「匂いを嗅ぐ名探偵は、高校生活に巻き込まれる! 臭気判定士の能力で転校生の秘密を嗅ぎ取る青春ラブコメ」

本能寺から始める常陸之介寛浩

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第106話「白井、嗅覚の暴走──“抑えられない本能”」

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放課後の図書室。
外は夕焼けに包まれ、ガラス越しの陽が本棚を赤く染めていた。

この時間帯、図書委員と数人の生徒を除けば、ここはほぼ無人となる。
静けさが支配する、香りがよく通る空間。

──そんな場所で、僕はアーニャとふたりきりになっていた。

きっかけは些細なこと。
先生に頼まれて、生徒名簿の過去データを調べに来た。
アーニャは偶然、読みかけの物語の続きを探しに来た。

偶然が重なり、沈黙が落ちて、
気づけば僕たちは、古い文庫本が積まれた窓際の一角で肩を並べていた。

 

けれど──静かなのは空間だけだった。

香りが、違う。

まるでこの部屋全体が、彼女を中心にして香りを回転させているようだった。

本の紙とインクの香りが、
アーニャのスパイスと溶けて、甘く滲む。

カルダモン。クローブ。ミルラ。
さらに髪から立ち上るオリエンタルな香油の残香。

そして、彼女の肌そのものから漂う、微かな体温の記憶。

僕の鼻は、そのすべてに──抗えなかった。

 

「しろいくん」

ふいに名前を呼ばれた。
その声は、音ではなく香りに聞こえた。

彼女は視線を伏せたまま、ぽつりと呟く。

「わたし、ずっと1人だった」

「国でも、家でも、学校でも……スパイスの香り、みんな嫌がる」

「『くさい』って、よく言われる。『においが強い』って、距離を置かれる」

夕焼けが彼女の横顔を切り取っている。

「でも……あなたは、ちがう」

「あなたの目と鼻は、わたしの香り、嫌がらなかった」

「……むしろ、吸い込む」

 

言葉にされたその瞬間──
僕の呼吸が、浅くなった。

(吸い込んでる……本当に、無意識で)

彼女の香りは僕の理性の外にある。

判断じゃない。
選択でもない。

──本能だ。

次の瞬間、僕は気づけば手を伸ばしていた。

ふわりと揺れる、アーニャの黒髪。
そこから香るウードの甘さに導かれるように、顔が近づく。

彼女の首筋、うなじ、耳の後ろ──
そこに濃縮された“個人の香り”が、僕の嗅覚を引き寄せた。

 

呼吸が、止まる。

目が霞むほど、香りに集中してしまう。

「……だめだ、これ……これは“香りの本能”だ」

 

ギリギリで、僕は息を止めた。

あと数センチで理性が崩壊する。
香りだけで、ここまで意識が持っていかれるなんて。

アーニャがそっと振り返った。

琥珀色の瞳が、優しく揺れている。

「わたし、もうちょっとだけ、ちかづいてもいい?」

その問いかけの中には、香りのように淡く──でも確かに、恋の気配があった。

 

僕は、頷けなかった。

けれど、拒むこともできなかった。

ただ、鼻が静かに教えてくる。

この香りは、もう二度と忘れられない──と。
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