妹に婚約者も家名も奪われましたが私は王妃の遺言状を握っています 〜虐げられた公爵令嬢を捨てた王宮が、三日後に血塗れの相続争いで崩壊しました~
常陸之介寛浩📚️書籍・本能寺から始める
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第35話 青い指輪の女を追え
青い硝子石の欠片は、思っていたよりも軽かった。
小さな証拠袋の中で、朝の光を受けて鈍く光っている。
本物の宝石ではない。
青玉でも、瑠璃でもない。
市場の露店でも買えるような安価な装飾石。
けれど、それは今、王宮北翼の監査机の上で、どんな宝石よりも重い意味を持っていた。
ネル・ファランが王宮洗濯室の排水口から見つけた欠片。
ベアタが見たという、青い石の指輪をした女。
王宮洗濯室裏口へ現れ、女官服の型紙の件を口止めした女。
そして、保護証言室について「最初に行った子を潰せば終わり」と言った声。
リゼット・グラン。
元夫人会の針仕事係。
サルヴィ商会摘発後も、薬草納入補助人の名で王宮の通用門を出入りしていた女。
彼女を追えば、王宮内に残るオルガ・ベルナールの手が見える。
エレノアは、机上に並べられた資料を見下ろした。
出入り記録。
洗濯室の配置図。
ネルの相談記録。
ベアタの仮証言。
慈善衣料会の名簿。
サルヴィ商会関係者一覧。
夫人会に出入りしていた針仕事係の記録。
リゼット・グランの名は、いくつもの場所に細く残っていた。
目立たない。
だが、消えてはいない。
こういう者ほど厄介だと、エレノアは思った。
オルガのように社交界の中心で微笑む者ではない。
ダリウスのように王太子府で言葉を操る者でもない。
グレゴールのように爵位と家名で押し通す者でもない。
リゼットは、廊下の端を歩く。
洗濯室の裏口から入り、衣料会の箱を運び、針仕事の名目で女官服に触れ、薬草納入補助人として通用門を抜ける。
誰も彼女を中心人物だとは思わない。
だからこそ、自由に動けた。
「追跡班からの報告です」
オスカーが資料を一枚差し出した。
「リゼット・グランの住居は空でした。北区の借家です。荷物はほとんど残っていましたが、衣類が数点、消えています。机の引き出しから、青い硝子石の指輪が三つ見つかりました」
「三つ?」
エレノアは顔を上げた。
「はい。ひとつは石が欠けています。ネルが持ち込んだ欠片と一致する可能性があります」
「本人が使っていたものが三つある、というより」
「複数人へ配っていた可能性があります」
カインが窓際で言った。
彼は朝からずっと無言で報告を聞いていたが、今ようやく口を開いた。
「青い指輪は、身分証か」
「合図でしょうか」
エレノアは証拠袋の欠片を見た。
「高価なものではない。失っても惜しくない。けれど、同じものを持っていれば仲間だと分かる」
「夫人会の飾りとしては安っぽい」
「だから、上位の夫人たちは身につけないでしょう。実際に動く下位の協力者たちに持たせたのかもしれません」
マルタが眉を寄せた。
「王宮の下働きや針仕事係、納入補助人、臨時協力員。そうした者たちの間であれば、青い硝子石でも不自然ではありません」
「それに」
エレノアは、慈善衣料会の記録を開いた。
「慈善衣料会には、以前『青い祈りの糸』という小さな寄付活動がありました。貧しい子供たちへ冬服を贈るため、青い糸飾りや硝子石の小物を売って資金を集めたものです」
リリアナが、部屋の隅から顔を上げた。
彼女は説明書の文面確認をしていたはずだが、今の言葉に反応したらしい。
「青い祈りの糸……私、聞いたことがあります」
エレノアが視線を向ける。
「どこで?」
「お母様の茶会で。たしか、オルガ様が話していたの。『青いものを身につけると、誰かの冬を温められる』って。すごく綺麗な言い方だったから、覚えています」
「その活動の品に、青い硝子石の指輪はあった?」
「指輪は……分からない。でも、ブローチや髪飾りは見ました。安いものだけど、寄付になるからって」
エレノアは、記録をめくった。
青い祈りの糸。
寄付活動としては小規模。
代表は慈善衣料会。
協力者として、オルガ・ベルナール夫人の名がある。
販売管理は、針仕事係リゼット・グラン。
小物の仕入れ先は、王都北区の小間物商。
「ありました」
エレノアは言った。
「青い硝子石の装身具の仕入れ記録。指輪、十二個」
カインの目が細くなる。
「十二個か」
「はい。ただし、販売記録は九個分しかありません。三個が在庫不明」
「リゼットの住居から見つかった数と合うな」
リリアナが、小さく息を呑んだ。
「寄付の品が、合図に使われたの?」
「可能性が高いわ」
エレノアは答えた。
「善意の小物なら、誰かが持っていても疑われにくい。しかも青い祈りの糸という名があるから、聞かれても寄付活動のためと言える」
「そんな……」
リリアナは言葉を失った。
以前の彼女なら、きっとその言葉に感動していた。
青いものを身につけると、誰かの冬を温められる。
綺麗な言葉だ。
けれど、その綺麗な言葉の下で、青い硝子石が不正協力者の合図になっていたのかもしれない。
リリアナは、手帳を握ったまま呟いた。
「綺麗な言葉って、怖い」
「言葉そのものが怖いのではないわ」
エレノアは静かに言った。
「言葉で何を隠すかが怖いの」
リリアナは、ゆっくり頷いた。
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのは近衛隊長レナードだった。
