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《桜下の政変と、恋する小姓たち──“前田家くノ一戦線”始動!》編
第137話『京政界、動く──信長の影と“耳飾の密約”』
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京の夜は、薄雲を透かしてぼんやりと月が照らしていた。
春の宵、だがどこか鋭い空気が漂う都の片隅。静かに、ひとつの屋敷の塀を越えて、黒装束の男が影のように滑り込む。目的はただ一つ──密約の使者として、“耳飾”を届けるためだった。
その男の腰には、信長家中の密使の証である“逆月の紋”が刻まれていた。
そして、その指先に握られていたのは、小さな瑠璃色の耳飾。
京の政は、刀ではなく、香と耳飾と囁きによって動かされる夜を迎えようとしていた。
◆
前田利家は、居間の畳に膝をつき、文机の上に積まれた文書と格闘していた。槍の柄より重い筆を握る手に、心なしか焦りが滲む。
「“摂津・京の治安維持について、前田家の見解を三日以内に提出せよ”か……。殿中の“会議”も、戦と同じじゃな……」
そう呟く利家の隣で、松が湯呑をそっと置く。
「政は剣ほど単純ではありませんから。……でも、あなたはすぐ熱くなるから、困るのです」
「そうかもしれん……。だが、この京で、信長様が仕掛けている“策”を黙って見てはおられぬ」
松は少しだけ眉をひそめた。
「耳飾ですか。義昭様の周囲でも、あれが流通し始めているとか」
“耳飾”──それは、ただの装飾品ではない。
京の政界では、密約や忠誠の証として“対の耳飾”が密かに交わされていた。片方を受け取った者は、もう片方を持つ者の密約者、あるいは操り人形になる。
情報、忠誠、裏切り。すべては、その瑠璃の輝きに封じられる。
◆
その晩。
前田家の屋敷裏手、灯を落とした茶室にひとつの影が佇んでいた。
現れたのは、見覚えのある男──信長家中の密使・村井貞勝だった。
「利家殿。これを、信長公より預かっております」
差し出されたのは、瑠璃の耳飾。
「信長公は、いずれ天下に覇を唱えるおつもり。その時──前田の名が、槍のみにて残るものか、言葉と策によって刻まれるものか……お選びいただきたく」
利家は黙して耳飾を見つめた。
「策を選ぶならば、信長様に頭を垂れ、味方せよと申すのか」
村井はわずかに笑った。
「されど、義昭様はもうお分かりだ。誰が“京”を制すかは、刀よりも、耳元で囁く声で決まる時代と──」
利家はその言葉を遮るように、耳飾を机の上に静かに置いた。
「信長様のお考え、確かに受け取り申した。だが、前田利家は槍を捨てぬ。策を学び、言葉で動くことも致そう。だが、それは“信”のため。民のためじゃ」
村井の表情がわずかに強張る。
「……して、信とは何にございます?」
「命を預け、背を預けられる相手のことよ。それが将であり、仲間であり──松や、志乃や、あの娘らよ」
◆
その夜。
密使が去ったあと、松が静かに茶を淹れにやってきた。
利家は、ふうとため息をつきながら、机に肘をついた。
「槍じゃない。“言葉”と“信”で守らねばならぬときもある……。でも、どうしてこんなにも、胸が痛むのかのう」
松は、利家の横に座り、背中を軽くとんとんと叩いた。
「それでも泣くのは、あなたですからね?」
利家は目を丸くした。
「……泣いてなど、おらぬ!」
「いまにも涙ぐんでました」
「ぐぬぬ……っ」
茶の香が、春の夜風に乗ってふわりと広がった。
政の世界に、風が動く。
その風は、いずれ前田家をも大きく揺らしていくだろう。
だがその中心には、槍と、信と、そして名もなき女たちの灯が──
確かに、燃えていた。
春の宵、だがどこか鋭い空気が漂う都の片隅。静かに、ひとつの屋敷の塀を越えて、黒装束の男が影のように滑り込む。目的はただ一つ──密約の使者として、“耳飾”を届けるためだった。
その男の腰には、信長家中の密使の証である“逆月の紋”が刻まれていた。
そして、その指先に握られていたのは、小さな瑠璃色の耳飾。
京の政は、刀ではなく、香と耳飾と囁きによって動かされる夜を迎えようとしていた。
◆
前田利家は、居間の畳に膝をつき、文机の上に積まれた文書と格闘していた。槍の柄より重い筆を握る手に、心なしか焦りが滲む。
「“摂津・京の治安維持について、前田家の見解を三日以内に提出せよ”か……。殿中の“会議”も、戦と同じじゃな……」
そう呟く利家の隣で、松が湯呑をそっと置く。
「政は剣ほど単純ではありませんから。……でも、あなたはすぐ熱くなるから、困るのです」
「そうかもしれん……。だが、この京で、信長様が仕掛けている“策”を黙って見てはおられぬ」
松は少しだけ眉をひそめた。
「耳飾ですか。義昭様の周囲でも、あれが流通し始めているとか」
“耳飾”──それは、ただの装飾品ではない。
京の政界では、密約や忠誠の証として“対の耳飾”が密かに交わされていた。片方を受け取った者は、もう片方を持つ者の密約者、あるいは操り人形になる。
情報、忠誠、裏切り。すべては、その瑠璃の輝きに封じられる。
◆
その晩。
前田家の屋敷裏手、灯を落とした茶室にひとつの影が佇んでいた。
現れたのは、見覚えのある男──信長家中の密使・村井貞勝だった。
「利家殿。これを、信長公より預かっております」
差し出されたのは、瑠璃の耳飾。
「信長公は、いずれ天下に覇を唱えるおつもり。その時──前田の名が、槍のみにて残るものか、言葉と策によって刻まれるものか……お選びいただきたく」
利家は黙して耳飾を見つめた。
「策を選ぶならば、信長様に頭を垂れ、味方せよと申すのか」
村井はわずかに笑った。
「されど、義昭様はもうお分かりだ。誰が“京”を制すかは、刀よりも、耳元で囁く声で決まる時代と──」
利家はその言葉を遮るように、耳飾を机の上に静かに置いた。
「信長様のお考え、確かに受け取り申した。だが、前田利家は槍を捨てぬ。策を学び、言葉で動くことも致そう。だが、それは“信”のため。民のためじゃ」
村井の表情がわずかに強張る。
「……して、信とは何にございます?」
「命を預け、背を預けられる相手のことよ。それが将であり、仲間であり──松や、志乃や、あの娘らよ」
◆
その夜。
密使が去ったあと、松が静かに茶を淹れにやってきた。
利家は、ふうとため息をつきながら、机に肘をついた。
「槍じゃない。“言葉”と“信”で守らねばならぬときもある……。でも、どうしてこんなにも、胸が痛むのかのう」
松は、利家の横に座り、背中を軽くとんとんと叩いた。
「それでも泣くのは、あなたですからね?」
利家は目を丸くした。
「……泣いてなど、おらぬ!」
「いまにも涙ぐんでました」
「ぐぬぬ……っ」
茶の香が、春の夜風に乗ってふわりと広がった。
政の世界に、風が動く。
その風は、いずれ前田家をも大きく揺らしていくだろう。
だがその中心には、槍と、信と、そして名もなき女たちの灯が──
確かに、燃えていた。
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