誰にも読まれなかった五千話、それでも僕は君のために書き続けた

本能寺から始める常陸之介寛浩

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第8話 『ドライヤーの音が“誰かの気配”に感じられた夜』

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 乾いた風の音が、壁越しに聞こえてきた。

 ドライヤーだ、と気づくまでに数秒かかった。

 初めは、何か機械の音かと思った。
 夜の静寂に、不意に混じった不規則な“ふわぁあ……”という風の唸り。

 最初は不快だった。
 せっかくの静かな夜が壊された気がして、眉をひそめた。

 けれど、その音が「誰かの存在の証明」だと気づいたとき、
 それは、どこか心を撫でるような音に変わった。

 時計を見ると、夜の0時を過ぎていた。
 部屋の中は、いつも通りの静寂。
 蛍光灯の光と、スリープ画面に入りかけたPCが、唯一の“人の気配”だった。

 それまで朝倉一真は、今日の小説投稿を終えて、ぼんやりと座っていた。
 画面の隅には、更新通知のあとに現れた例の表示。

 ♥1

 いつものように、たったひとつの読者が反応をくれた。

 runa0213。
 もう何年も、名前しか知らない相手。
 けれど、彼女(だと勝手に思っている)のその指先が、
 自分を「見ている」証だと思うことで、ようやく今日一日が終われた。

 それだけで、十分だったはずだった。

 なのに――

 今夜は、なぜか落ち着かなかった。

 ドライヤーの音は、隣室から漏れていた。

 アパートの壁は薄い。
 以前住んでいた若い男のゲーム音も、生活音も丸聞こえだった。

 今の住人が引っ越してきたのは半年前。
 性別も顔も知らない。挨拶も交わしたことはない。

 けれど、夜の静けさの中で、生活音だけがときおり聞こえてきた。

 ドライヤーの音もそのひとつだった。

 髪を乾かしているのだろう。
 シャワーのあとのルーティンなのかもしれない。
 コンビニで買った入浴剤でも使って、湯船に浸かったあとの時間かもしれない。

 ――そんな想像をしてしまう自分に、気づいた。

 「何やってんだろうな、俺……」

 ひとりごとが、部屋に吸い込まれる。
 テレビも音楽もないこの空間では、声すら違和感だった。

 それでも、耳を澄ませた。
 風の音。吹き抜ける熱。ドライヤーの唸り。

 それらすべてが、“誰かが今、同じ時間を生きている”証に感じられた。

 ふと思い立って、立ち上がった。
 玄関まで歩き、サンダルをつっかけて、ドアをそっと開ける。

 外は真っ暗だった。
 風が冷たい。
 誰もいない。
 それでも、空気が、部屋の中よりずっと“生きている”気がした。

 隣のドアの前に、洗濯機の排水ホースが見えた。
 誰かが、確かにここにいる。
 そして、自分と同じように「暮らしている」。

 それだけのことが、今夜はどうしようもなく、胸を締めつけた。

 部屋に戻ると、スリープしていたPCの画面が再点灯した。

 マウスを動かし、投稿画面を確認する。
 やはり、♥は1つのまま。

 けれど今夜は、もう少しだけ誰かとつながっていたくて――
 一真は、小説の続きを書き始めた。

『旅の途中、勇者は夜営地で耳をすませた。
 焚き火の向こうに、誰かの寝息が聞こえた。
 その音は、とても小さく、そしてあたたかかった。
 “ああ……誰かが、生きてる音だ……”と、彼は思った。
 それだけで、眠れそうな気がした。』

 彼は、書き終えると、いつもより丁寧に保存を確認した。

 そして投稿。
 更新完了。

 数分後――画面に新しい通知が現れる。

 ♥1 → 更新なし
 すでに、彼女は読んでいたのだろう。
 あるいは、今日の話はまだ届いていないのかもしれない。

 それでも、一真は画面の前で、しばらく何もせず座っていた。

 隣室のドライヤーの音は、いつの間にか止まっていた。

 静寂が戻る。
 だが、その“静けさ”は、ほんの少しだけ温かかった。

 誰かが今夜、眠りにつく前に、髪を乾かしていた。
 きっと、明日も同じように起きて、同じように日々を繰り返す。

 それだけで、自分もまた“明日を生きていい”気がした。

「runaさん、もし……あなたも、そんな風に、
 誰かの生活音に救われていたことがあるなら……」

 声に出さずに呟き、PCを閉じた。
 カーテンの隙間から、夜風がわずかに吹き込んだ。

 その音もまた、“生きている証”だった。
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