56 / 70
⑤④話 茶室の絆(続き)
しおりを挟む千宗易が茶室を後にしたあと、私は一人、畳の上に正座したままだった。
沈黙の中、障子の外からかすかに響く馬の蹄の音と、使者の低く押し殺した声が、静寂を切り裂くように耳に届いてくる。その音のひとつひとつが、現実を突きつける刃のようだった。
私は膝の上に置いた懐剣袋を、そっと両手で包み込む。藍染めの絹地に、月光が反射してほのかに光っていた。
この袋の中にある懐剣は、父・浅井長政から授かった、私にとって唯一無二の護り刀。けれど今、この小さな袋が、私の胸の奥に広がる不安を抑えるには、あまりにも頼りなく感じられた。
伯父・織田信長の使者――。
その言葉が脳裏をよぎるたび、小谷城が紅蓮の炎に包まれたあの夜の光景が甦る。
炎に照らされた城門。火縄銃の激しい音。母上様が私を腕に抱え、燃えさかる城を後にした、あの息苦しい夏の夜――。
岐阜に移ってからも、信長様の威光は、まるで空気のように私たちの周囲に満ちていた。そして今、あの偉大な存在が、千宗易殿すらも自らの野望の一部に取り込んでいく。
私は静かに目を閉じ、唇を噛んだ。
しばらくして、茶室の戸が再び静かに開かれた。
千宗易が戻ってきたのだ。
彼の顔には、先ほどまでの穏やかさに、わずかな疲労の色が重なっていた。それでもその瞳は、どこか澄んでいて、揺らぎがなかった。
「茶々様、お待たせいたしました」
彼は私の前に座り直し、深く一礼する。私はその所作の中に、変わらぬ誠実さを見出していた。
「伯父上の使者は……何を?」
私の問いに、千宗易は小さく息を吐き、ゆっくりと答えた。
「堺に戻れとの御命にございます。南蛮との交易をさらに進めるべく、茶道具や珍品を揃えよとの仰せじゃ」
その言葉に、私はしばし言葉を失った。
信長の野望は、刀や鉄砲のみならず、遠く海の向こうの文化や品々にまで及んでいたのだ。そして千宗易の動きもまた、その大きな野心の一端に組み込まれている。
「……もう、会えなくなるのですか?」
私の声は、思っていたよりも細く、震えていた。
けれど千宗易は、その声に穏やかに笑みを返してくれた。
「いや、またお会いできますとも。茶の道を極める者は、場所を越えてつながっております。茶々様がこの道を歩み続ける限り、わしは姫様の師でございます」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
「……是非とも、名乗ってくださいませ。浅井長政の姫・茶々の、いちばんの師匠と」
「ありがたき幸せにございます」
千宗易の声には、武の世を超える力――言葉と信の力が宿っていた。
私は、懐剣袋をもう一度しっかりと握りしめ、力を込めて言った。
「私、茶の道を続けます。父上様のためにも、そして、自分自身のためにも」
千宗易は満足げに頷いた。
「その心がけが、なにより大切でございます」
そう言って、彼は静かに湯を汲み、茶筅を手にした。
シャカシャカ、と音が鳴り、茶室に湯気が立ちこめる。その香りとともに、私は初めて彼から茶の湯を教わった朝のことを思い出していた。
硝煙の記憶に苛まれていた私に、初めて安らぎを与えてくれたのは、この茶の時間だった。
彼が差し出した茶碗を受け取り、私は静かに口をつけた。
抹茶のほろ苦さが、私の胸に巣食う不安を、少しずつ溶かしていくようだった。
茶を飲み干した後、千宗易は茶器を一つ一つ丁寧に包み始めた。
「茶々様、わしは明日、堺へ発ちます。岐阜での時は短うございましたが、姫様と茶を共にできたこと――それは、わしにとっての誇りにございます」
私は唇を結び、こみ上げる涙を堪えながら頷いた。
「私も……師匠と過ごした時を、宝にいたします。ありがとうございました、千宗易殿」
彼は穏やかに微笑み、
「姫様なら、大丈夫じゃ」
とだけ言い残し、静かに茶室を出て行った。
その背中を見送り、私は茶室の外へ出た。
岐阜城下の屋敷に戻ると、窓の外に広がる長良川の流れが、月の光に照らされてきらきらと揺れていた。
私は懐剣袋を開き、懐かしいその刃を手に取る。柄に彫られた花の模様を指でなぞりながら、そっと呟いた。
「父上様……私、強くなります。茶の道を歩みながら、この世を生き抜いてみせます」
その決意が、私の胸の奥に、小さな灯火をともしてくれた。
翌朝、千宗易が岐阜を発ったと、侍女がそっと告げた。
その馬車の音は、私の耳には届かなかったけれど――心の中で、師の姿が鮮やかに浮かんでいた。
別れは終わりではない。これは、私の新しい始まり。
私はふたたび茶室に向かい、茶杓を手にした。
手に伝わる木の温もり。それは師の教えの記憶と重なる。
湯を沸かし、茶を点てる。
抹茶の緑が茶碗の中で静かに揺れた。
この一服こそが、千宗易との絆の証。
私は目を閉じ、その温かさを胸いっぱいに感じていた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
ソラノカケラ ⦅Shattered Skies⦆
みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始
台湾側は地の利を生かし善戦するも
人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね
たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される
背に腹を変えられなくなった台湾政府は
傭兵を雇うことを決定
世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった
これは、その中の1人
台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと
舞時景都と
台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
佐世野榛名のコンビによる
台湾開放戦を描いた物語である
※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる