『ブラック企業辞めたら、黒ギャル女将の温泉宿に拾われました──しかも全員、人生拗らせた宿泊客しか来ない件』

本能寺から始める常陸之介寛浩

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【第1章】『“やさしさ”は湯けむりの中に──ギャル女将と人生ほぐれ組』

第4話『夫婦の離婚旅行──最後に、もう一度だけ温まりたくて』

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 その日、《ゆのさき荘》に秋の風が入り込んだ。

 山の木々が、ほんの少しだけ色づき始める九月のはじめ。朝夕の空気がひやりと肌に触れる頃。温泉にはちょうどいい季節だ。

 玄関の前に立つ人影を見て、俺は思わず背筋を伸ばした。

 

 一組の中年夫婦。男はスーツ、女は地味なカーディガンとロングスカート。ふたりとも無表情で、目を合わせることなく、それぞれに荷物を持って立っていた。

 夫婦、というよりも、会社の上司と部下のような距離感。だけど、その微妙な空気に、俺はすぐに“何か”を察した。

 

「お迎え、ありがとうございます」

 妻のほうが先に口を開いた。丁寧な言葉、だけど声音は平坦だった。

 夫は深く頭を下げたが、それだけで言葉はない。

 

「二名様、お部屋はこちらでーす☆」

 女将のさくらがいつも通りのテンションで現れたが、直後、ぴたりと口をつぐんだ。

 目が合った瞬間、彼女もすぐに察したのだろう。

 

「どうぞ、あたたかい部屋に通しますね」

 語尾が少しだけ、やわらかくなった。

 

 

 ◆ 

 

 部屋に荷物を置いたあと、ふたりは黙って縁側に並んで座った。けれど、どちらも視線は合わない。話もしない。風だけが間に吹いていた。

 さくらが俺にだけ、そっと耳打ちした。

「……なんか、あるね」

「多分、かなりデリケートな“なにか”が」

「よし。なら、今日の献立、“やわらか系”でいこうか」

 

 彼女はそれ以上は何も言わなかった。ただ、その夜の夕食には、煮物が多く並んだ。

 南瓜のそぼろ煮、里芋の含め煮、湯葉と豆腐の炊き合わせ。色も味も、すべてが“言葉を交わさなくても食べられる”ように整えられていた。

 

 

 ◆ 

 

 広間では、数人の宿泊客たちがあたたかい空気の中でそれぞれの食事をとっていた。

 その隅で、ふたりは座っていた。

 黙って、食べていた。

 

 夫は箸の持ち方が綺麗だった。食器の音もたてず、まるで決められた型のように一口ずつ淡々と料理を口に運ぶ。

 妻は、最初のひとくちをためらったあと、少しだけ眉を上げていた。けれど、それ以上の感情は見せなかった。

 

 さくらが、茶碗蒸しを手にふたりの席に向かった。

「こちら、うちの“まじで心ほぐれる”茶碗蒸しです♡ ……勝手に名付けました」

 

 妻がふっと笑った。

 笑う、というより、顔の筋肉が少し緩んだ──そんな感じだった。

 

 夫が小さく頭を下げた。

「いただきます……」

 

 それは、ようやく発された、彼の最初の言葉だった。

 

 

 ◆ 

 

 夕食後、風呂に向かうふたりの背を見ながら、さくらがぽつりと言った。

 

「“離婚前夜”って、こんなに静かなのね」

 

「え?」

 

「女湯でね、奥さんぽい方がぼそって。“明日、役所行く予定なんです”って」

 

 俺は返す言葉を失った。

「……最後にどこか行きたいと思って、って」

「“一緒に温泉に入って、あったかいもの食べて、何も言わずに終わりたい”って……。なんか、わかるような、わかんないような」

 

 さくらは天井を見上げた。

「でもさ、最後って……あったかくして終わりたいもんじゃない?」

 

 

 ◆ 

 

 翌朝。

 雨が降っていた。細かい霧のような雨が、軒先を濡らしていた。

 玄関先に出てきたふたりは、やはり何も話さなかった。チェックアウトの手続きも、最小限。カードを受け取り、領収書を受け取り、鞄を持って、並んで立った。

 

 そのとき。

 夫が、玄関の三和土(たたき)にしゃがんだ。

 

 そして、妻の草履を──そっと、揃えた。

 

 何も言わず、手を伸ばして、片方が少しだけ前に出ていた草履を、すっと、もう一方の位置に合わせる。

 

 まるで、それが癖のように。

 それが、ずっと昔からの習慣であるかのように。

 

 妻は、黙って草履に足を入れた。何も言わなかった。

 けれど、彼女の指先が、ほんのわずかに震えていたことを、俺は見た。

 

 ふたりは肩を並べて出て行った。

 傘は一本だけだった。

 

 

 ◆ 

 

 雨音の中、しばらく誰も何も言わなかった。

 さくらがぼそっと言った。

「……揃えてたね、草履」

「……はい」

「揃えるって、さ、まだ“自分のこと”じゃないよね。“相手のこと”っていうか」

 

 彼女の手元のカウンターに、ポツンと濡れた領収書が置かれていた。

 その余白に、夫婦の筆跡で小さく書かれていた。

 

 

 「お世話になりました」
 「いつか、“旅”として、また来ます」

 

 

 ◆ 

 

 その夜、さくらは帳場で何やら紙を折っていた。

「なにしてるんです?」

「夫婦割引、つくろうかなって。あの人たちに、次来たとき“ちゃんと旅できたね”って言えるように」

「……それ、いいですね」

「あと、“草履揃えたら10%オフ”ってのも入れようかな~?」

「いや、それハードル高くないですか!?」

 

 そんな冗談を言いながらも、さくらの声はやわらかくて。

 俺の胸の奥に、じんわりと、何かが溶けていく気がした。

 

 ──あの草履の距離が、ふたりの未来に、ほんの少しでも繋がっていますように。

 

(つづく)
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