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第四章「夢の淵を越えて」
第三話「夢の深層」
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再び、夢の結界が開かれた。
丑三つ時、南町奉行所の一角。道明が描いた術式の円陣の中央で、新右衛門は目を閉じ、静かに呼吸を整えていた。畳の上に敷かれた絹布の感触も、薄明かりに照らされた護符の陰影も、次第に遠のいていく。意識の奥へと、魂が引き込まれるように落ちていく。
――踏み込むのだ、“あちら側”へ。
次の瞬間、感覚が裏返るような浮遊の感覚とともに、彼の足は別の地を踏んでいた。
そこは、異界と化した紫陽花庵。軒下に吊された風鈴は音を立てず、庭先には濃密な霧が漂っていた。紫陽花の花は月光に照らされて青紫に滲み、まるでこちらを見つめ返すように静かに揺れている。現実とは異なる空気。風の匂いも湿気も、夢の中ならではの濃密さがあった。
「来たな」
声がした。振り向けば、そこにいたのは――おせんだった。
淡く光を放つ霊体としての彼女は、以前よりもはっきりとした輪郭を持ち、幽かに足音すら聞こえるような気がする。夢の中であればこそ、彼女は新右衛門と並び立つことができるのだ。
「こっちよ。霊気の流れが……奥の座敷に集まってる」
おせんの指さす方へ、新右衛門は歩を進める。鞘に収めたままの刀が、腰でかすかに揺れる。「影斬り刀」
「弥一郎の霊に対しては、怨念に切り込まねばならぬ。迷いを捨てよ、新右衛門」
出立の直前、道明がそう言っていた。その言葉が、今になって脳裏に浮かぶ。
静寂の中、座敷の襖が一人でに開いた。
そこに、男がいた。長い髪、痩身。片膝を立ててこちらを見据えるその眼は、現世の者ではない深い影を湛えていた。虚ろでありながら、燃えるような執着に満ちた光が、そこに宿っている。
「ようやく……来たか」
それは、艶書に込められていた“名”――弥一郎の霊だった。
新右衛門の喉奥に、微かに唾を飲む音が響いた。
「弥一郎。おまえが、あの艶書を……」
「うむ。わたしの思いが、文となり、女たちを呼び寄せた」
その声音は淡々としていたが、どこか歪んでいた。いや、かつて人であった“それ”は、もう正常な精神を保っていないのかもしれない。弥一郎の背後には、いくつもの女性の姿が浮かび上がっていた。朧な幻影。それぞれの表情に、涙と哀しみが浮かんでいる。
「皆、わたしの愛を受け入れた。夢の中でだけ、心を通わせた。だが……誰一人、現では振り向いてくれなかった」
「だからって……命を奪っていい理由にはならん!」
新右衛門の声が座敷に響く。怒りと哀しみが入り交じるその言葉に、弥一郎の顔が僅かに歪んだ。
「愛を拒まれる痛みを、おまえにわかるか?」
次の瞬間、空気が裂けた。弥一郎の手に、黒く光る刀が現れる。剣ではない。執念の結晶が形を成したもの。恋慕の執着が具現化した、鋭く冷たい殺意。
「この痛みを――思い知れ!」
弥一郎の影が疾風のごとく襲いかかる。新右衛門は即座に「影斬り刀」を抜いた。刀身が、不思議な光をまといながら弥一郎の斬撃を受け止める。金属音は鳴らない。だが、心の奥にひびくような衝撃が全身を駆け巡った。
「新右衛門さま!」
おせんの声が、背後から響いた。
押されるな――心で刀を振るえ。
弥一郎の刃が、新右衛門の心を試すように迫っていた。
目の前を奔る刃――だが、それは鋼の音を立てることはなかった。
弥一郎の霊が振るう剣は、形こそ刀でありながら、実体は思念そのもの。恋慕の執着が凝り固まり、凶刃となって新右衛門の魂を穿とうとしていた。
受け止める新右衛門の腕に、肉体以上の重圧がのしかかる。
それは刃と刃のぶつかり合いではなく、「生者」と「死者」の意思のぶつかり合いだった。
――おれは、負けん。
脳裏に浮かぶのは、艶書を手にした女たちの死に顔。
その目に最後まで宿っていた、惑いと哀しみ。
「おまえが欲したのは、誰かの心だろう? それを殺して手に入れて、何が残る!」
新右衛門が叫ぶと同時に、影斬り刀が火花のような霊光を弾いた。
霊の執念には容赦なかった。斬撃の波動が弥一郎の霊体を後方へ押し戻す。
「おれの言葉など、届かぬとでも……?」
弥一郎の声が震えた。否、それは怒りではない。戸惑いと――恐れ。
霊となった彼もまた、切り結びの中で、自らの執着が理に背いていることを悟りつつあったのだ。
しかしその気づきは遅かった。
「新右衛門さま、今です!」
おせんの声が空間に響く。夢の中でもなお、新右衛門を支えるその声が、新右衛門自身の心に火をつけた。
