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七章 タールヴィ家とイザート家
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「でもお前がほかの人のところに行ってしまうのはいやだ……」
ルイは床を見つめたまま声を震わせて言った。
「言ったってどうしようもないってわかってるけど、どうしても言わないと気が済まなくて……」
ライオルはなにも言わなかった。ルイは鼻の奥がつんとした。これ以上ここにいるのは耐えられなかった。
「……それだけ。じゃあ」
「待て」
ライオルは帰ろうとしたルイの肩を素早くつかんで引き止めた。ルイが顔を上げると、ライオルの怒ったような困ったような紺の目と視線があった。
「前にも言っただろ。ユーノとはなんでもないって」
「でも婚約は決まってるんだろ?」
「だから婚約なんかしてないって。確かに打診は受けたけど、断った」
「は? 断れるわけないだろ……家同士の契約だぞ。そんなことしたらマリクシャ様に迷惑がかかる。外聞も悪いし……」
「婚約は当人同士の問題だろうが。俺にその気がないのに勝手に話が進むもんか。父さんにも言ってないし、他人なんか関係ないだろ。お前、またリーゲンスと海の国を混同してるな? 勝手な思いこみで物事を決めつけるのはお前の悪い癖だぞ」
ルイは開いた口がふさがらなかった。
「でも、お前は……」
ユーノのことが好きなのではないかと喉元まで出かかったが、言葉にはできなかった。楽しそうにユーノとダンスを踊り、休日は一緒に観劇に出かけ、怖い目に遭ったユーノを大事そうに抱きしめていた。ユーノはわざわざライオルの働く姿を見に足を運んでいたし、二人の関係は良好だとしか思えなかった。
「何度も言わせるな。俺が愛してるのはお前だけだ」
ライオルはそう言ってルイの頬を手の甲でなでた。優しい声に、ルイはなにも言えなかった。ライオルは深々とため息を落とした。
「俺はお前がそばにいてくれればそれでいいんだ。なんでいつまでもわかろうとしないんだよ」
「……婚約してないなら、そうと早く言ってくれればいいのに……」
「お前が俺の話を聞こうとしなかったんだろうが。でもまあ」
ライオルは口角をつり上げて不敵に笑った。
「なんか俺のこと意識してるみたいだったし、自分の気持ちに向き合ういい機会だったんじゃないか?」
「……おい……わざと俺をほっといたんじゃないだろうな……」
「ギレットについて行くとは想定外だったけど、そのうち戻ってくるだろうとは思ってた。宿舎にいるのはホルシェードに聞いてわかってたし、カドレックに影から様子を見ておくように言っておいたし」
ルイは開いた口がふさがらなかった。知らないところでずっとライオルに見守られていたらしい。最近妙にカドレックの視線を感じると思っていたが、そういうことだったようだ。ライオルはルイを見限ってはいなかった。嬉しいやら恥ずかしいやらで、ルイはライオルにつかみかかった。
「お、お前な……! 俺はすごく悩んだんだぞ!」
「あっそ。でも俺だって傷ついたんだからな」
言葉とは裏腹に、ライオルはひょうひょうとしてルイの頬を指でつまんだ。ルイはがっくりと肩を落とした。疲れが急激に両肩にのしかかってきた。
「気が済んだならいい加減屋敷に帰れ。テオフィロはいつお前が帰ってきてもいいように、毎日部屋を掃除してお茶の支度をして待ってるんだぞ。お前が帰らないからずっと立ったまま毎日待ちぼうけで、かわいそうになあ」
「う……わかったよ……」
ルイは罪悪感にさいなまれてうなずいた。ライオルは自分の机に引き返し、持っていた書類を机に置いて仕事を再開した。どうやら執務室を出ようとしていたのもただの思わせぶりだったようだ。
ルイはとぼとぼとタールヴィ家の屋敷に向かった。
◆
ライオルの言ったとおり、屋敷に戻るとテオフィロがお茶の支度をして部屋でルイの帰りを待っていた。テオフィロはいつもとなんら変わらず、にこやかにルイを出迎えてくれた。テーブルにつくよう言われ、ルイはおずおずと椅子に座った。
「……すみませんでした」
「おや」
ルイが素直に謝ると、テオフィロはカップにお茶を注ぎながらくすりと笑った。
「もう冒険は終わりですか」
「はい……」
