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第7話 昨日の後始末と、生乾きの問題
しおりを挟む翌朝の学園は、いつもと同じようで、少しだけ落ち着きがなかった。
「ねえ、聞いた?」
「昨日の夜、結界が揺れたって」
「殿下が動いたらしいわよ」
登校途中の回廊で、そんな声がひそひそと飛び交っている。内容は断片的で、どれも決定打に欠けるけれど、噂としては十分だった。
「怖いわねえ」
アイリスは、あくびを噛み殺しながら相槌を打つ。
「夜に結界が壊れかけるなんて、物騒だわ」
言いながら、自分の発言に内心で突っ込んだ。物騒どころの話じゃなかったのだけれど。
「……アイリス、眠そうね?」
「ちょっと夜更かししただけよ」
「珍しい!」
友人の一人が、じっとアイリスの顔を覗き込んだ。
「そんなに眠そうにしててさ、もしかして昨日の結界の件、アイリスが関わってたりして?」
冗談めかした声だった。からかうような、でも本気ではない問い。アイリスは一瞬だけ瞬きをして、それから肩をすくめる。
「私はぐっすり寝てたわよ?」
にこっと笑って、すぐ続けた。
「夢の中で地面と戦ってたけど」
「……なにそれ、やっぱり疲れてるんじゃない?」
「ほら見なさい、関係あるわけないじゃない」
友人たちは、納得したように笑う。それで話は終わった。昨日の張本人が目の前にいるなんて、誰も思わないのだ。
(まあ、普通はそうよね)
心の中で肩をすくめる。自分だって、同じ立場なら信じない。そんな軽いやり取りの裏で、ひとつだけ確かなことがあった。
今朝、いつも迎えに来るはずのルイが、寮の前に現れなかったのだ。
几帳面で、時間に厳格な彼が遅れるなどあり得ない。深い事情があるのか、それとも単に合わせる顔がないのか。理由は分からないが、「そこにいるはずの存在がいない」という事実は、思った以上にアイリスの日常を揺らしていた。その影響は、少し遅れて、意外な形で現れた。
「……やっぱり、自分じゃだめかも」
廊下の窓に映る自分の姿を見て、アイリスはため息をついた。指に絡む、癖のある長い髪。普段はルイが、引っ張る力も結び目の位置も完璧に整えてくれている。それを今朝は自分でやったのだが、ハーフアップは左右が揃わず、どことなく落ち着かない。
その時、後ろから静かな、無駄のない足音が近づいてきた。
「……お嬢様」
振り返ると、そこにルイが立っていた。視線が合った瞬間、彼はわずかに瞳を逸らす。
「ルイ。今朝、来なかったじゃない」
空気が重くなる前に、アイリスはあえて軽く、冗談めかして笑った。
「あなたが来てくれないから、髪をまとめるのが大変だったのよ? ……もしかして、『私のこと好きなの?』って聞いたの、そんなに嫌だった?」
ルイの肩が、目に見えて落ちた。
「……いえ。そういうことでは、ありません」
視線を床に落としたまま、彼は絞り出すように言った。昨夜、守れなかったという自責か、あるいはアイリスを危険に飛び込ませてしまった後悔か。言葉にならない沈黙が二人の間に落ちる。
「……昨日は。ご無事で、本当によかったです」
叱責も、言い訳もない。ただ、抑え込まれた懸念だけがそこにあった。
「……心配かけて、ごめんね。ルイ」
アイリスが静かに、取り繕わない声で返すと、ルイは一瞬目を見開いたが、すぐに深く頭を下げた。言葉は続かなかったが、二人を隔てていた硬い膜が、少しだけ薄くなった気がした。
放課後、回廊を曲がったところで、ひょいと視界に藤色が入った。壁際に、一人分の影が落ちている。長い髪が肩にかかり、だぼだぼの制服を着崩した青年が、壁に寄りかかっていた。
立ち方に、力みがない。まるで、最初からそこにいるのが当然だったかのようだ。
「ごきげんよう、アイリスちゃん」
ロイド・ウィステリアだった。いつもの、何を考えているか分からない笑み。けれど、その色素の薄い瞳だけは、やけに静かにアイリスを見透かしていた。
「昨日の、根っこ」
「……根っこ?」
思わず聞き返すと、ロイドは楽しそうに目を細めた。
「うん。あれ」
軽く伸ばした指先が、床を指す。正確には、床そのものではなく――その向こう。