「王弟殿下。リゼット・グランの足取りが一部判明しました」
カインが振り返る。
「どこだ」
「北区の小間物商《ルーベン雑貨店》です。青い硝子石の指輪を仕入れた店でもあります。店主の証言では、リゼットは三日前の夜、店の裏口に現れ、古い旅装と外套を買ったと」
「今は?」
「店主は、そこまでは知らないと。ただし、リゼットは東街道へ出る乗合馬車の時間を尋ねていたそうです」
「逃亡か」
カインは地図へ視線を落とした。
「東街道の先は?」
レナードが答える。
「修道院、地方の織物町、そして国境方面へ続きます。ただ、リゼットが本当に東へ向かったかは不明です」
エレノアは、少し考えた。
「東街道を尋ねたのは、聞かせるためかもしれません」
レナードが彼女を見る。
「偽装ですか」
「はい。逃げる者がわざわざ店主に行き先を悟らせるでしょうか。特に彼女は、裏口から来るほど用心していた」
「では、別方向へ?」
「あるいは、王都内にまだいる」
カインが短く言った。
「同感だ。外へ逃げるより、残った協力者と合流する方が自然だ」
エレノアは、青い祈りの糸の活動記録をもう一度見た。
「リゼットが身を寄せられる場所は、夫人会の管理下にある針仕事場、慈善衣料会の倉庫、あるいは協力商人の裏部屋」
「祈りの家は封鎖済み。南区保管庫も封鎖中だ」
「北区に、もう一つあります」
エレノアは資料を示した。
「青い祈りの糸の品を作っていた作業場。《聖クララ縫製所》。慈善衣料会の下請けですが、名義上は独立しています」
マルタが顔を上げた。
「そこは、王妃陛下も一度支援を検討された場所です。夫を亡くした女性や、行き場を失った針子たちが働く場所でした」
「今の管理者は?」
カインが問う。
オスカーが名簿を確認する。
「管理責任者は、デリア・ラングフォード侯爵夫人の推薦を受けた女性です。名はカミラ・ローレンツ。元夫人会書記」
デリア夫人。
昨日の茶会で表向き協力を約束した、夫人会代表。
エレノアは表情を変えなかった。
だが、部屋の空気は明らかに重くなった。
「デリア夫人が直接関わっているとは限りません」
エレノアは言った。
「ただ、夫人会の奥にまだ線が残っているなら、縫製所は確認すべきです」
カインは頷いた。
「レナード。縫製所を押さえる。ただし、働く女性たちを怯えさせるな。逃亡者捜索と証拠保全が目的だ」
「承知しました」
「エレノア」
「はい」
「あなたも行くか」
「行きます」
リリアナが、反射的に手を上げかけた。
だが、途中で止めた。
エレノアがそれを見る。
「何?」
「……行きたい、と思ったけど、足手まといになるかもしれないので、まず聞こうと思いました」
以前なら「私も行く!」と勢いで言っただろう。
それを飲み込んだだけでも、少し変わった。
エレノアはカインを見た。
カインは無表情で言った。
「危険の可能性がある。リリアナ嬢は王宮に残れ」
「はい」
リリアナは素直に頷いた。
ただ、すぐに言葉を足す。
「では、ネルの説明書を進めます。あと、青い祈りの糸の活動記録も見ておきます。昔の茶会で聞いたことを思い出せるかもしれません」
エレノアは、少しだけ目を細めた。
「それは助かるわ」
リリアナの顔が、ほんの少し明るくなる。
「任せてください」
「ただし、思い出したことと想像を混ぜないように」
「……はい。分けて書きます」
リリアナは手帳を開き、早速「覚えていること」「たぶんそう思ったこと」と欄を分け始めた。
カインが小さく言った。
「使い方が分かってきたな」
「リリアナのことですか」
「人は、得意な場所で使うべきだ」
エレノアは、少しだけ眉を上げた。
「使う、という言葉は慎重に」
「……配置するべきだ」
「それも少し」
「任せるべきだ」
「はい」
カインは、ほんのわずかに目を逸らした。
言い直したことに自分でも少し面倒を感じているらしい。
エレノアは、危うく笑いそうになった。
聖クララ縫製所は、王都北区の狭い通りにあった。
石造りの古い建物で、一階が作業場、二階が住み込みの女性たちの寝室になっている。外壁はところどころ剥がれていたが、窓辺には小さな鉢植えが並んでいた。
近づくと、糸と布と石鹸の匂いがした。
中からは、針を動かす音と、低い話し声が聞こえる。
ここは、祈りの家やサルヴィ商会旧倉庫とは違う。
犯罪のためだけに使われた場所ではない。
実際に働く人々がいる。
だからこそ、踏み込み方を間違えれば、罪のない者たちを傷つける。
エレノアは、馬車を降りる前にレナードへ言った。
「騎士は表に二名だけ。残りは裏手と通りの角へ。中では剣に手をかけないでください」
「承知しています」
レナードは真面目に頷いた。
カインは外套の襟を整えただけで、何も言わない。
彼がいるだけで十分な圧になる。
だから、エレノアが先に入ることになった。
扉を叩くと、少しして年配の女性が顔を出した。
「どなた……」
彼女はエレノアの後ろにカインと近衛を見て、顔色を変えた。
「王宮の者です。聖クララ縫製所の管理者、カミラ・ローレンツさんにお話を伺いたいのですが」
エレノアは、できるだけ落ち着いた声で言った。
年配の女性は、慌てて奥を振り返る。
作業場の中で、何人もの針子が手を止めてこちらを見ていた。
怯え。
警戒。
困惑。
その中に、リゼットらしき姿はない。
やがて奥から、三十代後半ほどの女性が出てきた。
黒髪をきっちりまとめ、眼鏡をかけている。地味だが、清潔な服装だった。
