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第10話 踏みつけたものを名前
しおりを挟む学園の休日。名門貴族の令嬢たちが最新のドレスに身を包み、王都のテラスでマカロンを嗜んでいる頃、ロザリー・エヴァレットは、それとは対極にある熱気と笑い声の中にいた。
そこでは、誰の家柄も、肩書きも関係ない。必要なのは、動く手と、よく通る声と、少しの愛嬌だけだ。
王都の下町、庶民の胃袋を支える大衆酒場「黄金の麦穂亭」。煮込み料理の香ばしい匂いと、安エールの泡が弾ける音。ロザリーは古着を動きやすく改造した給仕服を纏い、片手にいくつものジョッキを抱えて、迷路のようなテーブルの間を軽やかにすり抜けていた。
「はいはい、エール三つと羊の串焼きね! ねえ、もう飲みすぎじゃない? 明日の仕事に響いても知らないわよ」
「がはは! 相変わらず手厳しいねぇ、ロザリーちゃん。なあ、そんなに働いてばかりいないで、そろそろうちの息子の嫁に来ないか? 飯はうまいし、性格もいいぞ!」
誰かが「転ぶなよ」と声をかけ、誰かが空いた席をさりげなく詰めて、通り道を作る。馴染みの客の軽口に、ロザリーは足を止め、空いた手で腰を叩いて笑い飛ばした。
「あら、おじさん。息子さんは私には十年早いわ。それに、私がここで働いているからって、モテないと思っているの? 」
「そりゃ、ロザリーちゃんは顔だけはお姫様なんだけどなぁ……中身がなぁ……」
その声に、近くの常連たちが一斉に笑う。
「失礼ね。私にプロポーズしたくて堪らない男性は、沢山いるのよ。……まぁ、全員もれなく性格に難があるから、お断りしているだけ」
「ははっ、違いない! こりゃ一本取られたな!」
どっと沸く店内。彼女の「気品」は、下町の喧騒にあっても損なわれることはない。むしろ、飾らない人々の中にあってこそ、その銀髪は親しみやすく、かつ凛とした光を放っていた。
一刻でも長く働き、一銭でも多く。
今朝、家を出る時に「今日は早く帰るね」と約束した時、リリーの瞳が、いつもより少しだけ潤んでいたのが気がかりだった。
あの子に、新鮮な卵と、甘い蜂蜜を。
できれば、喉に優しい林檎もひとつ。
それだけで、きっと今夜の笑顔は違う。
ロザリーは額の汗を無造作に袖で拭うと、再び戦場のような厨房へと声を張り上げた。
その頃、深い森に囲まれたエヴァレット男爵邸の居間では、時計の針が静かに時を刻んでいた。
隙間風の吹く、煤けた部屋。古い家具はどれも年季が入り、壁紙にはところどころ剥がれが目立つ。
だが、その中央の小さなテーブルには、フィンが持ち込んだ上質な菓子が丁寧に並べられ、彼が淹れた温かな茶の香りが、慎ましくも確かにこの家を満たしていた。
「……見て、フィンくん!お姉ちゃんに教えてもらった通り、刺繍、だいぶ上手になったでしょう?」
窓際の古びた長椅子で、痩せ細った少女――リリーが、小さな指で布を広げ、得意げに胸を張った。不揃いながらも丁寧に縫われた草花の模様。その瞳には、ロザリーと同じ、踏まれても折れない強さの欠片が、静かに宿っている。
「ああ、本当に。これなら、ロザリーも驚くよ、リリー」
フィンは微笑みながら頷き、けれどその視線は、さりげなく彼女の顔色を確かめていた。
「……今日の体調はどうだい?喉は痛くないかな」
「今日はね、お姉ちゃんが早く帰ってくるって言ってたから、元気なの」
そう言って、リリーは少し照れたように笑う。
「……あ、馬車の音がする!ほら、お姉ちゃんかも」
弾かれたように立ち上がるリリー。
その声に、フィンの肩がわずかに強張った。
確かに、遠くから車輪の音が近づいてくる。だが――。フィンは、その音に言い知れぬ違和感を覚えた。
ロザリーが乗ってくるような、軋みながら進む乗合馬車の音ではない。もっと規則正しく、重く、地面を踏みしめるたびにこの家の存在そのものを測るような、支配的な蹄の音。
「……リリー、待って」
低く、抑えた声で呼び止める。
「様子が変だ。ロザリーじゃないかもしれない」
「心配しすぎよ」
リリーは振り返りもせず、明るく言った。
「お姉ちゃんとフィンくん以外に、こんな森の奥まで来る人なんて、いないもの」
その無邪気さが、胸を締めつける。
