〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第二篇 ― 紫陽花庵夢死帳(あじさいあんむしちょう)

ukon osumi

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第二章「忘れられた男」

第四話「一途な執着」

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 その日、梅雨の晴れ間を縫って南町奉行所を出た新右衛門の足取りは重かった。
 瓦町の裏長屋に、またひとり、若い芸者が“眠ったまま”亡くなったという報せが入ったのだ。件の艶書が、彼女の枕元に置かれていたという話も添えられていた。
 事件を知るのはまだ限られた者たちだけだ。世間は艶書による怪異を「夢の話」と笑い飛ばすだろう。しかし、当の新右衛門には、その笑いが底知れぬ恐怖を孕んでいるようにしか思えなかった。
「また……だ」
 独り言のように漏らした声は、誰に届くでもない。しかし、そのすぐ後ろから、静かな声が返ってきた。
「……また、ですね」
 振り返らずとも分かる。おせんがそこにいた。
 新右衛門の心を読み取ったように、彼女の顔にも憂いが浮かんでいた。
 長屋に着くと、すでに検視の手配がなされていた。新右衛門は検視役人に一礼して、部屋の中へと足を踏み入れる。
 ――安らかな顔だった。
 寝台に横たわる芸者の亡骸は、まるで深い眠りの途中にいるようにしか見えなかった。体に外傷はない。口元には、わずかな笑みすら浮かんでいた。
「……艶書があったのは、ここか」
 枕元に添えられていた封書を、新右衛門は慎重に手に取った。手触り、文の墨の香り、綴りの癖――これまでに見てきたそれと、違いはなかった。艶書は、また同じ「誰か」によって書かれ、届けられていた。
「変わらないな……呪いの“型”が、もう定まってやがる」
 背後でおせんが膝を折る。彼女の目が、少女の遺体にそっと向けられていた。
「……きっと、夢で逢っていたのね。弥一郎に」
 おせんの声には、確信と哀しみが混じっていた。
 やがて奉行所に戻った新右衛門は、すぐに道明を呼び寄せた。咒術に通じる山伏――彼の知識と術がなければ、この“夢の呪い”には太刀打ちできない。
「道明、もう俺たちだけじゃ追いつけねぇ。奴は本格的に“狩り”を始めやがった」
 道明は黙って頷いた。持参した護符を静かに広げ、先ほどの艶書の写しを目にするなり、目を細めた。
「……霊的な気配が、強まっておる。まるで想いが“文に封じられた”かのようだ。書かれた言葉が型となり、それに触れた者を選ぶのではなく、引き寄せている……」
「選ばせる……じゃなく、呼ぶ?」
「ああ。艶書に籠められた念が、特定の“想い”に強く反応するようになっておる。自責の念、孤独、愛に飢えた心……そうした想いを“好む”のだ」
 新右衛門は顎に手を当て、黙って考えた。
「まるで……恋に似てるな」
「まさにそれだ。同じ魂の波長に引かれて寄ってくる。“想われる”ことを糧に、弥一郎の霊は現世に残っておる」
「……つまり、“想ってくれる誰か”を、あの艶書が探してやがるってわけか」
 道明は無言で頷いた。
 そのとき、おせんが口を開いた。
「紫陽花……見に行きませんか? あの紫陽花庵の庭の花、もしかしたら何か……変化が出ているかも」
 ――まさか、と新右衛門は思った。
 が、実際に足を運んでみたとき、その予感は現実となった。
 庵の裏手、小さな中庭に群れるように咲く紫陽花の一株が、以前より濃い色合いに変化していた。淡い青だったはずが、いまや紫に近い、重く沈んだ色を宿している。
「こいつは……」
「呪意の濃さが、そのまま色に現れているのよ」
 おせんの声は震えていた。
 道明は花に近づき、何かを感じ取るように指先をかざした。
「……間違いない。これは“想念の染まり”じゃ。霊の“渇き”が強くなっておる。満たされぬまま、対象を変えて彷徨っている」
「……執着か。あの世に行けねぇ、強烈な想い……」
 新右衛門は拳を握り締めた。
 誰もが一度は抱いたことのある想い――叶わぬ恋、伝えられなかった言葉。だがそれが、誰かの命を奪うほどに膨れ上がっていくとは。
「――くそッ!」
 無性に腹が立った。死者が生者を喰らう構図。それを止めることができない己の無力さ。
 そして、そんな彼の拳に、そっとおせんの手が触れた。
「……あなたは、ちゃんと戦ってるわ。私もいる。道明もいる」
 新右衛門は、目を伏せたまま小さく頷いた。
(こいつは、もう後戻りできねぇ。あの霊が何を思おうと、俺がこの手で斬らなきゃならねぇ)
 そのとき、庵の中から藤吉の慌てた声が届いた。
「お、お頭ァァ! また、また艶書が!」
 新たな犠牲者の出現――