「私がカミラ・ローレンツです。何か問題がございましたか」
声は落ち着いている。
だが、指先は布の端を握っていた。
「リゼット・グランという女性を探しています」
エレノアが言うと、カミラの瞳がわずかに揺れた。
「リゼットは、以前こちらで働いておりましたが、今は」
「最近、ここへ来ましたか」
「……いいえ」
短い否定。
早すぎる。
エレノアは少しだけ視線を落とした。
カミラの袖口に、小さな青い糸くずがついている。
縫製所だから青い糸は珍しくない。
だが、机の奥には、青い硝子石の小物が入った箱が見えた。
「中を確認させてください」
カミラの顔が強張る。
「令状は」
カインが一歩前に出た。
「王妃基金改革官の調査権と、王弟府の証拠保全命令がある。慈善衣料会関連施設として、確認対象だ」
カミラは唇を噛んだ。
その態度に、作業場の女性たちがざわつく。
エレノアは、彼女たちへ向けて言った。
「縫製所で働く皆さんを罰しに来たのではありません。王妃基金と慈善衣料会の不正に関わる確認です。作業を中断させて申し訳ありませんが、順に確認します」
その言葉で、少しだけ空気が落ち着いた。
だが、完全ではない。
それでも中に入る。
作業場には、長机が並び、布地や糸巻きが整然と置かれていた。壁際には完成した外套や子供用の上着が掛けられている。
ここで作られているものの多くは、本当に誰かへ届けられる衣料なのだろう。
だから、余計に嫌だった。
善意と不正が同じ机の上に並んでいる。
「青い祈りの糸の品は、ここで?」
エレノアが尋ねると、カミラは小さく頷いた。
「はい。以前、慈善衣料会の依頼で。今はもうほとんど作っていません」
「在庫は?」
「少しだけ」
「見せてください」
カミラは迷ったが、奥の棚から箱を出した。
中には、青い糸飾り、ブローチ、小さな髪留め、そして硝子石の指輪が入っていた。
指輪は、二つ。
記録上の不明在庫は三つ。
リゼットの住居から三つ。
ここに二つ。
数が増えた。
エレノアは箱を見つめる。
「この指輪は、記録上どこに?」
「予備品です。販売に出さなかったものです」
「記録はありますか」
「……古いものですので」
「記録は?」
エレノアがもう一度尋ねると、カミラは黙った。
カインがレナードへ視線を向ける。
「在庫台帳を確認しろ」
「はい」
近衛が棚を調べ始める。
針子たちが不安そうに見守っている。
その時、作業場の隅にいた若い女性が、そっと視線を奥の扉へ向けた。
ほんの一瞬。
だが、エレノアは見逃さなかった。
奥の扉。
そこから二階へ上がる階段がある。
「二階を確認します」
カミラが慌てて前に出た。
「二階は住み込みの女性たちの部屋です。男性の騎士を入れるのは」
「私とマルタが確認します。騎士は階段下で待機を」
エレノアが言うと、カミラはそれ以上止められなかった。
マルタと共に二階へ上がる。
廊下は狭く、いくつかの扉が並んでいる。
生活の匂いがした。
洗った布、古い木、安い香油。
エレノアは、一つずつ部屋を確認した。
女性たちは怯えていたが、マルタが穏やかに説明すると、少しずつ協力してくれた。
最後の部屋。
扉の前に立った時、エレノアはかすかな違和感を覚えた。
中から、何かが倒れる音がした。
「開けます」
返事はない。
マルタが扉を押す。
鍵はかかっていなかった。
中は小さな物置だった。
布袋。
古い毛布。
壊れた糸車。
そして、窓が少し開いている。
エレノアは窓へ駆け寄った。
外には狭い裏路地。
そこを、濃い茶色の外套をまとった女が走っていた。
顔は見えない。
だが、手が一瞬だけ光った。
青い石の指輪。
「リゼット!」
エレノアが叫ぶ。
下で待機していたレナードが即座に反応した。
「裏だ!」
騎士たちが走る音が響く。
エレノアも階段を駆け下りようとしたが、マルタが腕を掴んだ。
「エレノア様、危険です」
「ですが」
「追うのは騎士の仕事です」
その声は強かった。
エレノアは歯を食いしばり、頷いた。
階下へ降りると、カインがすでに状況を把握していた。
「裏路地へ出た。東側は塞いである。西の市場へ抜ける可能性がある」
「逃げられますか」
「簡単には逃がさない」
だが、リゼットは王宮の騎士から逃げ慣れているわけではないにしても、下町の路地には慣れているらしい。
裏路地は細く、洗濯物が干され、荷車が置かれ、人が入り乱れている。
騎士が鎧で追うには不利だった。
エレノアは縫製所の若い針子を見た。
先ほど奥の扉を見た女性だ。
「あなた、彼女がいると知っていましたね」
針子は真っ青になった。
「私は……」
「責めるためではありません。逃げ道を教えてください」
針子は唇を震わせた。
「市場の裏の染物小屋へ……リゼットさんは、よくそこを通って」
「染物小屋」
エレノアが繰り返す。
カインがすぐにレナードへ伝令を飛ばす。
「市場裏の染物小屋を押さえろ」
「はい!」
針子は涙ぐんだ。
「リゼットさんに、言うなって言われて。カミラさんも、見なかったことにしなさいって」
カミラの顔が白くなる。
「私は、縫製所を守るために」
「守る?」
エレノアの声が冷えた。
「逃亡者を匿うことが、縫製所を守ることですか」
カミラは黙った。
「リゼットに何を言われたのですか」
しばらく沈黙があった。
やがてカミラは、小さく言った。
「保護証言室が始まれば、夫人会の仕事が止まると。縫製所も調べられ、仕事を失うと。だから、少しだけ匿ってくれと」
