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第13章 『墨俣築城と、恋と戦の仮初宿──“一夜の城”に咲いた夢』
第128話『選ばれし地──岐阜、そして天下布武』
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稲葉山城が陥落した朝、城内の空気は、まだ戦の余熱を残しながらも静寂に満ちていた。
かつて美濃の覇者・斎藤道三の居城であり、龍興の誇りだったこの地は、今や織田の軍旗で埋め尽くされている。
その中心に立つのは、信長──そして、傍らに従うは、木下藤吉郎。
「藤吉郎、ようやった」
信長が振り返ることなく言い放った。
「美濃は手に入った。だがこれは、始まりに過ぎぬ」
藤吉郎は深く頭を垂れた。
「恐れ入りやす。殿のご威光あればこそ……」
「ふん、口がうまいのもお前の強みだな。だが、これからは力でものを言わせてもらう」
信長は懐から巻物を取り出した。
その巻末に朱で大きく記されていたのは──『天下布武』。
「これは、我の志だ。戦乱を終わらせるためには、武で世を正さねばならぬ。岐阜──この地を、我が“始まりの地”とする」
「岐阜……?」
信長は頷く。
「道三殿が“岐山の下にて天下を制す”と語ったことがある。それを引き継ぎ、この城の名を『岐阜』と改めよう」
その場にいた家臣たちがざわめく中、藤吉郎だけは拳を握りしめた。
この地に“志”が宿ること──それが何よりも心を震わせた。
「……殿、わしも、この岐阜を天下の礎と信じます」
信長はわずかに口元を歪め、藤吉郎を見た。
「ならばお前は、この地で何を築く?」
「夢でございます」
藤吉郎は、目を逸らさずに答えた。
「わしのような百姓あがりが、ここまで来れた。ならば、もっと先も見てみたい。民が腹をすかせんでええ世、戦のない世を、夢見とうございます」
「……そうか」
その夜、岐阜城下は勝鬨とともに賑わいに包まれた。
凱旋祝賀の酒宴は、女房衆の手によって催された。
ねねは白装束の上に紅をさし、久々に見せる華やかさに、兵たちまでもが見とれる始末。
おしのは髪を結い直し、藤吉郎の近くにそっと酒を差し出した。
「殿、お疲れ様にございます……」
「おお、すまんの、おしの」
杯を交わしながら、おしのの視線が逸れなかった。
その視線に、ねねが気づかぬはずもなく──
「……おしの。あんた、うちの旦那様をそんな目で見たらあかん」
「え……な、なんのことやら……!」
女同士の火花が散るなか、千鶴がため息をつきながら間に入る。
「戦が終わっても、別の戦が始まるとはな……」
宴の喧騒が収まらぬまま、深夜。
藤吉郎が一人、庭先で風にあたっていると──ふらりと現れたのは、酔いどれのねねだった。
「……あかんやろ、ねね、こんな時間に……」
ねねはすっと、藤吉郎の前に立ち、真剣な眼差しで言った。
「なあ、うちは……選ばれんくてもええねん」
「……なんやて?」
「うちは、殿の正妻やない。お濃はもっとお育ちもええ。おしのかて、よう尽くす。けど……」
唇を噛み締めた彼女が続ける。
「帰る場所に、うちがいたら、それでええねん」
藤吉郎は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「……ねね、それ、ずるいわ」
「ずるいんは、あんたの方やろ。夢ばっかり追って、うちらのこと置いていく」
その瞬間、彼女の手が、藤吉郎の襟を掴んで引き寄せた。
唇が触れ合い、ひとときの静けさが流れる。
彼の手が、ねねの腰を支え──衣の隙間から肌に触れそうになる、その時──
「……あ、あかんっ! 誰か来たらどうすんのっ!」
ねねが赤面して飛び退いた。
だが、その顔は決して怒っていない。
「けど、うち、信じてるさかい」
そう言って、彼女は振り返らずに部屋へと戻っていった。
残された藤吉郎は、ただ風の中に立ち尽くしたまま、天を仰いだ。