 朝靄の残る町は、まだ眠りの余韻を漂わせていたが、紫陽花庵の一角は、異様な沈黙に包まれていた。新右衛門は、庵の裏手に咲く紫陽花の花に視線を向けた。青だった花弁が、今やはっきりとした紫に染まりつつある。夜露に濡れた花の一片が、まるで血のように艶めいていた。
「これで……三人目です」
 低くつぶやいた声のすぐそばに、おせんが寄り添っていた。彼女は静かに新右衛門の袖を掴み、顔を伏せる。すでに霊だとは思えぬほど、彼女の手は温かく、確かな重みを伴っていた。新右衛門はその手を軽く握り返した。
 仮眠用に設えられた紫陽花庵の奥座敷には、夜番の芸者が眠るための布団が敷かれていた。そして、その布団の上に、まるでただ眠っているかのように、また一人の若い芸者が静かに横たわっていた。艶書は、彼女の枕元に、他の死者とまったく同じ折り方で置かれている。
「この娘も……夢で“約束”していた」
 おせんが声を落としながら囁いた。
「また来るって……弥一郎に。夢の中で」
 新右衛門は、あの深夜のことを思い返す。艶書を開いた時の墨の匂い。文の節々に潜む奇妙なリズム。そして、おせんが告げた「夢導文」の正体。彼女の霊視によって、二人の亡者が同じ夢を見せられていたこと――その恐ろしさは、今もなお脳裏に焼きついている。
 道明がやって来たのは、検死が終わった直後だった。簡素な白装束姿で現れた彼は、紫陽花に目を留め、ふっと短く息を吐いた。
「やはり……変わったか」
「見ての通りだ。青から……紫へと」
 新右衛門の言葉に、道明は無言で頷く。そして、懐から取り出した一束の霊符を、紫陽花の根元にそっと押し当てた。符は淡く光り、じわじわと草の中に沈み込む。
「霊の力が強まっている。花の色に反映されるほどに、な。こやつ……“生きている者”の気に飢えておるのだ」
「生きている者の気?」
「そう、“恋慕”だよ」
 道明は紫陽花を睨みながら答えた。
「この呪詛は、“恋”という感情を喰って強くなっている。艶書を通じて、読んだ者に恋の幻影を与える。惹かれ、心を奪われ、そしてその心が呪いに喰われていく……」
 おせんが震える声で続けた。
「この艶書、ただの“文”じゃないの。あれは……“想い”そのもの。弥一郎の未練が形を成して、読む者の心に入り込んで……夢の中で『待ってる』のよ」
 新右衛門は重くうなずいた。夢に現れ、愛を囁き、優しさを装いながら、心の奥底へ入り込む。夢の中で「また来てくれるよな」と囁かれたら、人はそれが呪いだとは気づかない。ただ、切なく、愛しく、甘やかな誘惑に酔い痴れて――そして、帰ってこられない。
「弥一郎……この男、生きていたときから、お貞に強く執着していたに違いない」
 そう呟くと、道明は少し目を細めた。
「執着とは、未練の毒だ。心中して死に切れぬ者ほど、時に強い怨霊となる。だが、弥一郎は“怨み”ではない。“恋”だ。だからこそ、タチが悪い。甘い毒ほど深く回る」
 新右衛門は唇を引き結んだ。艶書の送り手が、ただ人を呪い殺そうとしているのではない。“愛している”と錯覚させ、受け入れさせ、最後には自ら命を差し出させる――そんな狂気に満ちた呪詛だった。
 紫陽花庵の奥、仮眠部屋から出た新右衛門は、夜風に顔をさらした。おせんが背中に寄り添い、小さく呟く。
「もし……わたしがまだ生きていて、同じ文をもらっていたら……信じてしまっていたかもしれないわ」
「……馬鹿言え」
 思わず口をついて出た。新右衛門は彼女を振り返り、しっかりと見つめる。
「おめぇは、そんなまやかしに負けるほど弱くねぇ」
 おせんは微笑みながらも、目に一瞬の翳りを宿らせた。
「でも、恋って……弱くさせるのよ。信じたいって、願いたいって……心の隙を、つくの」
 その言葉に、新右衛門は言葉を失った。
 庵の外で待っていた藤吉が駆け寄ってきた。
「お頭っ……咲弥様からの文です。『次は自分かもしれない』って……」
 新右衛門は文を受け取り、眉をひそめた。咲弥もまた、艶書を手にしていたのか。あるいは、かつて書かされた“夢導文”の因果が、いま自らに返ってきているのか。
「そろそろ……夢の中に踏み込まねぇと、終わらねぇな」
 静かに、だが確かな決意を込めて、新右衛門はそう言った。おせんは黙って頷き、その手を彼の袖から、そっと胸元へ移した。
「一緒に行くわ。あなたが一人で踏み込むなら、私も一緒に」
 たとえ霊であっても、彼女は確かに“ここ”にいる。
 闇の中で咲き乱れる紫陽花の花が、さらに深く、夜を染めていった――。
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