「海王軍の宿舎は楽しかったですか?」
「あの……テオフィロのお茶が恋しかったです」
「それだけですか?」
「えっ」
「ライオル様に会えなくてさみしかったんですよね?」
「いや、昼間は顔を合わせてたんだけど」
「そういうことではありません」
「あっはい」
「さみしいならさみしいと、いやなことがあればいやだと、きちんと言葉にしてください。言わなければ伝わりません。二人とも言葉が足りないのでは先が思いやられます」
「すみませんでした……」
ルイはしゅんとしてお茶を飲んだ。テオフィロは小さくなったルイに苦笑すると、夕食の支度をするため部屋を出て行った。ルイは数日ぶりの自分の部屋を眺め、いつもの場所に剣を置いて服を着替えた。フェイは上着のポケットから出てきて自分の巣箱に飛んでいき、えさ入れに盛られた木の実を食べ始めた。
ルイは慣れ親しんだ食堂で夕食をとって温かい風呂につかり、居心地のいい我が家を堪能した。フェイも巣箱が恋しかったらしく、木の実をたらふく食べて満足そうに仰向けで眠っている。
今考えると、自分からこの屋敷を離れようとするなど正気とは思えない。ルイは最近寝ても覚めても見えない重りをずっと背負っている気分だったが、すっかり体が軽くなって鼻歌でも歌いたかった。もっと早くライオルと話をしに行けばよかったと後悔した。
寝る前に読みかけの本を読んでいたルイは、ライオル付きの従者にライオルが呼んでいるから来いと言われ、気分が急降下した。確実に説教される。ルイは従者についてライオルの部屋に入った。
ライオルは居室のソファに座り、オットマンに足を投げ出してくつろいでいた。風呂に入ったあとらしく、髪の毛がしっとりと濡れて青みを帯びている。
従者が出ていって二人きりになると、沈黙がおりた。ルイはなんと声をかけていいかわからず、立ったままもじもじしていた。ライオルは指を曲げてこちらに来いと指示した。ルイはおとなしくライオルの隣に座った。
「久しぶりの屋敷はどうだ?」
ライオルは嫌味たっぷりに言った。
「……テオフィロには謝っておいた」
「怒られたか?」
「……言いたいことはきちんと言葉にして伝えろと言われた」
「そうだな。俺たちには会話が足りなかったな。話したいことがあれば全部話してくれ」
ルイはちらりと隣に座るライオルを見た。ライオルはもう冷たい目をしておらず、ルイが話すのをじっと待っている。
「……パーティーで、シャムス様に話をしに行っただろ? 話って婚約のことじゃなかったのか?」
「違う。イザート地方の伝承を聞きに行ったんだ」
「伝承?」
「魔族がらみの話だよ。御前会議で俺とギレットが魔族の襲撃について報告したのは知ってるだろ? 詳しいことはまたあとで話すけど、アンドラクスたちに対抗するためには古い話を引っ張り出さなければならなくなったんだ。そこでシャムスが俺に、イザート地方には古い伝承があるから、一助になるかもしれないから聞きに来いって言ったんだよ」
ルイはライオルとユーノのことで頭がいっぱいで、魔族のことをすっかり失念していた。ライオルが御前会議に呼ばれたのは魔族の襲撃について報告するためだったのだから、その続きを話しに行ったとしても不思議ではない。ルイは短慮な自分が恥ずかしくなった。海の国の危機より、ライオルと一緒にいられなくなることのほうがルイにとっては重大な問題だった。
「なんだ、そうだったのか……」
「最後にシャムスにいきなりユーノを嫁にする気はないかと言われた」
「え」
ルイはぴしりと固まった。
「そこにちょうどユーノが来て、シャムスにユーノを見ていてくれと頼まれちまったんだ。で、ユーノの前で断るわけにもいかないから一緒に会場をまわることにした。婚約したからじゃない。シャムスは俺たちが恋仲になればいいと思って送り出したんだろうが、最初から俺にその気はなかったし、ユーノもなにも知らなかったと思う。ユーノの口から婚約の話が出たことは一度もなかったからな」
「そ……そうなのか?」
「そうだよ」
「楽しそうにダンスを踊ってたじゃないか」
「ユーノが久しぶりのパーティーではしゃいでたからな。パーティー会場をすみからすみまで見たがってて、俺がいるとほかの男に声をかけられないからいいってご機嫌だった」
「そりゃそうだろ……」