「それを信じた?」
「彼女は……ここで働いていた仲間です」
「仲間だから、追われる理由を聞かなかったのですか」
カミラは答えられない。
エレノアは、深く息を吸った。
まただ。
仲間。
善意。
縫製所を守るため。
美しい言葉の下で、確認しないことが選ばれている。
「カミラ・ローレンツ。あなたには後ほど正式に聴取を行います。現時点では、逃亡者匿いの疑いがあります。ただし、縫製所で働く女性たちの仕事は止めません。関係のない者を巻き込まないよう、王弟府が臨時監督を置きます」
カミラは、驚いたようにエレノアを見た。
「止めないのですか」
「止めません」
エレノアははっきり言った。
「仕事を失う恐怖を利用される人を、これ以上増やしたくありません」
カミラの顔が歪んだ。
泣きそうになったのか、悔しかったのかは分からない。
その時、外から騎士の声が響いた。
「捕らえた!」
作業場の空気が一気に動く。
エレノアとカインが外へ出る。
市場裏の染物小屋の前で、リゼット・グランは近衛に腕を押さえられていた。
濃い茶色の外套。
乱れた髪。
息は荒く、頬には泥がついている。
右手の薬指には、青い硝子石の指輪。
ただし、石は欠けていた。
ネルが持ってきた欠片と、同じ形の欠け方だった。
リゼットはエレノアを見ると、唇を歪めた。
「さすが、王妃様のお気に入りですね」
その声は低く、少し掠れていた。
ネルが聞いた声。
ベアタが聞いた声。
保護証言室を潰すと語った声。
エレノアは静かに近づいた。
「リゼット・グラン。あなたを、王宮女官服不正使用、証人脅迫、逃亡者匿いの教唆、慈善衣料会不正協力の疑いで拘束します」
リゼットは笑った。
「私を捕まえても、何も終わりませんよ」
「終わるとは思っていません」
「なら、なぜそんなに必死に追うのですか」
「あなたが、声を上げようとした人を潰すと言ったからです」
リゼットの笑みが少し消えた。
エレノアは続ける。
「保護証言室は始まったばかりです。最初の相談者を脅す者を見逃せば、制度は生まれる前に死にます」
「下働き一人のために?」
「一人目だからです」
その返答に、リゼットは初めて言葉を詰まらせた。
カインが近衛に命じる。
「連れていけ。手元の装飾品もすべて押収しろ」
「はい」
リゼットは連れていかれながら、エレノアへ言った。
「夫人会の奥は、あなたが思うより深い。私みたいな針子を捕まえて、いい気にならないことね」
「ご忠告、記録しておきます」
リゼットは、苦々しく笑った。
「本当に嫌な女」
その言葉は、オルガと同じだった。
エレノアは表情を変えなかった。
「よく言われます」
夕方、王宮へ戻ると、リゼットの初期聴取が始まった。
彼女は多くを語らなかった。
ただ、青い祈りの糸の小物が合図として使われていたことは認めた。
青い硝子石の指輪を持つ者は、夫人会と慈善衣料会の裏連絡役。
王宮の通用門、洗濯室、縫製所、薬草納入、衣料保管庫。
そうした場所をつなぐ小さな線だった。
しかし、リゼットは最後まで背後の名を出さなかった。
「私は仕事をしただけです」
彼女はそう言った。
「誰の仕事ですか」
エレノアが問うと、リゼットは笑った。
「善意のお仕事です」
それ以上は黙った。
だが、十分だった。
青い指輪の女は捕まった。
そして、その指輪が一人の合図ではなく、網の目の印だったことが分かった。
夜、エレノアは保護証言室へ戻った。
扉の横には、朝より一枚増えた紙が貼られている。
――あなたの声を、なかったことにはしません。
ネルの相談がなければ、リゼットは逃げていたかもしれない。
青い指輪の網も、まだ見えなかったかもしれない。
最初の一人が声を上げたことで、見えたものがある。
エレノアは、記録簿に新しい行を書いた。
――第一号相談者の情報により、リゼット・グラン拘束。青い硝子石の指輪が裏連絡網の合図である可能性確認。
筆を置く。
その時、リリアナが小さく扉を叩いた。
「入ってもいい?」
「どうぞ」
リリアナは、説明書の書き直しを持って入ってきた。
「ネルに渡す文、直してみました」
エレノアは受け取った。
そこには、リリアナらしい少し柔らかい文章が並んでいた。
――あなたが話してくれたことで、分かったことがあります。
――怖かったと思います。話してくれてありがとうございます。
――これから何をするか、一つずつ説明します。分からない時は、何度でも聞いてください。
エレノアは、しばらく黙って読んだ。
「どう?」
リリアナが不安そうに尋ねる。
「良いと思うわ」
素直に答えると、リリアナはぱっと顔を明るくした。
「本当?」
「ええ。ただし、少し感情が入りすぎているところは整えます」
「やっぱり」
「でも、この柔らかさは必要ね」
リリアナは、照れたように笑った。
「私、こういうところなら役に立てる?」
「ええ」
今度は、はっきり言った。
リリアナは驚いた顔をした後、手帳を胸に抱えた。
「じゃあ、もっと勉強します」
「調子に乗らないように」
「乗ってません!」
その声は、以前より少しだけ元気だった。
エレノアは、妹が去った後、もう一度扉の札を見た。
保護証言室は、まだ仮の制度だ。
けれど、すでに最初の声を受け取り、最初の脅しを退け、最初の実行役を捕らえた。
青い指輪の女は捕まった。
だが、指輪は複数ある。
そして、リゼットが黙っている以上、まだ奥に誰かがいる。
善意という名の糸で結ばれた、見えない網。
