〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第二篇 ― 紫陽花庵夢死帳(あじさいあんむしちょう)

ukon osumi

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第三章 「咲弥とお貞」

第一話「咲弥の後悔」

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 風が吹き、紫陽花の葉がさやさやと揺れた。夏を迎える前の梅雨の湿気が、八丁堀の空気に粘り気を加えていた。そんな昼下がり、南町奉行所の一角にある同心詰所の奥に、新右衛門の重い足音が響いていた。
その前に座っているのは、目を伏せた若い町娘。年は十六、七。浅葱色の小紋を着て、手を膝の上にきちんと置いているが、その指先がかすかに震えていた。
「……あの晩のことを、もう一度頼む」
新右衛門が声を抑えながら問う。目は鋭く、しかしどこか悲哀を帯びている。お花――先夜、艶書を受け取ったにもかかわらず奇跡的に生き延びた唯一の少女――が、唇をきゅっと噛んだ。
「……あたし、夢の中で、白い着物の男に……手を引かれていたんです」
声は震えていたが、真剣さがこもっていた。
「男は……すごく優しそうに笑っていて。でも、その目が……何というか……すごく、寂しそうで」
「男は、何か言ってたか?」
「はい。……『一緒においで』って。でも、途中で誰かが呼ぶ声がして、ふと振り返ったら……気がついたら、目が覚めていたんです」
新右衛門は静かに頷いた。その背後には、おせんが立ち、眉根を寄せている。彼女にしか見えぬ霊の気配が、夢の奥に潜んでいることを、すでに感じ取っていた。
「……危うかったな」
新右衛門の胸中に、不安が波のように広がる。艶書は、夢の中に誘い、そこで“契り”を結ぶ。そして、結んだ後に“連れ去られる”。今回の一件、まさに寸前で引き返したのだ。
だが、何が彼女を現世に引き戻したのか。
「おせん……何か、見えたか」
新右衛門の問いに、おせんはそっと首を横に振った。
「この子の夢の中には、まだ深く入り込めていない……でも、声が届いた。わたしのじゃない。誰かが、呼んでた……生きたい、って強く願ってた……それが、彼女を戻したんだと思う」
新右衛門はふと、お花の手元に目をやった。そこには、艶書の破れた断片が一枚、紙包みに入って残されていた。例の筆跡、そして薄く漂う香。
香――それが、再び新右衛門の記憶を揺り動かした。あの仮眠部屋で、おせんが言った「恋を喰う香」。艶書はただの手紙ではない。文に込められた情念が、文字通り人の心を食い荒らしている。
詰所を出て、道明の庵を訪ねたのは、その直後だった。蝋燭の揺らめく部屋で、修験装束の道明が文を手に取り、眉間に皺を寄せていた。
「……夢詛、かもしれぬ」
低くつぶやかれた言葉に、新右衛門の背筋がわずかに震えた。
「夢詛(むそう)……」
「強い怨念が、夢を媒体として現世に作用する呪の一種。稀な術だが、まれに“想い”が深すぎる場合……術者が死してなお、形を保って残ることがある」
「弥一郎の想いが……そのまま残っていると?」
「そうだ。そして、それに“文”という器が与えられた。恋文は、読み手の心に直接染みる。その感情を媒介に、霊が侵入するのだ。読むことで、夢の門が開く」
新右衛門は顎に手をやり、深く考え込んだ。
「ならば、これを書いたのは……お貞か」
「いや、艶書の文体は……単独の筆ではない」
その時、背後から小さく声がした。
「それは、わたし……」
咲弥だった。紫陽花庵に出入りする夢占師の彼女が、目を伏せ、震える声で言った。
「お貞さまの願いで、艶書の言葉の添削を……少しだけ、お手伝いしていたんです」
新右衛門の眉が動いた。おせんがそっと新右衛門の肩に手を置いた。
「咲弥、それは……」
「わたし、ただ、あの人の気持ちが報われればと……恋が叶えば、って……でも……こんなことになるなんて……!」
咲弥の肩が震えた。新右衛門は、強く咳払いをして、咄嗟に咎めようとしたが、口を閉じた。今さら責めても、何も解決にはならない。彼女自身が、今、誰よりも後悔している。
「……恋慕の感情が、死してなお残り……それが、形を持って、他者に襲いかかる……」
新右衛門は、そっと艶書の文を手に取り、その一節を読み上げた。
「“また、夢で逢いましょう”……」
そうだ。ここに、“感情の起点”がある。呪詛の原点は、弥一郎の思い、そして、お貞の願い。さらに、それを言葉にしようとした咲弥の善意――それらが、幾重にも重なり、毒となって熟成された。
新右衛門は、拳を握りしめた。誰の心も否定できぬ。だが、このままでは、また誰かが死ぬ。
ならば――この手で、止めねばならぬ。