フィンが制止するより早く、リリーはボロ家の扉に手をかけ、勢いよく開け放った。
「おかえりなさい、お姉ちゃ――……」
扉を開けた瞬間、リリーは思わず一歩、裸足のつま先を引いた。リリーの視界に飛び込んできたのは、夕闇を切り裂くような漆黒の漆塗りだった。
ヴァルディア王家の紋章を刻んだ、あまりに場違いで、暴力的なまでに豪華な四頭立ての馬車。泥を跳ね上げ、森の静寂を蹂躙して止まったその巨体から、一人の男が降り立つ。
どこまでも深い漆黒の髪と燃えるような真紅の瞳。
最高級の羊毛に金糸の刺繍を施した、目を焼くような正装。
この国の太陽、レオンハルト・ヴァルディアその人だった。
「…………なんだ、これは」
レオンハルトは、自分の汚れのない革靴が、湿った泥と腐葉土の混じった地面に触れるのを、一瞬だけ躊躇うように見つめた。だが、すぐに顔を上げた彼の眼前に広がっていたのは、単なる「貧相な家」ではなかった。
それは、かつてはどれほど壮麗だったか容易に想像のつく、広大な石造りの邸宅だった。
だが、その広すぎるがゆえに、手入れの放棄は残酷なまでに際立っている。庭園だったはずの場所は背の低い雑草に呑み込まれ、何十もの窓のいくつかは板が打ち付けられ、装飾的な柱には蔦が血管のように絡みついている。
「……おい。案内が間違っているぞ。俺は『エヴァレット男爵邸』へ行けと言ったんだ。なぜこのような……誰も住んでいないような、廃墟に連れてきた」
レオンハルトは背後の御者を鋭く睨みつけたが、御者は青ざめた顔で震えるばかりだ。彼は信じられないという様子で、巨大な、けれど死に絶えたような静寂を纏う邸宅を見上げた。
そこへ、おずおずとした、けれど凛とした声が響く。
「……ここは、エヴァレット男爵邸ですよ……貴方は、どなたですか……? 姉の、お知り合い……?」
銀色の髪、灰緑色の瞳。学園で自分が追いかけていた、あの不遜な女と、瓜二つの容貌。
けれど、目の前の少女はロザリーよりも一回り小さく、不自然なほどに痩せ細っていた。着古して何度も継ぎ接ぎされた粗末な服。寒さのせいか、それとも病のせいか、薄い肩が微かに震えている。
レオンハルトは息を呑んだ。
「貴様……。今、ここが男爵邸だと言ったか? この、屋根が落ちかけている廃墟がか?」
彼が知っていた「貧乏」とは、あくまで学園という箱庭の中の、綺麗な言葉としての不自由でしかなかった。けれど今、目の前にあるのは、一歩間違えれば風に攫われてしまいそうな、頼りなさを帯びた「生」だった。
この少女が。この屋敷が。あの、鋼のような自尊心を持つロザリー・エヴァレットが、大切にしているものなのか。
「リリー、下がれ!」
背後から飛び出してきたフィンが、リリーの肩を抱いて自分の方へと引き寄せる。
「……殿下。ここは、貴方のような方が興味本位で足を踏み入れる場所ではありません」
フィンの瞳には、レオンハルトに対する敬意よりも先に、自分の大切な聖域を侵された者特有の、鋭い敵意が宿っていた。
「……お前は誰だ……いや、見たことがあるな」
「僕はロザリーの友人ですから。……それより殿下、あいにくロザリーは留守です。お帰りください。貴方のその眩しすぎる馬車は、この家には毒になります」
フィンは一歩も引かなかった。
広大な玄関ホールの奥は暗く、家具の多くは運び出されたのか、不気味なほどの空白が広がっている。
そこでやっとレオンハルトは、自分の纏う最高級の正装が、この煤けた空気の中でいかに醜く、残酷に浮いているかを自覚した。
「……フン、不在か。ならば、ここで待たせてもらう」
「は!? 殿下、何を――」
「俺を誰だと思っている。王族がわざわざ足を運んだのだ、主が不在なら、戻るまで待つのが道理だろう。……おい、その、なんだ。そこに突っ立っている小娘」
レオンハルトは、困惑して固まっているリリーを指差した。
「案内しろ。その……中へな」
レオンハルトは傲慢にそう言い放った。しかし、その瞳には、隠しようのない困惑と、彼自身でも正体の分からない胸の痛みが混じっていた。
――そして、彼女は、この光景を、まだ知らない。
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