それを解くには、さらに多くの声が必要になる。
エレノアは、静かに記録簿を閉じた。
次は、青い指輪を持つ者たちの名簿を作る番だった。
小さな証拠袋の中で、朝の光を受けて鈍く光っている。
本物の宝石ではない。
青玉でも、瑠璃でもない。
市場の露店でも買えるような安価な装飾石。
けれど、それは今、王宮北翼の監査机の上で、どんな宝石よりも重い意味を持っていた。
ネル・ファランが王宮洗濯室の排水口から見つけた欠片。
ベアタが見たという、青い石の指輪をした女。
王宮洗濯室裏口へ現れ、女官服の型紙の件を口止めした女。
そして、保護証言室について「最初に行った子を潰せば終わり」と言った声。
リゼット・グラン。
元夫人会の針仕事係。
サルヴィ商会摘発後も、薬草納入補助人の名で王宮の通用門を出入りしていた女。
彼女を追えば、王宮内に残るオルガ・ベルナールの手が見える。
エレノアは、机上に並べられた資料を見下ろした。
出入り記録。
洗濯室の配置図。
ネルの相談記録。
ベアタの仮証言。
慈善衣料会の名簿。
サルヴィ商会関係者一覧。
夫人会に出入りしていた針仕事係の記録。
リゼット・グランの名は、いくつもの場所に細く残っていた。
目立たない。
だが、消えてはいない。
こういう者ほど厄介だと、エレノアは思った。
オルガのように社交界の中心で微笑む者ではない。
ダリウスのように王太子府で言葉を操る者でもない。
グレゴールのように爵位と家名で押し通す者でもない。
リゼットは、廊下の端を歩く。
洗濯室の裏口から入り、衣料会の箱を運び、針仕事の名目で女官服に触れ、薬草納入補助人として通用門を抜ける。
誰も彼女を中心人物だとは思わない。
だからこそ、自由に動けた。
「追跡班からの報告です」
オスカーが資料を一枚差し出した。
「リゼット・グランの住居は空でした。北区の借家です。荷物はほとんど残っていましたが、衣類が数点、消えています。机の引き出しから、青い硝子石の指輪が三つ見つかりました」
「三つ?」
エレノアは顔を上げた。
「はい。ひとつは石が欠けています。ネルが持ち込んだ欠片と一致する可能性があります」
「本人が使っていたものが三つある、というより」
「複数人へ配っていた可能性があります」
カインが窓際で言った。
彼は朝からずっと無言で報告を聞いていたが、今ようやく口を開いた。
「青い指輪は、身分証か」
「合図でしょうか」
エレノアは証拠袋の欠片を見た。
「高価なものではない。失っても惜しくない。けれど、同じものを持っていれば仲間だと分かる」
「夫人会の飾りとしては安っぽい」
「だから、上位の夫人たちは身につけないでしょう。実際に動く下位の協力者たちに持たせたのかもしれません」
マルタが眉を寄せた。
「王宮の下働きや針仕事係、納入補助人、臨時協力員。そうした者たちの間であれば、青い硝子石でも不自然ではありません」
「それに」
エレノアは、慈善衣料会の記録を開いた。
「慈善衣料会には、以前『青い祈りの糸』という小さな寄付活動がありました。貧しい子供たちへ冬服を贈るため、青い糸飾りや硝子石の小物を売って資金を集めたものです」
リリアナが、部屋の隅から顔を上げた。
彼女は説明書の文面確認をしていたはずだが、今の言葉に反応したらしい。
「青い祈りの糸……私、聞いたことがあります」
エレノアが視線を向ける。
「どこで?」
「お母様の茶会で。たしか、オルガ様が話していたの。『青いものを身につけると、誰かの冬を温められる』って。すごく綺麗な言い方だったから、覚えています」
「その活動の品に、青い硝子石の指輪はあった?」
「指輪は……分からない。でも、ブローチや髪飾りは見ました。安いものだけど、寄付になるからって」
エレノアは、記録をめくった。
青い祈りの糸。
寄付活動としては小規模。
代表は慈善衣料会。
協力者として、オルガ・ベルナール夫人の名がある。
販売管理は、針仕事係リゼット・グラン。
小物の仕入れ先は、王都北区の小間物商。
「ありました」
エレノアは言った。
「青い硝子石の装身具の仕入れ記録。指輪、十二個」
カインの目が細くなる。
「十二個か」
「はい。ただし、販売記録は九個分しかありません。三個が在庫不明」
「リゼットの住居から見つかった数と合うな」
リリアナが、小さく息を呑んだ。
「寄付の品が、合図に使われたの?」
「可能性が高いわ」
エレノアは答えた。
「善意の小物なら、誰かが持っていても疑われにくい。しかも青い祈りの糸という名があるから、聞かれても寄付活動のためと言える」
「そんな……」
リリアナは言葉を失った。
以前の彼女なら、きっとその言葉に感動していた。
青いものを身につけると、誰かの冬を温められる。
綺麗な言葉だ。
けれど、その綺麗な言葉の下で、青い硝子石が不正協力者の合図になっていたのかもしれない。
リリアナは、手帳を握ったまま呟いた。
「綺麗な言葉って、怖い」
「言葉そのものが怖いのではないわ」
エレノアは静かに言った。
「言葉で何を隠すかが怖いの」
リリアナは、ゆっくり頷いた。
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのは近衛隊長レナードだった。
「王弟殿下。リゼット・グランの足取りが一部判明しました」
カインが振り返る。
「どこだ」
「北区の小間物商《ルーベン雑貨店》です。青い硝子石の指輪を仕入れた店でもあります。店主の証言では、リゼットは三日前の夜、店の裏口に現れ、古い旅装と外套を買ったと」
