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うつろな夜に
トーデストリープ
しおりを挟む肺いっぱいに息を吸い込んだら、今度こそはひと思いに飛び込んで、頭の先から爪先まで完全に飲み込まれた。全身で海を感じる。
ねぇ、でも。『泳ぐ』って、どうすればいい? わたしはろくに泳いだ事がなかった。長い距離を泳ぐ方法を、彼に聞いておけばよかった。
溺れてしまう? ……好都合。わたしは生還する事を一切望んでいないのだから、うまい泳ぎ方を知らなくてよかった。身に着いていなくて幸い。何年生きようと、わたしは人間だもの。移動には足を使うし、呼吸は肺でしかできない。大好きなあなたとは、なにもかもが違っている。
本当は泳ぐ必要もない。目的はただひとつ、この人生に終止符を打つ事だ。このまま揺蕩って、酸素が尽きるのを待っているだけで達成できる。…………でも、目的を果たす前に。ひそかに見ていた夢を叶えるための努力は? 彼の愛する海底の王国を見ないまま、死んでもいいの?
――――それではダメだ。そんなのはわたしらしくない。なるべく遠くまで行きたい。彼のそばに。どんなときも持ち続けた願いじゃないか。そして、それは……こんなときでもなければ挑戦できない事だから。チャンスは……そう、一度きり。
死ぬのが少し遅いか早いかの違いなんて、言われなくてもわかっている。言うなれば、わたしのしようとしている事は『誰より前向きな入水自殺』。……けれど、『誰より前向きな遺品整理』を成し遂げた実績が背中を押してくれる。潮の流れを見極めて、身を任せた。この推進力を借りて、どこまで行けるだろう。本当はすでに苦しくなってきている。想像よりずっと早い。人間はこんなにも無力なのか。
海水が流れ込んでくるのを防ぐために、しばらくは少しずつ息を吐き出しながら進んでいたが、吐く量を誤ってしまった。命取りの動揺。酸素を戻そうと吸い込んだ口から水が容赦なく侵入してくる。首を抑えて悶えていたら、だんだん意識が遠のいて――――……。
先ほどまで苦しんでいたのが嘘のように楽だ。陸地にいるときと同じ呼吸ができる。全身を包んでいるのは水なのに、わたしはやっぱりもう死んでしまったの? …………とてもそうは思えないけれど。
なんて落ち着く場所なのか。大気の振動を聞くより、海中のくぐもった旋律が、わたしにはちょうどいい。陸地では、すべての喧騒がダイレクトに届きすぎるから。人々の囁きも、小鳥の囀りも、得体の知れない機械の駆動音も……わたしにはすべてがよく聞こえた。煩わしかった、いつも。
彼の声だけを聞いていたかった。ありとあらゆる生活音や雑音にさらされるなかで、あの声だけが光を纏って心に届くようだった。唯一、好ましかった。人魚であれば、彼でなくとも人間の耳に心地よく響く周波数を出せるのかもしれない。
でも、わたしは彼がいい。彼の声がいっとう好き。あのひとの声だけが慕わしい。目覚めるときも、眠りにつくのも、いつでもあの声に導かれたかった。もっともっと聞いていたかった。
声で思い出した事がある。わたしは出稼ぎがてら、人魚にまつわる伝承を調べ回ってみたけれど、ほとんど情報は得られなかった。他の架空の生きものについてなら、いくらでも発見できたのに、変なの。でも、おばあちゃんから仕入れたとっておきなら、ひとつだけ。――――彼らは世にも美しい声で歌うんだって。
いつもいつも『今度会えたときに聞かせてもらおう』と思って忘れてしまっていた。本当か嘘か例外か、確かめる事ができなくて残念。微睡みのなかで聞いた優しい歌声も、たぶんあなたじゃなかったから。でも、生まれ持った音感がどうだって、あなたがとても綺麗な声を持っている事は知っている。海底では有名でも、この地上ではきっと、わたしだけが。
ああ、どうしよう。死のうとしているのに、わたし……あなたにものすごく会いたい。いますぐに。一度くらいは、わがままを言って困らせてみればよかった。…………じゃないね。いままでずっとそれができなかったから、最期くらいはわたしから会いに行くと決めたんだった。
そこに辿り着けない事を知っていても、行きたいから行くの。それ以上の理由なんてないし、なくていい。あなたがそのヒレでわたしの元へ通ってくれたように、わたしはこの足であなたの国を目指してみる。ずっと甘えてたね。毎回来させちゃって本当にごめんね。あなたはいつだってわたしに合わせてくれていた。足もないのに、歩み寄ってくれたのはあなたからだった。
もう一度会いたかったけど、生きているうちには無理そう。死んでからなら、どうだろう。遺体を発見させるのは忍びないけれど。再会のための悪あがき。陸から少しでも離れた場所へ。
空の星として召し上げられるより、多少は現実味があるだろう。海に沈んでいくほうが、まだ少し。力を抜いて、身を委ねる。揺り籠に揺られるって、こんな感覚? 無理に進もうとしなくても、わたしの体は勝手に運ばれていく。うまく海流に乗れたらしい。
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