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第十八章『『竜ノ眼、都に向く──東奥より風は変わる』
第百七十四話『母の名、妻の名』
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白霜の残る黒川城の庭に、淡い陽が差し始めていた。
武将たちの靴音が廊下を響かせ、紙のように薄い冬の空気を切り裂いていく中、奥御殿の一室では、二人の女が対座していた。
ひとりは、伊達政宗の母──義姫(よしひめ)。
そしてもうひとりは、政宗の正室──愛姫(めごひめ)であった。
間には湯気の立つ茶器と、折り目正しく畳まれた書状が一通。
義姫がそれをゆっくりと押し出すように、愛姫の前へと置いた。
「越後より……上杉の内々書でございます」
義姫の声は、冷えた空気の中でも凛としていた。
かつて最上の姫として、戦国の政略に身を置いてきた女──今もなお、微笑の奥に剣を忍ばせる女である。
愛姫は書状に手をかけることなく、目だけを落とした。
「お義母さま……これは、“疑い”とお考えで?」
「疑い、とは違います」
義姫は静かに、茶を啜る。
「けれど、“誤解”は戦の種となります。伊達の中に、上杉に通じる声があると思わせれば──それは、ただの影であっても政宗の名に傷となる」
愛姫は小さく息を呑んだ。
それは、まさしく自分に向けられた“遠回しの刃”だった。
愛姫は、政宗の正室でありながら、出自は田村の家。かつては敵方であり、そして──今も“名”が利用されることがある。
「……私は、政宗様の妻でございます。ただ、それだけを……」
「それだけであれば良いのでしょうか?」
義姫の言葉は柔らかだった。だが、その柔らかさこそが、芯の強さを裏打ちしていた。
「あなたは“政宗の妻”である以上、伊達の柱の一つなのです。政宗の名が立つには、影となる者の覚悟が必要。妻は、母よりもずっと……近くでその重さを受けねばならぬ」
愛姫は唇を噛んだ。
──名家に生まれ、政略の道具として嫁いだ。
だが、愛姫は確かに知っている。政宗の隣に立つとき、その眼差しが「道具」ではなく「人」として向けられていることを。
「政宗様は……わたくしを“支え”として見てくださっております。だからこそ──私は、名で語られるのではなく、“在る”ことで証にしたいのです」
義姫は目を細めた。
それは一瞬の、母としての顔だった。
「……あの子は、誰かを背負うには早く、誰も信じぬには幼い」
義姫はふと、懐の中から一通の古びた手紙を取り出した。
それはかつて、政宗が初めて戦に出た日──十四歳のときにしたためた文だった。
「“母上へ。勝ちます。家の名を背負います”。」
その手紙を握りしめた夜、義姫は初めて涙を流したという。
「名を背負うことが、あの子にとって“武器”であると同時に、“鎖”であることも、私は知っております」
愛姫は小さく目を伏せ、そして顔を上げた。
「……ならば、私が、その鎖を解く鍵であればよい」
義姫の目が、少しだけ見開かれた。
「わたくしがこの家に嫁いだ意味は、“名”ではなく、“隣にいる”ことにあります。政宗様が、誰にも語れぬ“痛み”や“迷い”を抱くとき──黙って隣にいる。それが、私にできる戦です」
義姫は、しばし沈黙した。
そして、ふと笑った。
「……いい顔をなさる。やはり、あの子にはあんたが必要なのかもしれぬな」
「……お義母さま」
「そう肩肘張らずともよい。母とて、いつまでも剣を握ってはおられぬ」
茶器の湯気が、ふわりと二人の間をやわらかに包み込む。
その夜、政宗は書院にて、父輝宗の形見である筆と硯を手に、来たる上洛への覚悟を文にしたためていた。
ふと、背後の襖が静かに開く。
「……政宗様。夜更かしは、お肌に毒ですわよ?」
それは愛姫の声。柔らかく、どこか甘えた声音だった。
「ふ、毒を食らわば……だ」
「ならば、毒味役を務めましょう。私は、政宗様の毒でも……飲めますから」
政宗は筆を止め、わずかに口元を緩めた。
「……その毒は、妙に甘いな」
「ええ、きっと母上にも効き目がありそうです」
その笑顔に、政宗は救われる。