「――切らせてもらうぞ、弥一郎」
影斬り刀が大上段に振り上げられた。
次の瞬間、地を蹴った新右衛門の身体が風を裂くように前へ躍り出る。
構えを崩した弥一郎の霊へと一気に踏み込み、渾身の力で振り下ろす。
霊光がはじけ、辺り一帯を包んだ。
その中心で、弥一郎の影がふっと崩れ――やがて、霧のように溶けていった。
同時に、後ろに揺らめいていた女たちの幻影も、一人、また一人と、静かに姿を消していく。
紫陽花庵の風景が、次第に光に満たされる。
沈んでいた空が明るみ、紫陽花の色が冴え渡るように輝き始めた。
「終わったのね……」
おせんが、静かに言った。
新右衛門は、鞘に刀を収め、深く息を吐いた。
「……ああ。これでようやく、皆も安らかになれる」
勝った安堵と、どこか虚しさの入り混じる表情。
魂と魂の対決が、どれほどの重みを持つかを、新右衛門は改めて知った。
――だが、これで終わりではない。
夢からの帰路、霧が再び立ちこめてくる。
おせんが、新右衛門のそばにすっと寄ってくる。
「新さん、今の一刀……あれは、あなた自身のためでもあったのね」
その言葉に、新右衛門はかすかに目を伏せた。
弥一郎の中にあった執着は、決して他人事ではなかった。
誰かを想い、すがる心。
もし、おせんを失った現実を受け入れられなければ、自分もまた、似た道をたどったのではないか――。
「おまえが、いてくれるからだ」
そう呟いた新右衛門の横で、おせんは微笑み、少しだけ目を潤ませた。
光が満ちていく。
夢の世界が閉じようとしていた。
新右衛門とおせんの姿もまた、光の中へと溶けていった――。
「……新さん。新さん、戻りましたか」
現世の気配が、肌に戻ってくる。
道明の声が耳に届いたとき、新右衛門はゆっくりと瞼を開けた。術陣の中心、汗に濡れた額を拭いながら、深く呼吸を吐く。
「見届けましたよ。結界の霧が晴れていくのが、確かに見えました」
「ああ……終わったんだな」
新右衛門が呟くと、部屋の隅で、藤吉がずるずると這い寄ってきた。
「お、おかえりなさいませ、だんな……生きてますか?」
「生きてるよ。おまえよりはな」
そう言って笑いかけると、藤吉はほっとしながらも涙目になっている。
その横で、道明が厳かな口調で言った。
「霊とて、執着があれば、刃を持つ。人と変わりませぬ。だが、あなたの刃は、それを断てた。お見事」
新右衛門は、静かに頷いた。
影斬り刀は、鞘の中で静かに横たわっていた。
それは、これからも彼の手に在るべき刃だった。
人を守るための刃として。
丑三つ時、南町奉行所の一角。道明が描いた術式の円陣の中央で、新右衛門は目を閉じ、静かに呼吸を整えていた。畳の上に敷かれた絹布の感触も、薄明かりに照らされた護符の陰影も、次第に遠のいていく。意識の奥へと、魂が引き込まれるように落ちていく。
――踏み込むのだ、“あちら側”へ。
次の瞬間、感覚が裏返るような浮遊の感覚とともに、彼の足は別の地を踏んでいた。
そこは、異界と化した紫陽花庵。軒下に吊された風鈴は音を立てず、庭先には濃密な霧が漂っていた。紫陽花の花は月光に照らされて青紫に滲み、まるでこちらを見つめ返すように静かに揺れている。現実とは異なる空気。風の匂いも湿気も、夢の中ならではの濃密さがあった。
「来たな」
声がした。振り向けば、そこにいたのは――おせんだった。
淡く光を放つ霊体としての彼女は、以前よりもはっきりとした輪郭を持ち、幽かに足音すら聞こえるような気がする。夢の中であればこそ、彼女は新右衛門と並び立つことができるのだ。
「こっちよ。霊気の流れが……奥の座敷に集まってる」
おせんの指さす方へ、新右衛門は歩を進める。鞘に収めたままの刀が、腰でかすかに揺れる。「影斬り刀」
「弥一郎の霊に対しては、怨念に切り込まねばならぬ。迷いを捨てよ、新右衛門」
出立の直前、道明がそう言っていた。その言葉が、今になって脳裏に浮かぶ。
静寂の中、座敷の襖が一人でに開いた。
そこに、男がいた。長い髪、痩身。片膝を立ててこちらを見据えるその眼は、現世の者ではない深い影を湛えていた。虚ろでありながら、燃えるような執着に満ちた光が、そこに宿っている。
「ようやく……来たか」
それは、艶書に込められていた“名”――弥一郎の霊だった。
新右衛門の喉奥に、微かに唾を飲む音が響いた。
「弥一郎。おまえが、あの艶書を……」
「うむ。わたしの思いが、文となり、女たちを呼び寄せた」
その声音は淡々としていたが、どこか歪んでいた。いや、かつて人であった“それ”は、もう正常な精神を保っていないのかもしれない。弥一郎の背後には、いくつもの女性の姿が浮かび上がっていた。朧な幻影。それぞれの表情に、涙と哀しみが浮かんでいる。