「──わし、まだまだやな……せやけど、夢はでかく持たなあかん」
岐阜の夜空に、月は明るく照っていた。
“天下布武”──その印のもと、すべてはここから始まるのだ。
(次話へつづく)
かつて美濃の覇者・斎藤道三の居城であり、龍興の誇りだったこの地は、今や織田の軍旗で埋め尽くされている。
その中心に立つのは、信長──そして、傍らに従うは、木下藤吉郎。
「藤吉郎、ようやった」
信長が振り返ることなく言い放った。
「美濃は手に入った。だがこれは、始まりに過ぎぬ」
藤吉郎は深く頭を垂れた。
「恐れ入りやす。殿のご威光あればこそ……」
「ふん、口がうまいのもお前の強みだな。だが、これからは力でものを言わせてもらう」
信長は懐から巻物を取り出した。
その巻末に朱で大きく記されていたのは──『天下布武』。
「これは、我の志だ。戦乱を終わらせるためには、武で世を正さねばならぬ。岐阜──この地を、我が“始まりの地”とする」
「岐阜……?」
信長は頷く。
「道三殿が“岐山の下にて天下を制す”と語ったことがある。それを引き継ぎ、この城の名を『岐阜』と改めよう」
その場にいた家臣たちがざわめく中、藤吉郎だけは拳を握りしめた。
この地に“志”が宿ること──それが何よりも心を震わせた。
「……殿、わしも、この岐阜を天下の礎と信じます」
信長はわずかに口元を歪め、藤吉郎を見た。
「ならばお前は、この地で何を築く?」
「夢でございます」
藤吉郎は、目を逸らさずに答えた。
「わしのような百姓あがりが、ここまで来れた。ならば、もっと先も見てみたい。民が腹をすかせんでええ世、戦のない世を、夢見とうございます」
「……そうか」
その夜、岐阜城下は勝鬨とともに賑わいに包まれた。
凱旋祝賀の酒宴は、女房衆の手によって催された。
ねねは白装束の上に紅をさし、久々に見せる華やかさに、兵たちまでもが見とれる始末。
おしのは髪を結い直し、藤吉郎の近くにそっと酒を差し出した。
「殿、お疲れ様にございます……」
「おお、すまんの、おしの」
杯を交わしながら、おしのの視線が逸れなかった。
その視線に、ねねが気づかぬはずもなく──
「……おしの。あんた、うちの旦那様をそんな目で見たらあかん」
「え……な、なんのことやら……!」
女同士の火花が散るなか、千鶴がため息をつきながら間に入る。
「戦が終わっても、別の戦が始まるとはな……」
宴の喧騒が収まらぬまま、深夜。
藤吉郎が一人、庭先で風にあたっていると──ふらりと現れたのは、酔いどれのねねだった。
「……あかんやろ、ねね、こんな時間に……」
ねねはすっと、藤吉郎の前に立ち、真剣な眼差しで言った。
「なあ、うちは……選ばれんくてもええねん」
「……なんやて?」
「うちは、殿の正妻やない。お濃はもっとお育ちもええ。おしのかて、よう尽くす。けど……」
唇を噛み締めた彼女が続ける。
「帰る場所に、うちがいたら、それでええねん」
藤吉郎は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「……ねね、それ、ずるいわ」
「ずるいんは、あんたの方やろ。夢ばっかり追って、うちらのこと置いていく」
その瞬間、彼女の手が、藤吉郎の襟を掴んで引き寄せた。
唇が触れ合い、ひとときの静けさが流れる。
彼の手が、ねねの腰を支え──衣の隙間から肌に触れそうになる、その時──
「……あ、あかんっ! 誰か来たらどうすんのっ!」
ねねが赤面して飛び退いた。
だが、その顔は決して怒っていない。
「けど、うち、信じてるさかい」
そう言って、彼女は振り返らずに部屋へと戻っていった。
残された藤吉郎は、ただ風の中に立ち尽くしたまま、天を仰いだ。
「──わし、まだまだやな……せやけど、夢はでかく持たなあかん」
岐阜の夜空に、月は明るく照っていた。
“天下布武”──その印のもと、すべてはここから始まるのだ。
(次話へつづく)
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