「今は?」
「店主は、そこまでは知らないと。ただし、リゼットは東街道へ出る乗合馬車の時間を尋ねていたそうです」
「逃亡か」
カインは地図へ視線を落とした。
「東街道の先は?」
レナードが答える。
「修道院、地方の織物町、そして国境方面へ続きます。ただ、リゼットが本当に東へ向かったかは不明です」
エレノアは、少し考えた。
「東街道を尋ねたのは、聞かせるためかもしれません」
レナードが彼女を見る。
「偽装ですか」
「はい。逃げる者がわざわざ店主に行き先を悟らせるでしょうか。特に彼女は、裏口から来るほど用心していた」
「では、別方向へ?」
「あるいは、王都内にまだいる」
カインが短く言った。
「同感だ。外へ逃げるより、残った協力者と合流する方が自然だ」
エレノアは、青い祈りの糸の活動記録をもう一度見た。
「リゼットが身を寄せられる場所は、夫人会の管理下にある針仕事場、慈善衣料会の倉庫、あるいは協力商人の裏部屋」
「祈りの家は封鎖済み。南区保管庫も封鎖中だ」
「北区に、もう一つあります」
エレノアは資料を示した。
「青い祈りの糸の品を作っていた作業場。《聖クララ縫製所》。慈善衣料会の下請けですが、名義上は独立しています」
マルタが顔を上げた。
「そこは、王妃陛下も一度支援を検討された場所です。夫を亡くした女性や、行き場を失った針子たちが働く場所でした」
「今の管理者は?」
カインが問う。
オスカーが名簿を確認する。
「管理責任者は、デリア・ラングフォード侯爵夫人の推薦を受けた女性です。名はカミラ・ローレンツ。元夫人会書記」
デリア夫人。
昨日の茶会で表向き協力を約束した、夫人会代表。
エレノアは表情を変えなかった。
だが、部屋の空気は明らかに重くなった。
「デリア夫人が直接関わっているとは限りません」
エレノアは言った。
「ただ、夫人会の奥にまだ線が残っているなら、縫製所は確認すべきです」
カインは頷いた。
「レナード。縫製所を押さえる。ただし、働く女性たちを怯えさせるな。逃亡者捜索と証拠保全が目的だ」
「承知しました」
「エレノア」
「はい」
「あなたも行くか」
「行きます」
リリアナが、反射的に手を上げかけた。
だが、途中で止めた。
エレノアがそれを見る。
「何?」
「……行きたい、と思ったけど、足手まといになるかもしれないので、まず聞こうと思いました」
以前なら「私も行く!」と勢いで言っただろう。
それを飲み込んだだけでも、少し変わった。
エレノアはカインを見た。
カインは無表情で言った。
「危険の可能性がある。リリアナ嬢は王宮に残れ」
「はい」
リリアナは素直に頷いた。
ただ、すぐに言葉を足す。
「では、ネルの説明書を進めます。あと、青い祈りの糸の活動記録も見ておきます。昔の茶会で聞いたことを思い出せるかもしれません」
エレノアは、少しだけ目を細めた。
「それは助かるわ」
リリアナの顔が、ほんの少し明るくなる。
「任せてください」
「ただし、思い出したことと想像を混ぜないように」
「……はい。分けて書きます」
リリアナは手帳を開き、早速「覚えていること」「たぶんそう思ったこと」と欄を分け始めた。
カインが小さく言った。
「使い方が分かってきたな」
「リリアナのことですか」
「人は、得意な場所で使うべきだ」
エレノアは、少しだけ眉を上げた。
「使う、という言葉は慎重に」
「……配置するべきだ」
「それも少し」
「任せるべきだ」
「はい」
カインは、ほんのわずかに目を逸らした。
言い直したことに自分でも少し面倒を感じているらしい。
エレノアは、危うく笑いそうになった。
聖クララ縫製所は、王都北区の狭い通りにあった。
石造りの古い建物で、一階が作業場、二階が住み込みの女性たちの寝室になっている。外壁はところどころ剥がれていたが、窓辺には小さな鉢植えが並んでいた。
近づくと、糸と布と石鹸の匂いがした。
中からは、針を動かす音と、低い話し声が聞こえる。
ここは、祈りの家やサルヴィ商会旧倉庫とは違う。
犯罪のためだけに使われた場所ではない。
実際に働く人々がいる。
だからこそ、踏み込み方を間違えれば、罪のない者たちを傷つける。
エレノアは、馬車を降りる前にレナードへ言った。
「騎士は表に二名だけ。残りは裏手と通りの角へ。中では剣に手をかけないでください」
「承知しています」
レナードは真面目に頷いた。
カインは外套の襟を整えただけで、何も言わない。
彼がいるだけで十分な圧になる。
だから、エレノアが先に入ることになった。
扉を叩くと、少しして年配の女性が顔を出した。
「どなた……」
彼女はエレノアの後ろにカインと近衛を見て、顔色を変えた。
「王宮の者です。聖クララ縫製所の管理者、カミラ・ローレンツさんにお話を伺いたいのですが」
エレノアは、できるだけ落ち着いた声で言った。
年配の女性は、慌てて奥を振り返る。
作業場の中で、何人もの針子が手を止めてこちらを見ていた。
怯え。
警戒。
困惑。
その中に、リゼットらしき姿はない。
やがて奥から、三十代後半ほどの女性が出てきた。
黒髪をきっちりまとめ、眼鏡をかけている。地味だが、清潔な服装だった。
「私がカミラ・ローレンツです。何か問題がございましたか」
声は落ち着いている。
だが、指先は布の端を握っていた。
「リゼット・グランという女性を探しています」
エレノアが言うと、カミラの瞳がわずかに揺れた。