「皆、わたしの愛を受け入れた。夢の中でだけ、心を通わせた。だが……誰一人、現では振り向いてくれなかった」
「だからって……命を奪っていい理由にはならん!」
新右衛門の声が座敷に響く。怒りと哀しみが入り交じるその言葉に、弥一郎の顔が僅かに歪んだ。
「愛を拒まれる痛みを、おまえにわかるか?」
次の瞬間、空気が裂けた。弥一郎の手に、黒く光る刀が現れる。剣ではない。執念の結晶が形を成したもの。恋慕の執着が具現化した、鋭く冷たい殺意。
「この痛みを――思い知れ!」
弥一郎の影が疾風のごとく襲いかかる。新右衛門は即座に「影斬り刀」を抜いた。刀身が、不思議な光をまといながら弥一郎の斬撃を受け止める。金属音は鳴らない。だが、心の奥にひびくような衝撃が全身を駆け巡った。
「新右衛門さま!」
おせんの声が、背後から響いた。
押されるな――心で刀を振るえ。
弥一郎の刃が、新右衛門の心を試すように迫っていた。
目の前を奔る刃――だが、それは鋼の音を立てることはなかった。
弥一郎の霊が振るう剣は、形こそ刀でありながら、実体は思念そのもの。恋慕の執着が凝り固まり、凶刃となって新右衛門の魂を穿とうとしていた。
受け止める新右衛門の腕に、肉体以上の重圧がのしかかる。
それは刃と刃のぶつかり合いではなく、「生者」と「死者」の意思のぶつかり合いだった。
――おれは、負けん。
脳裏に浮かぶのは、艶書を手にした女たちの死に顔。
その目に最後まで宿っていた、惑いと哀しみ。
「おまえが欲したのは、誰かの心だろう? それを殺して手に入れて、何が残る!」
新右衛門が叫ぶと同時に、影斬り刀が火花のような霊光を弾いた。
霊の執念には容赦なかった。斬撃の波動が弥一郎の霊体を後方へ押し戻す。
「おれの言葉など、届かぬとでも……?」
弥一郎の声が震えた。否、それは怒りではない。戸惑いと――恐れ。
霊となった彼もまた、切り結びの中で、自らの執着が理に背いていることを悟りつつあったのだ。
しかしその気づきは遅かった。
「新右衛門さま、今です!」
おせんの声が空間に響く。夢の中でもなお、新右衛門を支えるその声が、新右衛門自身の心に火をつけた。
「――切らせてもらうぞ、弥一郎」
影斬り刀が大上段に振り上げられた。
次の瞬間、地を蹴った新右衛門の身体が風を裂くように前へ躍り出る。
構えを崩した弥一郎の霊へと一気に踏み込み、渾身の力で振り下ろす。
霊光がはじけ、辺り一帯を包んだ。
その中心で、弥一郎の影がふっと崩れ――やがて、霧のように溶けていった。
同時に、後ろに揺らめいていた女たちの幻影も、一人、また一人と、静かに姿を消していく。
紫陽花庵の風景が、次第に光に満たされる。
沈んでいた空が明るみ、紫陽花の色が冴え渡るように輝き始めた。
「終わったのね……」
おせんが、静かに言った。
新右衛門は、鞘に刀を収め、深く息を吐いた。
「……ああ。これでようやく、皆も安らかになれる」
勝った安堵と、どこか虚しさの入り混じる表情。
魂と魂の対決が、どれほどの重みを持つかを、新右衛門は改めて知った。
――だが、これで終わりではない。
夢からの帰路、霧が再び立ちこめてくる。
おせんが、新右衛門のそばにすっと寄ってくる。
「新さん、今の一刀……あれは、あなた自身のためでもあったのね」
その言葉に、新右衛門はかすかに目を伏せた。
弥一郎の中にあった執着は、決して他人事ではなかった。
誰かを想い、すがる心。
もし、おせんを失った現実を受け入れられなければ、自分もまた、似た道をたどったのではないか――。
「おまえが、いてくれるからだ」
そう呟いた新右衛門の横で、おせんは微笑み、少しだけ目を潤ませた。
光が満ちていく。
夢の世界が閉じようとしていた。
新右衛門とおせんの姿もまた、光の中へと溶けていった――。
「……新さん。新さん、戻りましたか」
現世の気配が、肌に戻ってくる。
道明の声が耳に届いたとき、新右衛門はゆっくりと瞼を開けた。術陣の中心、汗に濡れた額を拭いながら、深く呼吸を吐く。
「見届けましたよ。結界の霧が晴れていくのが、確かに見えました」
「ああ……終わったんだな」
新右衛門が呟くと、部屋の隅で、藤吉がずるずると這い寄ってきた。
「お、おかえりなさいませ、だんな……生きてますか?」
「生きてるよ。おまえよりはな」
そう言って笑いかけると、藤吉はほっとしながらも涙目になっている。
その横で、道明が厳かな口調で言った。
「霊とて、執着があれば、刃を持つ。人と変わりませぬ。だが、あなたの刃は、それを断てた。お見事」
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