 陽が傾きかけた空の下、霊雲寺の一室には、微かに香が焚かれていた。夕暮れの光が障子に揺れ、静謐な空間に影を映している。新右衛門は正座したまま、じっと咲弥の言葉を待っていた。対する咲弥は、唇を固く噛み、膝の上で指を絡ませていた。
「……わたしが、あの艶書の文を、お貞に教えました」
絞り出すような声だった。新右衛門は眉を寄せ、体を少し乗り出す。
「教えた……? どういうことだ?」
咲弥はうなずいた。目元には後悔が滲んでいた。
「お貞は……弥一郎さまと別れてから、ずっと塞ぎ込んでいました。あるとき、“言葉で人の心を引き寄せる文がある”と、わたしに尋ねてきたんです。わたし、昔から夢や符の文に触れていたでしょう? ……だから、知識として、ほんの遊びのつもりで、“夢導文”の構成を話してしまった」
新右衛門は息を飲んだ。夢導文――夢の中に入り込み、他者の無意識に干渉する、密教や符術においてすら扱いが慎重を要される異形の技。
「お貞はそれを……艶書に?」
「ええ。誰かに見せるつもりはなかった……そう言っていました。でも、いつからか、何人かの髪結い仲間に読ませるようになって……」
「そいつが回り回って、死人を出してる……ってことか」
「そう。……最初は、わたしも信じていなかった。でも……」
咲弥は言い淀んだ。次の言葉を口にすれば、もう後戻りできないことを知っていた。
「……夢に出てきたんです。弥一郎さまが。……わたしにも」
その場に重苦しい沈黙が下りた。新右衛門は、手のひらに汗が滲むのを感じながら、問いかけた。
「何を言われた?」
咲弥は目を閉じ、震える声で言った。
「“文を、届けてくれてありがとう”と……」
おせんが静かに立ち上がり、新右衛門の傍らに寄り添った。彼にしか見えぬその存在が、そっと彼の腕に手を重ねる。
「その夢……たぶん、呪の結界の中に引き込まれていたんだわ。咲弥の無意識が、“あの文”に感応して……」
「つまり、咲弥も選ばれかけた……?」
おせんは頷く。「でも、彼女はまだ目を覚ました。意識が深く引きずられる前に、拒絶したの。未練も、恋慕も、呪詛も、心が呼応してしまえば“鍵”になっちまう」
新右衛門は、視えぬ“死の文”の広がりを思った。それはもはや個人の怨恨ではない。誰かの想いが、誰かを引き寄せ、呪いの糸が密やかに絡み合っていく。
道明が静かに言った。
「夢詛は、感情の“核”に縋りつく。特に未練、執着、後悔の念は、霊的媒質になりやすい」
新右衛門は、咲弥を見据えた。
「自分を責めるこたぁねぇ。だが……そのときのお貞の心持ち、もっと詳しく教えてくれねぇか」
咲弥は、ほんの一瞬ためらったあと、小さくうなずいた。
「お貞は……弥一郎さまを心から慕っていました。でも、家の反対で引き裂かれたんです。最後に二人で心中を図った……でも、お貞だけが生き残ってしまった」
「そいつが、いまの呪詛にどう繋がる?」
「たぶん……彼女は、生きながらにして“死を望んでいた”。けれど、罪の意識と後悔が、その想いを歪ませた。そして、艶書に“言葉”として残した。弥一郎さまへの想いと、後悔と、そして……願い」
「どんな願いだ?」
咲弥は答えなかった。だが、新右衛門には、ふと頭をよぎるものがあった。
“また会いたい”――それは恋の言葉だ。だが、すでに死んだ者と交わすなら、それは呪いの呼び声になる。
「……艶書は、読んだ者の心を“試して”いる。生半可な気持ちじゃねぇ。強い想いを持った奴が、弥一郎の夢に“引かれて”いく」
おせんの声が凛と響いた。
「そして、そのまま帰って来られなければ、命を落とす。恋心を食われて、夢に囚われて……」
咲弥が身を震わせた。新右衛門は無言で立ち上がり、障子の向こうを見やった。淡く色づく紫陽花の花が、夜の帳に包まれつつあった。
まるで、次の犠牲を待つかのように――
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