「リゼットは、以前こちらで働いておりましたが、今は」
「最近、ここへ来ましたか」
「……いいえ」
短い否定。
早すぎる。
エレノアは少しだけ視線を落とした。
カミラの袖口に、小さな青い糸くずがついている。
縫製所だから青い糸は珍しくない。
だが、机の奥には、青い硝子石の小物が入った箱が見えた。
「中を確認させてください」
カミラの顔が強張る。
「令状は」
カインが一歩前に出た。
「王妃基金改革官の調査権と、王弟府の証拠保全命令がある。慈善衣料会関連施設として、確認対象だ」
カミラは唇を噛んだ。
その態度に、作業場の女性たちがざわつく。
エレノアは、彼女たちへ向けて言った。
「縫製所で働く皆さんを罰しに来たのではありません。王妃基金と慈善衣料会の不正に関わる確認です。作業を中断させて申し訳ありませんが、順に確認します」
その言葉で、少しだけ空気が落ち着いた。
だが、完全ではない。
それでも中に入る。
作業場には、長机が並び、布地や糸巻きが整然と置かれていた。壁際には完成した外套や子供用の上着が掛けられている。
ここで作られているものの多くは、本当に誰かへ届けられる衣料なのだろう。
だから、余計に嫌だった。
善意と不正が同じ机の上に並んでいる。
「青い祈りの糸の品は、ここで?」
エレノアが尋ねると、カミラは小さく頷いた。
「はい。以前、慈善衣料会の依頼で。今はもうほとんど作っていません」
「在庫は?」
「少しだけ」
「見せてください」
カミラは迷ったが、奥の棚から箱を出した。
中には、青い糸飾り、ブローチ、小さな髪留め、そして硝子石の指輪が入っていた。
指輪は、二つ。
記録上の不明在庫は三つ。
リゼットの住居から三つ。
ここに二つ。
数が増えた。
エレノアは箱を見つめる。
「この指輪は、記録上どこに?」
「予備品です。販売に出さなかったものです」
「記録はありますか」
「……古いものですので」
「記録は?」
エレノアがもう一度尋ねると、カミラは黙った。
カインがレナードへ視線を向ける。
「在庫台帳を確認しろ」
「はい」
近衛が棚を調べ始める。
針子たちが不安そうに見守っている。
その時、作業場の隅にいた若い女性が、そっと視線を奥の扉へ向けた。
ほんの一瞬。
だが、エレノアは見逃さなかった。
奥の扉。
そこから二階へ上がる階段がある。
「二階を確認します」
カミラが慌てて前に出た。
「二階は住み込みの女性たちの部屋です。男性の騎士を入れるのは」
「私とマルタが確認します。騎士は階段下で待機を」
エレノアが言うと、カミラはそれ以上止められなかった。
マルタと共に二階へ上がる。
廊下は狭く、いくつかの扉が並んでいる。
生活の匂いがした。
洗った布、古い木、安い香油。
エレノアは、一つずつ部屋を確認した。
女性たちは怯えていたが、マルタが穏やかに説明すると、少しずつ協力してくれた。
最後の部屋。
扉の前に立った時、エレノアはかすかな違和感を覚えた。
中から、何かが倒れる音がした。
「開けます」
返事はない。
マルタが扉を押す。
鍵はかかっていなかった。
中は小さな物置だった。
布袋。
古い毛布。
壊れた糸車。
そして、窓が少し開いている。
エレノアは窓へ駆け寄った。
外には狭い裏路地。
そこを、濃い茶色の外套をまとった女が走っていた。
顔は見えない。
だが、手が一瞬だけ光った。
青い石の指輪。
「リゼット!」
エレノアが叫ぶ。
下で待機していたレナードが即座に反応した。
「裏だ!」
騎士たちが走る音が響く。
エレノアも階段を駆け下りようとしたが、マルタが腕を掴んだ。
「エレノア様、危険です」
「ですが」
「追うのは騎士の仕事です」
その声は強かった。
エレノアは歯を食いしばり、頷いた。
階下へ降りると、カインがすでに状況を把握していた。
「裏路地へ出た。東側は塞いである。西の市場へ抜ける可能性がある」
「逃げられますか」
「簡単には逃がさない」
だが、リゼットは王宮の騎士から逃げ慣れているわけではないにしても、下町の路地には慣れているらしい。
裏路地は細く、洗濯物が干され、荷車が置かれ、人が入り乱れている。
騎士が鎧で追うには不利だった。
エレノアは縫製所の若い針子を見た。
先ほど奥の扉を見た女性だ。
「あなた、彼女がいると知っていましたね」
針子は真っ青になった。
「私は……」
「責めるためではありません。逃げ道を教えてください」
針子は唇を震わせた。
「市場の裏の染物小屋へ……リゼットさんは、よくそこを通って」
「染物小屋」
エレノアが繰り返す。
カインがすぐにレナードへ伝令を飛ばす。
「市場裏の染物小屋を押さえろ」
「はい!」
針子は涙ぐんだ。
「リゼットさんに、言うなって言われて。カミラさんも、見なかったことにしなさいって」
カミラの顔が白くなる。
「私は、縫製所を守るために」
「守る?」
エレノアの声が冷えた。
「逃亡者を匿うことが、縫製所を守ることですか」
カミラは黙った。
「リゼットに何を言われたのですか」
しばらく沈黙があった。
やがてカミラは、小さく言った。
「保護証言室が始まれば、夫人会の仕事が止まると。縫製所も調べられ、仕事を失うと。だから、少しだけ匿ってくれと」
「それを信じた?」
「彼女は……ここで働いていた仲間です」
「仲間だから、追われる理由を聞かなかったのですか」
カミラは答えられない。
エレノアは、深く息を吸った。
まただ。
仲間。
善意。
縫製所を守るため。