名とは、背負うもの。だが、誰かが共に在れば──その重さも、また違って見える。
名を継ぐ男と、名に殉じる女。
伊達の家に、ふたつの“名”が灯り続ける夜であった。
武将たちの靴音が廊下を響かせ、紙のように薄い冬の空気を切り裂いていく中、奥御殿の一室では、二人の女が対座していた。
ひとりは、伊達政宗の母──義姫(よしひめ)。
そしてもうひとりは、政宗の正室──愛姫(めごひめ)であった。
間には湯気の立つ茶器と、折り目正しく畳まれた書状が一通。
義姫がそれをゆっくりと押し出すように、愛姫の前へと置いた。
「越後より……上杉の内々書でございます」
義姫の声は、冷えた空気の中でも凛としていた。
かつて最上の姫として、戦国の政略に身を置いてきた女──今もなお、微笑の奥に剣を忍ばせる女である。
愛姫は書状に手をかけることなく、目だけを落とした。
「お義母さま……これは、“疑い”とお考えで?」
「疑い、とは違います」
義姫は静かに、茶を啜る。
「けれど、“誤解”は戦の種となります。伊達の中に、上杉に通じる声があると思わせれば──それは、ただの影であっても政宗の名に傷となる」
愛姫は小さく息を呑んだ。
それは、まさしく自分に向けられた“遠回しの刃”だった。
愛姫は、政宗の正室でありながら、出自は田村の家。かつては敵方であり、そして──今も“名”が利用されることがある。
「……私は、政宗様の妻でございます。ただ、それだけを……」
「それだけであれば良いのでしょうか?」
義姫の言葉は柔らかだった。だが、その柔らかさこそが、芯の強さを裏打ちしていた。
「あなたは“政宗の妻”である以上、伊達の柱の一つなのです。政宗の名が立つには、影となる者の覚悟が必要。妻は、母よりもずっと……近くでその重さを受けねばならぬ」
愛姫は唇を噛んだ。
──名家に生まれ、政略の道具として嫁いだ。
だが、愛姫は確かに知っている。政宗の隣に立つとき、その眼差しが「道具」ではなく「人」として向けられていることを。
「政宗様は……わたくしを“支え”として見てくださっております。だからこそ──私は、名で語られるのではなく、“在る”ことで証にしたいのです」
義姫は目を細めた。
それは一瞬の、母としての顔だった。
「……あの子は、誰かを背負うには早く、誰も信じぬには幼い」
義姫はふと、懐の中から一通の古びた手紙を取り出した。
それはかつて、政宗が初めて戦に出た日──十四歳のときにしたためた文だった。
「“母上へ。勝ちます。家の名を背負います”。」
その手紙を握りしめた夜、義姫は初めて涙を流したという。
「名を背負うことが、あの子にとって“武器”であると同時に、“鎖”であることも、私は知っております」
愛姫は小さく目を伏せ、そして顔を上げた。
「……ならば、私が、その鎖を解く鍵であればよい」
義姫の目が、少しだけ見開かれた。
「わたくしがこの家に嫁いだ意味は、“名”ではなく、“隣にいる”ことにあります。政宗様が、誰にも語れぬ“痛み”や“迷い”を抱くとき──黙って隣にいる。それが、私にできる戦です」
義姫は、しばし沈黙した。
そして、ふと笑った。
「……いい顔をなさる。やはり、あの子にはあんたが必要なのかもしれぬな」
「……お義母さま」
「そう肩肘張らずともよい。母とて、いつまでも剣を握ってはおられぬ」
茶器の湯気が、ふわりと二人の間をやわらかに包み込む。
その夜、政宗は書院にて、父輝宗の形見である筆と硯を手に、来たる上洛への覚悟を文にしたためていた。
ふと、背後の襖が静かに開く。
「……政宗様。夜更かしは、お肌に毒ですわよ?」
それは愛姫の声。柔らかく、どこか甘えた声音だった。
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「ならば、毒味役を務めましょう。私は、政宗様の毒でも……飲めますから」
政宗は筆を止め、わずかに口元を緩めた。
「……その毒は、妙に甘いな」
「ええ、きっと母上にも効き目がありそうです」
その笑顔に、政宗は救われる。
名とは、背負うもの。だが、誰かが共に在れば──その重さも、また違って見える。
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