王太子候補が連れている女に声をかけられる強者はいないだろう。ルイに話しかけてきたベルケル・スペンタも、ギレットが出てくるとたちまち萎縮していた。
ルイは床を見つめたまま声を震わせて言った。
「言ったってどうしようもないってわかってるけど、どうしても言わないと気が済まなくて……」
ライオルはなにも言わなかった。ルイは鼻の奥がつんとした。これ以上ここにいるのは耐えられなかった。
「……それだけ。じゃあ」
「待て」
ライオルは帰ろうとしたルイの肩を素早くつかんで引き止めた。ルイが顔を上げると、ライオルの怒ったような困ったような紺の目と視線があった。
「前にも言っただろ。ユーノとはなんでもないって」
「でも婚約は決まってるんだろ?」
「だから婚約なんかしてないって。確かに打診は受けたけど、断った」
「は? 断れるわけないだろ……家同士の契約だぞ。そんなことしたらマリクシャ様に迷惑がかかる。外聞も悪いし……」
「婚約は当人同士の問題だろうが。俺にその気がないのに勝手に話が進むもんか。父さんにも言ってないし、他人なんか関係ないだろ。お前、またリーゲンスと海の国を混同してるな? 勝手な思いこみで物事を決めつけるのはお前の悪い癖だぞ」
ルイは開いた口がふさがらなかった。
「でも、お前は……」
ユーノのことが好きなのではないかと喉元まで出かかったが、言葉にはできなかった。楽しそうにユーノとダンスを踊り、休日は一緒に観劇に出かけ、怖い目に遭ったユーノを大事そうに抱きしめていた。ユーノはわざわざライオルの働く姿を見に足を運んでいたし、二人の関係は良好だとしか思えなかった。
「何度も言わせるな。俺が愛してるのはお前だけだ」
ライオルはそう言ってルイの頬を手の甲でなでた。優しい声に、ルイはなにも言えなかった。ライオルは深々とため息を落とした。
「俺はお前がそばにいてくれればそれでいいんだ。なんでいつまでもわかろうとしないんだよ」
「……婚約してないなら、そうと早く言ってくれればいいのに……」
「お前が俺の話を聞こうとしなかったんだろうが。でもまあ」
ライオルは口角をつり上げて不敵に笑った。
「なんか俺のこと意識してるみたいだったし、自分の気持ちに向き合ういい機会だったんじゃないか?」
「……おい……わざと俺をほっといたんじゃないだろうな……」
「ギレットについて行くとは想定外だったけど、そのうち戻ってくるだろうとは思ってた。宿舎にいるのはホルシェードに聞いてわかってたし、カドレックに影から様子を見ておくように言っておいたし」
ルイは開いた口がふさがらなかった。知らないところでずっとライオルに見守られていたらしい。最近妙にカドレックの視線を感じると思っていたが、そういうことだったようだ。ライオルはルイを見限ってはいなかった。嬉しいやら恥ずかしいやらで、ルイはライオルにつかみかかった。
「お、お前な……! 俺はすごく悩んだんだぞ!」
「あっそ。でも俺だって傷ついたんだからな」
言葉とは裏腹に、ライオルはひょうひょうとしてルイの頬を指でつまんだ。ルイはがっくりと肩を落とした。疲れが急激に両肩にのしかかってきた。
「気が済んだならいい加減屋敷に帰れ。テオフィロはいつお前が帰ってきてもいいように、毎日部屋を掃除してお茶の支度をして待ってるんだぞ。お前が帰らないからずっと立ったまま毎日待ちぼうけで、かわいそうになあ」
「う……わかったよ……」
ルイは罪悪感にさいなまれてうなずいた。ライオルは自分の机に引き返し、持っていた書類を机に置いて仕事を再開した。どうやら執務室を出ようとしていたのもただの思わせぶりだったようだ。
ルイはとぼとぼとタールヴィ家の屋敷に向かった。
◆
ライオルの言ったとおり、屋敷に戻るとテオフィロがお茶の支度をして部屋でルイの帰りを待っていた。テオフィロはいつもとなんら変わらず、にこやかにルイを出迎えてくれた。テーブルにつくよう言われ、ルイはおずおずと椅子に座った。
「……すみませんでした」
「おや」
ルイが素直に謝ると、テオフィロはカップにお茶を注ぎながらくすりと笑った。
「もう冒険は終わりですか」
「はい……」
「海王軍の宿舎は楽しかったですか?」
「あの……テオフィロのお茶が恋しかったです」
「それだけですか?」
「えっ」
「ライオル様に会えなくてさみしかったんですよね?」
「いや、昼間は顔を合わせてたんだけど」
「そういうことではありません」
