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六章 遠い屋敷
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しおりを挟むルイは杖で打ち据えられてひりひりするこめかみに口づけられ、ぴりっと走った痛みに小さくうめいた。伯爵は恍惚とした表情でルイの髪を指で梳き、再びシャツのボタンを外し始めた。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいんですよ。私にすべて任せてください」
ルイはなにもできない悔しさに下唇をかみしめた。ここで伯爵を振り払って逃げても、また連れ戻されて殴られるだけだ。しまいには夢で見たように剣で刺されるかもしれない。
「ふっ……」
ルイの目から悔し涙が一粒こぼれ落ちた。
「ああ、あなたは泣く姿もお美しい」
伯爵はルイに唇を寄せようとしたが、どこかでドアが乱暴に開け放たれる音がして顔を上げた。
「なんだ?」
伯爵がいらだった声をあげたとき、二人のいる部屋のドアが勢いよく開け放たれた。ドアを開けて入ってきた待ち望んだ姿を見て、ルイは打ち震えた。
「ライオル!」
ライオルはベッドに押し倒されたルイと、その上に馬乗りになっている伯爵を見つけ、腰の剣を抜いて大股に近づいてきた。
「貴様か……!」
ライオルは状況が理解できていない伯爵の襟首をつかんで床に引きずり倒した。伯爵は尻もちをついたまま、両手両足を使ってずりずりと後退した。
「なんだお前は! 誰か! 誰か来い!」
伯爵は声を張り上げて叫んだが、なんの反応もなかった。
「無駄だ。お前がフラオルテス伯爵だな?」
ライオルは抜き身の剣を構えて伯爵に詰め寄った。伯爵は誰も助けにやってこないことに気づいて顔色を変えた。ライオルは伯爵を壁際まで追い詰め、伯爵の顔すれすれの壁に剣を突き刺した。伯爵は恐怖のあまり放心して動けなくなった。
「よくも俺のものに手を出してくれたな。ルーウェン王子に懸想していたそうだな? あいにくその名前の奴はもういないし、お前が不法に買っていたのは海の国の人間だ。お前はやってはいけないことをした」
ライオルは座りこむ伯爵の髪の毛をつかんで上を向かせ、どすのきいた声で言った。ルイはこれほど怒っているライオルを見たことがなかった。怒りを向けられていないルイでさえ息苦しさを感じた。
「こいつを手に入れようだなんて思い上がるな、下衆が。身の程を知れ」
ライオルは剣を壁から引っこ抜き、振り返ってルイのほうを見た。ルイはベッドを下りてライオルに駆け寄った。ライオルは両腕を広げてルイを抱きしめた。
「無事でよかった」
ルイはライオルの背中に手を回してすがりついた。優しく頭をなでられ、押し殺していた不安が一気に解放されていくのを感じた。
「本当に来てくれた……」
「探したぞ」
「ごめん……」
ルイはライオルの肩にとんと額をつけた。そのとき、からんとなにかを放る音がした。ライオルの肩ごしに音のしたほうを見ると、フラオルテス伯爵が仕込み杖の鞘を抜き、細身の剣をライオルの背中めがけて振り上げたところだった。
「あぶな――」
ルイが叫ぶより先に、ライオルはルイをさっと離して振り向きざまに剣を振った。ライオルの剣は正確に伯爵の右の前腕を貫いた。
「ぐあ!」
伯爵は痛みに顔をゆがめ、細身の剣を取り落とした。ライオルは伯爵の腕から剣を引き抜き、慣れた手つきで刀身を振って血を飛ばした。伯爵は床に膝をつき、血の流れる右腕を押さえてうずくまった。
「……馬鹿な奴だ。なにをしようとお前にこいつは渡さない。次は殺す」
ライオルは伯爵を冷たい目で見下ろして言い放った。伯爵が恨めしげにライオルを見上げたとき、開け放たれた扉からホルシェードが駆けこんできた。
「ライオル様! ……ルイ!」
「遅いぞ」
ライオルは剣を鞘に収めながら言った。ホルシェードは抜き身の剣を持ったまま走ってきた。
「お怪我は!?」
