべりが小さく、音は出ない。
練習が終わると、子どもたちは道場を出て、通りの光の帯に吸いこまれていく。板間の温度が一度下がり、畳に残った足跡の湿りが薄くなる。怜子は帯の前に立ち、髪を耳にかけた。髪が指を抜ける時の音は短い。和毅は鏡を胸の前で立て直し、怜子の横顔の輪郭を面の中央に据えた。像は安定している。まばたきは同時だ。さっきまであった半拍の早さが消えている。板間にいる者の呼吸が、同じ長さになったのだとわかる。
「行こう」
怜子が先に戸口へ向かい、左手で木枠を押した。外は提灯の列が端まで続き、骨の影が石畳に均等な縞を作っている。油の匂い、焼き団子の焦げの匂い、濡れた縄の匂い。和毅は鏡を畳み、内ポケットに入れた。畳むと、耳の奥の音が少し遠のく。代わりに足音が近くなる。二人は人の流れに逆らわず、屋台の背を縫って歩いた。
「これ、好き?」
怜子が団子を二本受け取り、一本を和毅へ渡す。串は乾いていて、指に粉がつく。和毅は齧り、歯の当たる音を小さく鳴らした。甘い汁が舌の奥へ流れ、同じ瞬間に、遠い面でコンビニの保冷ケースが短く唸って止まる像が頭をかすめる。口を閉じると、その像は消えた。嚙む回数を数える。六、七、八。怜子の嚙む速度と合う。
「好き」
「よかった」
二人は屋台の端の空地で立ち、串の先を同じ角度で斜めに下げた。捨て場には木片が四つ、紙が三枚。並びは乱れているが、風が一度大きく抜けたとき、紙三枚が同時に同じ方向へ滑った。怜子が吸う息に合わせ、和毅の肩が自然に上がる。肩はすぐ下がり、二人の影が短くなる。
駄菓子屋の前まで戻ると、瓶の色は橙に変わった。瓶の底に小さな気泡がいくつも浮き、光がひとつずつ弾ける。店主が柄杓を置き、盆の縁を拭いた。和毅は一歩だけ店内に入り、鏡を取り出した。面に瓶を入れる。色の順序は左右で逆だが、気泡の弾ける間隔は同じ。面と現実を交互に見ていると、気泡が弾ける瞬間だけ、風鈴が鳴らない。鳴らない時間は短い。怜子の息が安定しているせいだ。
「今日、楽しかった」
怜子が瓶の前で停止し、両手を前で軽く組んだ。指の関節は白くならない程度の力。和毅は鏡を下げ、顔を怜子へ向ける。怜子の目線は瓶の奥。声は小さく、届き方ははっきりしている。
「また、来てもいい?」
和毅は言葉をすぐに乗せず、位置を合わせた。肩を半歩だけ下げ、足の向きを石畳と平行に直す。怜子も同じだけ動く。二人の影が瓶の影に重なる。重なったところは暗く、輪郭がきれいに出る。その位置で、和毅は短く頷いた。喉が小さく動く。声は出していないのに、頷いた音が自分の耳に届いた。
「待ってる」
怜子は一拍置いて言い、ゆっくりと手を解いた。組んでいた指が離れるとき、爪の先がわずかに触れ、音はしない。顔は変えない。視線は瓶から外れ、和毅の胸のあたりで止まる。和毅は鏡をもう一度だけ上げ、面の中央に二人の胸から上を入れた。像は落ち着いている。まばたきは同時だ。口の動きは小さい。言葉は短い。
通りの端で、太鼓が長い打ち上げを始めた。打つ手の角度は高く、腕の筋は浮いている。囃子の終わりを知らせる合図だ。人の流れが緩み、空気の通り道が一本できる。その道に涼しさが入り、提灯の房が右へ一度、左へ一度返る。和毅は鏡を畳み、ポケットの中で縁を指でなぞった。金属の縁は汗で滑らず、指紋の線だけが残る。
「送るよ」
「ここでいい」
怜子は店の前で足を止め、踵をそろえた。和毅もそろえる。二人は正面から一度だけ目を合わせ、同時に目を外した。怜子は店へ戻り、戸を内側に引く。蝶番が一度鳴り、止む。和毅は戸が完全に閉まる前に、背を向けた。通りの風が背中を押す。押されるままに歩く。歩幅は一定。呼吸は浅い。鏡はポケットの中で静かだ。
境界蝶番の口まで戻ると、風の向きが変わった。頬を撫でる流れが、さっきと逆。和毅は肩を半歩分だけずらし、足首の角度を直した。踏み出すと、空気の密度が変わる。耳の奥の音が一度遠のき、すぐ別のざわめきが満ちた。照明の白い帯、車の薄い風、どこかの部屋のテレビの笑い声。和毅は立ち止まらず、敷石からアスファルトへそのまま移った。
家の前に着くと、玄関灯は一定の明るさで地面を照らしていた。ドアを開け、靴を揃え、手を洗い、タオルを絞る。布の水気は少なく、手の甲の水はすぐ乾く。居間から人の声がする。母の声は高く、父の声は低い。和毅は返事を短く一度だけ返し、食卓の端に腰を落ち着けた。コップに水を入れ、半分だけ飲む。水はぬるい。氷はない。
「遅かったね」
「うん」
母は食器を片づけ、父は新聞を二つ折りにして、テーブルの端に置く。文字の列は黒く、等間隔。和毅は新聞に触れず、ポケットから鏡を出した。面は暗い。部屋の光が一つ、天井の中心から落ちる。鏡の面はその光を返すが、像は薄い。和毅は鏡を掌で覆った。覆うと、温度が上がる。掌を離すと、面に微かな線が現れ、すぐ消えた。さっき板間で見た細い水の筋に似ている。
テレビの笑い声が一度大きくなり、すぐ小さくなる。父がリモコンをテーブルの中央に置き、母が台所で火を止める音がした。和毅は鏡を畳み、視線を落としたまま、コップの水をもう一口だけ飲んだ。氷はやはりない。喉を通る水の速度は、向こうの団子の汁が舌を抜けた速度とほぼ同じ。身体はその一致を短く覚え、すぐ手を離す。
「疲れてる?」
「大丈夫」
母の問いに、和毅は短く返した。声は小さく、届き方ははっきりしている。会話はそれ以上伸びず、食器の当たる音が二回、椅子が床を擦る音が一回。和毅は席を立ち、自室へ入った。鍵はかけない。机の上に鏡を置き、窓を少しだけ開ける。外の風が入る。頬を撫でる向きは、向こうで感じた逆。カーテンの裾が一度だけ揺れ、落ち着く。机の端のノートの角が、風で半ページだけめくれた。すぐに戻る。
照明を弱くし、床に座る。鏡は机の上で静かだ。面に何も映さず、ただそこにある。和毅は指先で縁をなぞり、止めた。指は温かい。耳の奥で、遠い囃子の残りが一回だけ鳴る。鳴りは短く、すぐ途切れる。途切れた後の沈みの中に、怜子の声がかすかに差し込む。声は言葉にならず、温度だけを置いていく。和毅は照明をさらに落とした。闇は深くなる。深さの中に、橙の小さな灯りがひとつ、確かに差し込んだ。
読んでくれて、ありがとう。次回は金曜日の夜に。
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