27 / 70
②⑥話 引っ越し続き
しおりを挟む
秋の風が頬を冷たく撫でる。
私の目の前には、狭いながらも整えられた屋敷が佇んでいる。
昨日まで過ごした前田又左衛門利家殿の邸から、荷物を手に半時ほど歩いてきたばかりだ。
「お市様、こちらが仮の屋敷でございます」
前田慶次利益が低く響く声で母に告げる。
その声音には、どこか気遣うような柔らかさが混じっている。
私は目を細めて彼を見た。
赤い陣羽織が風に揺れ、背の高いその姿はまるで戦場から抜け出してきたかのようだ。
だが、今はただの護衛。
私たち浅井家の娘たちを、織田の血筋に預けるまでの「つなぎ」に過ぎない。
「仮屋敷、ね」
私は呟き、胸の内で小さく舌打ちした。
近江小谷城を出たのが夏の終わりだった。
あの日は空が青く、汗が首筋を伝うほど暑かった。
今はもう秋が深まり、落ち葉が地面に薄く積もっている。
季節の移ろいと共に、私たちの居場所もこうして移ろっていく。
まるで風に吹かれる木の葉のようだ。
母上様が前田又左衛門利家殿に別れの挨拶をしているのが聞こえる。
「又左衛門殿、松、お世話になりました」
母の声は穏やかで、どこか疲れを隠しているように感じた。
私はそっと母の横顔を見る。
あの美しい顔が、少しだけやつれている。
浅井長政――私の父を失い、織田信長――あの男に全てを奪われた母の心は、どれほど重いのだろう。
「そんなお市様に礼を言われるほどのもてなしができませんで、こちらこそ申し訳なく」
又左衛門殿が頭を下げる。
その隣で、松が小さく笑いながら夫の尻をつねった。
「そうでございます、利家殿。昔惚れた女子、お市様をおもてなしできるくらいの屋敷に住む働きをいたしなさい」
その言葉に、私は思わず目を丸くした。
「又左衛門が母上様に惚れていた?」
私の声が少し高くなった。
驚きと好奇心が混じり合って、つい口に出てしまったのだ。
又左衛門殿が照れ臭そうに笑う。
「昔の話ですよ。茶々様、昔々の若いときの話。小姓に過ぎなかったそれがしが憧れていただけでござる」
彼はそう言って誤魔化すように手を振ったが、その目には遠くを見るような光があった。
母への想いを、確かに昔は抱いていたのだと、私は直感した。
それでも今は松という妻がいて、彼は彼女を愛している。
人の心とは、かくも複雑で移ろいやすいものなのか。
「それより、しばらくは護衛に慶次利益とその配下を付けますから、どうか使ってやってください」
又左衛門殿が話を切り替える。
私はふと、慶次の姿を目で追った。
彼は門の前で配下の者に何かを指示している。
その背中は広く、どこか頼もしい。
だが、私の心は別のことを考えていた。
――織田信長。
あの男が、私の父を殺し、兄上も殺し全てを奪った。
私たちをこんな風に漂わせている。
この仮屋敷も、護衛も、全てはあの男の支配下にあるものだ。
胸の奥で、憎しみが熱く燃え上がる。
いつか、私の手で、あの男を・・・・・・。
「ありがたき配慮、痛み入ります。では」
母の声で我に返る。
私たちは前田邸を後にし、新しい屋敷へと足を踏み入れた。
屋敷の玄関に着くと、さつきが水を用意して私とお初の足をすすいでくれる。
冷たい水が足に触れた瞬間、私は小さく息を呑んだ。
「姉上様、冷たい」
お初が小さな声で呟く。
その声には、どこか甘えるような響きがあった。
私は眉を寄せて彼女を見下ろした。
「武家の娘として、その様な事で弱音を吐いてどうするのです」
私の口調は少し厳しくなった。
お初が目を丸くして私を見る。
「ちょっと思った事を言っただけなのに・・・・・・」
彼女の声が小さく震え、さつきが苦笑いを浮かべた。
私は内心、ため息をつく。
お初はまだ幼い。
この冷たい水も、この狭い屋敷も、彼女にはただの不満でしかないのだろう。
だが私には違う。
この冷たさは、私の決意を試しているかのようだ。
いつか、私はこのような場所を抜け出し、私の力で畳敷きの屋敷、いや、城を手に入れる。
織田信長を超える力を、この手で掴んでみせる。
屋敷の中に入ると、板の間が目に入る。
岐阜城の豪華さとは比べものにならない。
あの城で、信長は笑いながら私たちを見下ろしていたのだろうか。
その光景を想像するたび、胸の奥が締め付けられる。