美しい言葉の下で、確認しないことが選ばれている。
「カミラ・ローレンツ。あなたには後ほど正式に聴取を行います。現時点では、逃亡者匿いの疑いがあります。ただし、縫製所で働く女性たちの仕事は止めません。関係のない者を巻き込まないよう、王弟府が臨時監督を置きます」
カミラは、驚いたようにエレノアを見た。
「止めないのですか」
「止めません」
エレノアははっきり言った。
「仕事を失う恐怖を利用される人を、これ以上増やしたくありません」
カミラの顔が歪んだ。
泣きそうになったのか、悔しかったのかは分からない。
その時、外から騎士の声が響いた。
「捕らえた!」
作業場の空気が一気に動く。
エレノアとカインが外へ出る。
市場裏の染物小屋の前で、リゼット・グランは近衛に腕を押さえられていた。
濃い茶色の外套。
乱れた髪。
息は荒く、頬には泥がついている。
右手の薬指には、青い硝子石の指輪。
ただし、石は欠けていた。
ネルが持ってきた欠片と、同じ形の欠け方だった。
リゼットはエレノアを見ると、唇を歪めた。
「さすが、王妃様のお気に入りですね」
その声は低く、少し掠れていた。
ネルが聞いた声。
ベアタが聞いた声。
保護証言室を潰すと語った声。
エレノアは静かに近づいた。
「リゼット・グラン。あなたを、王宮女官服不正使用、証人脅迫、逃亡者匿いの教唆、慈善衣料会不正協力の疑いで拘束します」
リゼットは笑った。
「私を捕まえても、何も終わりませんよ」
「終わるとは思っていません」
「なら、なぜそんなに必死に追うのですか」
「あなたが、声を上げようとした人を潰すと言ったからです」
リゼットの笑みが少し消えた。
エレノアは続ける。
「保護証言室は始まったばかりです。最初の相談者を脅す者を見逃せば、制度は生まれる前に死にます」
「下働き一人のために?」
「一人目だからです」
その返答に、リゼットは初めて言葉を詰まらせた。
カインが近衛に命じる。
「連れていけ。手元の装飾品もすべて押収しろ」
「はい」
リゼットは連れていかれながら、エレノアへ言った。
「夫人会の奥は、あなたが思うより深い。私みたいな針子を捕まえて、いい気にならないことね」
「ご忠告、記録しておきます」
リゼットは、苦々しく笑った。
「本当に嫌な女」
その言葉は、オルガと同じだった。
エレノアは表情を変えなかった。
「よく言われます」
夕方、王宮へ戻ると、リゼットの初期聴取が始まった。
彼女は多くを語らなかった。
ただ、青い祈りの糸の小物が合図として使われていたことは認めた。
青い硝子石の指輪を持つ者は、夫人会と慈善衣料会の裏連絡役。
王宮の通用門、洗濯室、縫製所、薬草納入、衣料保管庫。
そうした場所をつなぐ小さな線だった。
しかし、リゼットは最後まで背後の名を出さなかった。
「私は仕事をしただけです」
彼女はそう言った。
「誰の仕事ですか」
エレノアが問うと、リゼットは笑った。
「善意のお仕事です」
それ以上は黙った。
だが、十分だった。
青い指輪の女は捕まった。
そして、その指輪が一人の合図ではなく、網の目の印だったことが分かった。
夜、エレノアは保護証言室へ戻った。
扉の横には、朝より一枚増えた紙が貼られている。
――あなたの声を、なかったことにはしません。
ネルの相談がなければ、リゼットは逃げていたかもしれない。
青い指輪の網も、まだ見えなかったかもしれない。
最初の一人が声を上げたことで、見えたものがある。
エレノアは、記録簿に新しい行を書いた。
――第一号相談者の情報により、リゼット・グラン拘束。青い硝子石の指輪が裏連絡網の合図である可能性確認。
筆を置く。
その時、リリアナが小さく扉を叩いた。
「入ってもいい?」
「どうぞ」
リリアナは、説明書の書き直しを持って入ってきた。
「ネルに渡す文、直してみました」
エレノアは受け取った。
そこには、リリアナらしい少し柔らかい文章が並んでいた。
――あなたが話してくれたことで、分かったことがあります。
――怖かったと思います。話してくれてありがとうございます。
――これから何をするか、一つずつ説明します。分からない時は、何度でも聞いてください。
エレノアは、しばらく黙って読んだ。
「どう?」
リリアナが不安そうに尋ねる。
「良いと思うわ」
素直に答えると、リリアナはぱっと顔を明るくした。
「本当?」
「ええ。ただし、少し感情が入りすぎているところは整えます」
「やっぱり」
「でも、この柔らかさは必要ね」
リリアナは、照れたように笑った。
「私、こういうところなら役に立てる?」
「ええ」
今度は、はっきり言った。
リリアナは驚いた顔をした後、手帳を胸に抱えた。
「じゃあ、もっと勉強します」
「調子に乗らないように」
「乗ってません!」
その声は、以前より少しだけ元気だった。
エレノアは、妹が去った後、もう一度扉の札を見た。
保護証言室は、まだ仮の制度だ。
けれど、すでに最初の声を受け取り、最初の脅しを退け、最初の実行役を捕らえた。
青い指輪の女は捕まった。
だが、指輪は複数ある。
そして、リゼットが黙っている以上、まだ奥に誰かがいる。
善意という名の糸で結ばれた、見えない網。
それを解くには、さらに多くの声が必要になる。
エレノアは、静かに記録簿を閉じた。
次は、青い指輪を持つ者たちの名簿を作る番だった。
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