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⑤③話 茶室の絆
しおりを挟む千宗易の屋敷での出来事から数日が経った。
千宗易の店の者たちが、私が選んだ藍色の反物を懐剣袋に仕立て上げてくれた。
その小さな袋は、母上様がくだされた懐剣にぴったりと収まり、金の糸が織り込まれた光沢が岐阜城下の陽光に映えて美しかった。
袋をそっと手に取るたび、父上様の温もりと、千宗易の優しさが胸に満ちてくる。戦乱の中で失ったもの――あの晩、燃え上がる小谷城の瓦礫の下に消えた声や笑顔。それらを思い出すたびに、この懐剣袋が私を今へと繋ぎ止めてくれる気がした。まるで亡き父の手が、まだ私の背を支えてくれているかのように。
その日、私は再び千宗易の店に足を運んだ。
岐阜城下の商人街は、長良川の風が通りを抜け、鯉のぼりのように揺れる暖簾の隙間からは、炭の匂いと味噌田楽の甘い香りが入り混じっていた。通りには小舟の鐘の音がかすかに響いていた。だが、その賑わいの中にどこか不穏な空気が混じっていることに、私は気づいていた。
通りを歩く商人たちの会話に、
「織田の殿様がまた戦仕度しているってさ」
「また騒がしくなるな」
という言葉が漏れ聞こえてきた。
店に着くと、千宗易はいつもの穏やかな笑顔で私を迎えてくれた。
「茶々様、懐剣袋はいかがですかな?」
彼の声に、私は手に持った袋を見せ、小さく頷いた。
「とても気に入りました。ありがとうございます、千宗易殿」
彼は満足そうに目を細め、「それはようございました」と呟いた。
そして、ふと私の顔を見て、少し真剣な表情になった。
「今日は特別に、茶室で一服お点てしましょうか。岐阜を去る前に、茶々様とゆっくり話したい」
その言葉に、私は一瞬驚いた。
「去る?」
千宗易は軽く頷き、「へい、堺に戻る用ができたのです。織田様のお召しもあるやもしれません」と答えた。
心臓の奥がぎゅっと縮まるような感覚がした。言葉にされる前から、どこかで分かっていたのだ。優しい笑顔の裏には、どこか覚悟のようなものが漂っていたから。
岐阜城下は信長の拠点であり彼の命は全てを動かす力を持っていた。千宗易が堺へ戻るのも、きっとその影響だろう。
私は小さく息を吐き、「そうか……」と呟いた。
彼に導かれ、私は店の裏に設けられた小さな茶室へと入った。
障子から差し込む光が畳を照らし、茶釜の湯が静かに沸く音が響いていた。白い湯気が障子の光に透けて、まるで夢の中にいるようだった。
千宗易は慣れた手つきで茶道具を用意し、私に正座するよう促した。
私は畳に座り、彼の手元を見つめた。茶筅が抹茶と湯をかき混ぜる音が耳に心地よく響き、湯気が立ち上がる様子は、初めて彼に茶を教わった朝を思い出させた。時が、少しだけ止まったような気がした。
「あの時と同じですね」
そう私が呟くと、千宗易は微笑を浮かべながら茶碗を差し出した。
「茶々様、茶の湯はな、戦の世の荒波にあっても、ひととき人の心を舟のように運ぶものです。姫様がこれから歩む道にも、きっと灯となるでしょう」
私は両手でそれを受け取り、そっと口に運んだ。抹茶のほろ苦さが舌に広がり、身体の芯まで染み渡った。
目を閉じ、その味を味わいながら、ここにくる前の母上様の言葉を思い出した。
――茶の道は心を整えるもの。
今、この一服が、私に小さな力を与えてくれている気がした。
茶を飲み終え、私は碗を千宗易に返した。彼はそれを丁寧に片付けながら、ふと口を開いた。
「茶々様は幼いながらも気高い心を持っておる。小谷の記憶は消えんかもしれませんが、それでも前に進む強さが姫様にはある」
その言葉に、私は一瞬目を丸くした。彼の目には、私を信じるような光があった。
私は小さく頷き、「ありがとう」と呟いた。
だが、心のどこかで、戦の影が近づく不安が消えなかった。
その時、店の外から馬の蹄の音と、慌ただしい足音が聞こえてきた。蹄の音が一つ、また一つと重なり、まるで大地が息を潜めているようだった。
千宗易も私も、顔を上げて障子の外を見た。
店の者が慌てて茶室に駆け込んできた。
「宗易様、織田様の使者がお見えです!すぐにお出でください!」
その言葉に、千宗易の顔が一瞬引き締まった。
彼は私に軽く頭を下げ、「茶々様、ここで待っておってください」と言い、立ち上がった。
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