「問題ない。ルイも無事だ」
ルイはホルシェードに笑いかけた。
「来てくれてありがとう、ホルシェード」
「ルイ……よかった」
ホルシェードはほっとしたようで少し緊張を解いた。だが、うずくまってうめくフラオルテス伯爵と、床に転がった細身の剣を見て表情をこわばらせた。
「あなたに刃を向けたんですか?」
「ああ。あれは俺を殺す気だったな」
「……じゃ、もう言い逃れはできないっすね。ライオル様に害なす存在は生かしておけません」
ホルシェードは剣を構えて伯爵に歩み寄った。伯爵は悲鳴をあげて床をはって逃げようとしたが、その前にライオルが手を上げてホルシェードを制した。
「待て、ホルシェード。クウリーの罪が決まるまで生かしておけ」
「でも」
「こいつの身柄が必要になるかもしれないだろ。クウリーはなんとしてでも潰す。こいつの処分はそのあとだ」
「……わかりました」
ホルシェードは伯爵をにらみつけたまま、しぶしぶ剣を下ろした。ライオルはルイに手を差し出した。
「帰るぞ、ルイ。海馬車が待ってる」
「うん」
ルイはライオルの手を取った。
「殿下……」
ライオルに手を引かれて部屋を出ようとしたルイに、今にも消え入りそうな声がかけられた。ルイは立ち止まって後ろを振り返った。フラオルテス伯爵は負傷した腕を押さえながら絶望に目を見開き、紫色の唇をわななかせて言った。
「私のところにいてはくださらないのですか……」
「勘違いしているようだが、伯爵。俺は自分の意志で海の国にいるんだ。俺の帰るところはカリバン・クルスだ。……さようなら、伯爵。二度と会うことはないでしょう」
ルイははっきりと告げて伯爵に背を向けた。ルイはライオルとホルシェードに付き添われて部屋を出た。
屋敷にはタールヴィ地方軍の兵士が何人もいて、無事にルイが救出されたことに皆安堵していた。伯爵家を護衛する兵士たちは全員投降していた。彼らは伯爵のしていたことを知っているので、海の国の人間に逆らうことはしなかった。ニコラウスも黙ってライオルたちを通していた。
玄関まで来ると、ライオルはくるりと振り向いて声を張り上げた。
「伯爵家に仕える者たちよ、聞け!」
ライオルたちに付き従っていたニコラウスや執事たちは、びくりと体を震わせた。
「お前たちの主人は罪を犯した。我が国の人間を誘拐して屋敷に監禁し、俺に剣を向けた。まごうことなき海の国への敵意の表れだ」
屋敷の使用人たちは真っ青になって震えた。彼らは伯爵に従っていただけで、ポーグの青年たち同様海の国を怖がっているようだ。
「お前たちも同罪だが、罪を償う機会をやる。裁きが下るまで、伯爵が逃亡しないよう見張っていろ。死なせるのもだめだ。そうすればお前たちは我々の協力者と見なそう。俺の命令を聞くか伯爵の命令を聞くかは、好きにしろ」
ベッティたちにルイの対価として金貨を渡した執事は、一歩前に出ると胸に手を当ててライオルに深々と頭を下げた。
「……おっしゃる通りにいたします。どうか、温情をかけてくださいますよう……」
「お前たちの行動次第だな」
ライオルはそう言うとルイを伴って屋敷を出た。ホルシェードやほかの兵士たちもそれに続いた。
ルイはライオルと一緒に馬に乗り、ポーグに戻った。タールヴィ家の海馬車が停泊している港には野次馬が押し寄せていたが、ライオルたちが馬を駆って戻ってくるとさっと割れて一行を通した。
ルイは海馬車に乗りこみ、中で待っていたヴェンディとカロルとフリッグに会った。ヴェンディは泣きながらルイに飛びついた。
「よかったです……! 本当によかったです!」
ルイは泣きじゃくるヴェンディの背中をぽんぽんとたたいた。
「ライオルに俺のことを伝えてくれたんだね。ありがとう」
カロルとフリッグもルイの無事を喜んだ。海馬車はルイたち全員を乗せて、カリバン・クルスへ出発した。助け出された四人は温かい毛布にくるまって海馬車の中で眠り、激動の一日の疲れを癒した。
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