「あっはい」
「さみしいならさみしいと、いやなことがあればいやだと、きちんと言葉にしてください。言わなければ伝わりません。二人とも言葉が足りないのでは先が思いやられます」
「すみませんでした……」
ルイはしゅんとしてお茶を飲んだ。テオフィロは小さくなったルイに苦笑すると、夕食の支度をするため部屋を出て行った。ルイは数日ぶりの自分の部屋を眺め、いつもの場所に剣を置いて服を着替えた。フェイは上着のポケットから出てきて自分の巣箱に飛んでいき、えさ入れに盛られた木の実を食べ始めた。
ルイは慣れ親しんだ食堂で夕食をとって温かい風呂につかり、居心地のいい我が家を堪能した。フェイも巣箱が恋しかったらしく、木の実をたらふく食べて満足そうに仰向けで眠っている。
今考えると、自分からこの屋敷を離れようとするなど正気とは思えない。ルイは最近寝ても覚めても見えない重りをずっと背負っている気分だったが、すっかり体が軽くなって鼻歌でも歌いたかった。もっと早くライオルと話をしに行けばよかったと後悔した。
寝る前に読みかけの本を読んでいたルイは、ライオル付きの従者にライオルが呼んでいるから来いと言われ、気分が急降下した。確実に説教される。ルイは従者についてライオルの部屋に入った。
ライオルは居室のソファに座り、オットマンに足を投げ出してくつろいでいた。風呂に入ったあとらしく、髪の毛がしっとりと濡れて青みを帯びている。
従者が出ていって二人きりになると、沈黙がおりた。ルイはなんと声をかけていいかわからず、立ったままもじもじしていた。ライオルは指を曲げてこちらに来いと指示した。ルイはおとなしくライオルの隣に座った。
「久しぶりの屋敷はどうだ?」
ライオルは嫌味たっぷりに言った。
「……テオフィロには謝っておいた」
「怒られたか?」
「……言いたいことはきちんと言葉にして伝えろと言われた」
「そうだな。俺たちには会話が足りなかったな。話したいことがあれば全部話してくれ」
ルイはちらりと隣に座るライオルを見た。ライオルはもう冷たい目をしておらず、ルイが話すのをじっと待っている。
「……パーティーで、シャムス様に話をしに行っただろ? 話って婚約のことじゃなかったのか?」
「違う。イザート地方の伝承を聞きに行ったんだ」
「伝承?」
「魔族がらみの話だよ。御前会議で俺とギレットが魔族の襲撃について報告したのは知ってるだろ? 詳しいことはまたあとで話すけど、アンドラクスたちに対抗するためには古い話を引っ張り出さなければならなくなったんだ。そこでシャムスが俺に、イザート地方には古い伝承があるから、一助になるかもしれないから聞きに来いって言ったんだよ」
ルイはライオルとユーノのことで頭がいっぱいで、魔族のことをすっかり失念していた。ライオルが御前会議に呼ばれたのは魔族の襲撃について報告するためだったのだから、その続きを話しに行ったとしても不思議ではない。ルイは短慮な自分が恥ずかしくなった。海の国の危機より、ライオルと一緒にいられなくなることのほうがルイにとっては重大な問題だった。
「なんだ、そうだったのか……」
「最後にシャムスにいきなりユーノを嫁にする気はないかと言われた」
「え」
ルイはぴしりと固まった。
「そこにちょうどユーノが来て、シャムスにユーノを見ていてくれと頼まれちまったんだ。で、ユーノの前で断るわけにもいかないから一緒に会場をまわることにした。婚約したからじゃない。シャムスは俺たちが恋仲になればいいと思って送り出したんだろうが、最初から俺にその気はなかったし、ユーノもなにも知らなかったと思う。ユーノの口から婚約の話が出たことは一度もなかったからな」
「そ……そうなのか?」
「そうだよ」
「楽しそうにダンスを踊ってたじゃないか」
「ユーノが久しぶりのパーティーではしゃいでたからな。パーティー会場をすみからすみまで見たがってて、俺がいるとほかの男に声をかけられないからいいってご機嫌だった」
「そりゃそうだろ……」
王太子候補が連れている女に声をかけられる強者はいないだろう。ルイに話しかけてきたベルケル・スペンタも、ギレットが出てくるとたちまち萎縮していた。
応援ありがとうございます!
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