私は拳を握り、静かに息を吐いた。
この屋敷は、私に火を灯した。
いつか必ず、私の力で全てを取り戻すという決意の火を。
数日が過ぎ、私たちの身柄は大叔父・織田孫十郎信次預かりと決まった。
また引っ越しだ。
前田慶次利益が母に別れの言葉を告げる。
「お市様、これよりは孫十郎様の領地。我ら前田の者が付いていくわけにはいきません」
「そうですね。後の事は叔父上様にお願いいたします。前田慶次利益、今までご苦労様でした。礼を申します」
母の声は穏やかだが、私はその裏に隠された疲れを感じ取る。
慶次が小さく頭を下げた。
「なんのこれしきのこと」
その言葉に、私は思わず口を開いた。
「慶次、行ってしまうの?」
彼が振り返り、私を見た。
その目に宿るのは、どこか優しい光だ。
「はっ、茶々様、俺はここまで。あとは孫十郎様がきっとよくしてくださいます」
「そう、行くの・・・・・・」
私の声が小さく震えた。
なぜだか分からない。
彼の背中が遠ざかるのが、妙に寂しく感じたのだ。
慶次が笑う。
「そんな寂しそうな顔見せるなよっと、失礼。きっとまた会うときも来ますから」
そう言って、彼は背を向け、去って行った。
その赤い陣羽織が秋の風に揺れ、やがて見えなくなった。
私は立ち尽くし、胸の内で呟いた。
――織田信長。
お前が全てを奪った。
だが、私は諦めない。
この仮屋敷も、この秋の冷たさも、私を強くするだけだ。
いつか、お前を越えてみせる。
私の目の前には、狭いながらも整えられた屋敷が佇んでいる。
昨日まで過ごした前田又左衛門利家殿の邸から、荷物を手に半時ほど歩いてきたばかりだ。
「お市様、こちらが仮の屋敷でございます」
前田慶次利益が低く響く声で母に告げる。
その声音には、どこか気遣うような柔らかさが混じっている。
私は目を細めて彼を見た。
赤い陣羽織が風に揺れ、背の高いその姿はまるで戦場から抜け出してきたかのようだ。
だが、今はただの護衛。
私たち浅井家の娘たちを、織田の血筋に預けるまでの「つなぎ」に過ぎない。
「仮屋敷、ね」
私は呟き、胸の内で小さく舌打ちした。
近江小谷城を出たのが夏の終わりだった。
あの日は空が青く、汗が首筋を伝うほど暑かった。
今はもう秋が深まり、落ち葉が地面に薄く積もっている。
季節の移ろいと共に、私たちの居場所もこうして移ろっていく。
まるで風に吹かれる木の葉のようだ。
母上様が前田又左衛門利家殿に別れの挨拶をしているのが聞こえる。
「又左衛門殿、松、お世話になりました」
母の声は穏やかで、どこか疲れを隠しているように感じた。
私はそっと母の横顔を見る。
あの美しい顔が、少しだけやつれている。
浅井長政――私の父を失い、織田信長――あの男に全てを奪われた母の心は、どれほど重いのだろう。
「そんなお市様に礼を言われるほどのもてなしができませんで、こちらこそ申し訳なく」
又左衛門殿が頭を下げる。
その隣で、松が小さく笑いながら夫の尻をつねった。
「そうでございます、利家殿。昔惚れた女子、お市様をおもてなしできるくらいの屋敷に住む働きをいたしなさい」
その言葉に、私は思わず目を丸くした。
「又左衛門が母上様に惚れていた?」
私の声が少し高くなった。
驚きと好奇心が混じり合って、つい口に出てしまったのだ。
又左衛門殿が照れ臭そうに笑う。
「昔の話ですよ。茶々様、昔々の若いときの話。小姓に過ぎなかったそれがしが憧れていただけでござる」
彼はそう言って誤魔化すように手を振ったが、その目には遠くを見るような光があった。
母への想いを、確かに昔は抱いていたのだと、私は直感した。
それでも今は松という妻がいて、彼は彼女を愛している。
人の心とは、かくも複雑で移ろいやすいものなのか。
「それより、しばらくは護衛に慶次利益とその配下を付けますから、どうか使ってやってください」
又左衛門殿が話を切り替える。
私はふと、慶次の姿を目で追った。
彼は門の前で配下の者に何かを指示している。
その背中は広く、どこか頼もしい。
だが、私の心は別のことを考えていた。
――織田信長。
あの男が、私の父を殺し、兄上も殺し全てを奪った。
私たちをこんな風に漂わせている。
この仮屋敷も、護衛も、全てはあの男の支配下にあるものだ。