「見事だったね。根っこちゃん」
「な、なんですかそれ!」
反射的な反応だったが、回廊に響いた声が、少しだけ浮いて聞こえた。ロイドは気にした様子もなく、首をわずかに傾ける。
「土壇場で、ああいう魔法を選ぶところ」
説明というより、確かめるような口調だった。さらりと続く言葉に、昨夜の光景が、そのまま脳裏をよぎる。判断する間もなく、手が動いた瞬間。
「君らしい選択だと思った」
評価とも、分析ともつかない声。肯定とも否定とも取れる余地を残したまま、ロイドはそこで言葉を切る。そして、本当に何でもないことのように、付け加えた。
「君のそういう性格、僕は好きだよ」
回廊の空気が、ほんの一拍、止まった。足元に落ちる光の位置が、わずかにずれる。心臓が、一度だけ、はっきりと脈を打った。
「……それ、褒めてます?」
少し間を置いて、問い返す。
「褒めてるつもり」
即答だった。言い直す様子もなく、言葉はそこで終わる。
「でも、アイリスちゃん」
「はい……?」
「知らない方が、楽なこともあるよ」
そう言って、ロイドは色素の薄い瞳を細めた。笑みは残っているが、先ほどまでとはどこか違う。彼はそれ以上何も言わず、軽い足取りで去っていった。
その背中は、誰の介入も許さないほど軽やかで、孤独に見えた。
回廊を渡り、中庭に出ると、ひときわ目立つ金色が視界に入った。その周囲には、自然と空白が生まれている。他の生徒は、近づこうとしない。
ギルバート・ラカル・ルクレール。
夕焼けの下に立つ彼は、昨夜とは印象が違っていた。
背筋はまっすぐに伸び、歩く人々との距離も、過不足なく保たれている。近づきがたいが、拒む気配はない。
アイリスは、足を止めたまま、その姿を見る。昨夜の光景が重なる。炎と風の前に立ち、迷いなく前へ出た背中。同じ人物のはずなのに、そこにある空気は違っていた。
「……おい」
低い声に呼び止められ、反射的に背筋が伸びる。視線を向けると、ギルバートがこちらを見ていた。
「昨日は、すまなかった」
言葉は短く、唐突だった。一瞬、返す言葉を探す。
「普通の令嬢は、危険なことを怖がる」
ギルバートは中庭の先を見ながら、言葉を継いだ。
「だから、守るべきだと思った」
アイリスは紡がれていく言葉に驚いた。あのプライドの高い皇太子が、正面から謝罪を口にするなんて。
「……俺の認識を、押し付けていた」
その声音に、昨夜の強さはない。命令口調でも、断定でもない。代わりに、わずかな間が挟まっていた。
ギルバートは言葉を続けず、一度視線を外す。その様子は王族というより、等身大の十六歳の少年の戸惑いに見えて、アイリスは思わず口元を緩めた。
「ギルバート殿下……」
思わず名を呼んだ、その時。
「お前は」
一拍、間が落ちる。ギルバートの言葉の続きが来る前に、アイリスのほうが先に動いてしまった。
「これ……昨日の……」
鞄を開き、中から一枚の布を取り出す。丁寧に畳まれた、刺繍入りのハンカチ。アイリスはそれを差し出しながら、少しだけ視線を逸らす。
「……生乾きですけど」
「はぁ?」
ギルバートの眉が、ぴくりと動いた。怒気というより、予想していなかったものを見るような表情だった。
「だって、昨日帰るの遅かったし!
乾かなかったんだもん!」
周囲の空気が、すっと静まる。彼は差し出されたハンカチを受け取り、しばらく無言でそれを見つめてから、深く息を吐いた。
「……気にするところが、そこか」
「だって高そうで……!」
言い訳めいた言葉が、先に出る。ギルバートは小さく息を吐き、ぽつりと言った。
「お前はやっぱり、他の令嬢とは違うらしいな」
声は低く、淡々としている。そして。
「……ヴァレリア」
初めて「おい」ではなく、名で呼ばれた。その響きに、アイリスは心臓が跳ねるのを感じた。
「はい?」
「……いや」
それ以上、言葉は続かない。
昨日と同じ空、同じ学園。けれど、歩き出したアイリスの足裏に伝わる感触は、今朝よりもずっと、確かで力強いものに変わっていた。
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