胸の奥で、憎しみが熱く燃え上がる。
いつか、私の手で、あの男を・・・・・・。
「ありがたき配慮、痛み入ります。では」
母の声で我に返る。
私たちは前田邸を後にし、新しい屋敷へと足を踏み入れた。
屋敷の玄関に着くと、さつきが水を用意して私とお初の足をすすいでくれる。
冷たい水が足に触れた瞬間、私は小さく息を呑んだ。
「姉上様、冷たい」
お初が小さな声で呟く。
その声には、どこか甘えるような響きがあった。
私は眉を寄せて彼女を見下ろした。
「武家の娘として、その様な事で弱音を吐いてどうするのです」
私の口調は少し厳しくなった。
お初が目を丸くして私を見る。
「ちょっと思った事を言っただけなのに・・・・・・」
彼女の声が小さく震え、さつきが苦笑いを浮かべた。
私は内心、ため息をつく。
お初はまだ幼い。
この冷たい水も、この狭い屋敷も、彼女にはただの不満でしかないのだろう。
だが私には違う。
この冷たさは、私の決意を試しているかのようだ。
いつか、私はこのような場所を抜け出し、私の力で畳敷きの屋敷、いや、城を手に入れる。
織田信長を超える力を、この手で掴んでみせる。
屋敷の中に入ると、板の間が目に入る。
岐阜城の豪華さとは比べものにならない。
あの城で、信長は笑いながら私たちを見下ろしていたのだろうか。
その光景を想像するたび、胸の奥が締め付けられる。
私は拳を握り、静かに息を吐いた。
この屋敷は、私に火を灯した。
いつか必ず、私の力で全てを取り戻すという決意の火を。
数日が過ぎ、私たちの身柄は大叔父・織田孫十郎信次預かりと決まった。
また引っ越しだ。
前田慶次利益が母に別れの言葉を告げる。
「お市様、これよりは孫十郎様の領地。我ら前田の者が付いていくわけにはいきません」
「そうですね。後の事は叔父上様にお願いいたします。前田慶次利益、今までご苦労様でした。礼を申します」
母の声は穏やかだが、私はその裏に隠された疲れを感じ取る。
慶次が小さく頭を下げた。
「なんのこれしきのこと」
その言葉に、私は思わず口を開いた。
「慶次、行ってしまうの?」
彼が振り返り、私を見た。
その目に宿るのは、どこか優しい光だ。
「はっ、茶々様、俺はここまで。あとは孫十郎様がきっとよくしてくださいます」
「そう、行くの・・・・・・」
私の声が小さく震えた。
なぜだか分からない。
彼の背中が遠ざかるのが、妙に寂しく感じたのだ。
慶次が笑う。
「そんな寂しそうな顔見せるなよっと、失礼。きっとまた会うときも来ますから」
そう言って、彼は背を向け、去って行った。
その赤い陣羽織が秋の風に揺れ、やがて見えなくなった。
私は立ち尽くし、胸の内で呟いた。
――織田信長。
お前が全てを奪った。
だが、私は諦めない。
この仮屋敷も、この秋の冷たさも、私を強くするだけだ。
いつか、お前を越えてみせる。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
ソラノカケラ ⦅Shattered Skies⦆
みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始
台湾側は地の利を生かし善戦するも
人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね
たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される
背に腹を変えられなくなった台湾政府は
傭兵を雇うことを決定
世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった
これは、その中の1人
台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと
舞時景都と
台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
佐世野榛名のコンビによる
台湾開放戦を描いた物語である
※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる