織田信長の姪ーprincess cha-chaー悪役令嬢?炎の呪縛と復讐の姫 

本能寺から始める常陸之介寛浩

文字の大きさ
57 / 70

⑤⑤話 桃の花と伯父上の来訪

しおりを挟む

1575年の春。

私は母上様とお初、お江と共に、岐阜城下の屋敷の庭で桃の花を眺めていた。

岐阜城下は伯父・織田信長の領地の中心に位置し、山の上にそびえる岐阜城を見上げる場所にある。城は堅牢な石垣の上に築かれ、眼下に広がる町を睥睨するその姿は、まるで威厳そのものだった。

私たちが暮らす屋敷はその城から少し離れた平地にあり、城下の喧騒から離れた静謐な佇まいを湛えている。庭には一本の桃の木があり、その枝々に咲いた淡紅色の花々が春風に揺れていた。ひとひら、またひとひらと舞い落ちる花びらは、どこか寂しげな余韻を残す。

「母上、この桃の花、どこか寂しく見えますね」

私がそう呟くと、母上様は優しい微笑みを浮かべ、

「そうかしら、茶々?でもね、美しい花は、どんなに静かでも、その美しさに意味があるのよ」

と、穏やかな声で返してくださった。その声音は私の胸の奥に染み入り、心がふっと軽くなるようだった。

お初は七歳。私より二つ下の妹で、お淑やかな子だ。彼女も花に目を細め、

「確かに美しいですね。けれど、少し哀しい気もします」

と、小さく呟いた。

一番下のお江はまだ四歳で、母上の裾をしっかりと握りながら、黙って頷くだけだった。言葉少ななお江だが、その瞳には好奇心と感受性が宿っている。

私は彼女の手を優しく取り、

「お江、この桃の花、どう思う?」

と問いかけると、彼女は少しだけ眉を動かし、か細い声で、

「……好きです」

と答えた。そして、ほんの少しだけ微笑んだ。その小さな笑みに、私は胸が温かくなるのを感じた。

こうして母上様と妹たちと静かな時間を過ごすことが、今の私にとって何よりも大切なひとときだった。

岐阜に移ってから、母上様と過ごす時間は以前よりも減ってしまった気がする。けれど、今日のような穏やかな日には、少しだけ昔に戻れたような気がした。

母上様は、時折遠くの山並みを見つめては何かを思案している様子だった。けれど、その胸中を私たちに語ることはない。それでも、そばにいてくださるだけで、私たち姉妹の心は安らいだ。

その時だった。

門の外から馬の蹄の音が勢いよく響き、私は思わず立ち上がった。緊張が走る。誰かが屋敷に近づいてくる。

やがて、聞き慣れた声が朗々と響き渡った。

「お市はいるか! お市! 町を一回りしてきて喉が渇いた。水を所望じゃ!」

庭に勢いよく踏み込んできたのは、我らが伯父、織田信長だった。

甲冑は纏わず軽装であったが、腰には太刀を佩き、その鋭い眼光と堂々たる佇まいは、誰もが自然と頭を垂れたくなる威厳に満ちていた。

背は高く、歩みはまるで地を割るように力強い。土埃を舞い上げながら庭へと進み出ると、母上様が私たちの前に立ち、平然とした声で応じた。

「兄上様、おいでくださったのですね。水がご所望とのこと、井戸はあちらにございます。どうぞ、ご自分でお汲みくださいませ。誰か、柄杓を」

侍女のささつきが慌てて盆に柄杓と茶碗を載せて駆け寄ったが、信長はそれを手で制し、

「不要だ」

と一言。

そして、井戸の傍に歩み寄ると、手桶も使わず両手で水をすくい、豪快に喉を鳴らして飲み干した。水はその顎から滴り落ち、陽の光を反射して地面に弧を描いた。

「ふぅ、美味い」

と、信長は満足そうに呟く。

私はその粗野とも思える仕草に、思わず笑みをこぼした。伯父上は、自由で豪放磊落な方だ。誰よりも厳しく、誰よりも人間らしい。

たとえ、父上の敵であっても。

母上様は少し歩み寄り、静かに問いかけた。

「兄上様がご自分で町をご覧になるとは、何かございましたか?」

信長は井戸の縁に手をかけ、低い声で答えた。

「戦が近い。町の様子を自ら見ておきたかった」

戦——その言葉に、私は背筋がひやりとした。

「左様ですか……お町の方々は、変わらず賑わっておりましたが……お相手は、どちらに?」

母上様の問いに、信長はわずかに眉を上げて答えた。

「武田だ。信玄の三回忌を終えてから、家臣どもが活発に動き始めたと、猿が忍ばせた者が報せてきた」

「武田勝頼……」

母上様がその名を呟くと、その眼差しがわずかに揺れたのを、私は見逃さなかった。

お初がそっと私に寄ってきて、耳元で囁いた。

「茶々姉様、武田って、強いの?」

私は小さく笑い、

「さあ、でも織田家が勝つと思うわ」

と返す。

お江は無言のまま、母上の裾をぎゅっと握りしめた。

すると、信長が突然、目を細めて私たちを見つめ、

「市の許に、武田の者が来てはおらぬか? 情報を引き出そうとするような輩が」

その言葉に私は息を呑み、母上様は即座に首を横に振った。

「来てはおりません。なぜ、そのようなことをお疑いに?」

「浅井が、武田と結んでいたからだ」

その名が出た瞬間、私の胸はぎゅっと締めつけられた。

浅井——それは父上、浅井長政のこと。

父上の名を口に出す時、母上様はいつも少しだけ目を伏せる。私たちは、母上のその哀しげな表情を見るのが辛くて、父上の話題にはあまり触れなかった。

母上様は顔を上げ、毅然とした声で答えた。

「私は織田に帰した身。娘たちの命を危険に晒すような愚は、決して致しません」

信長はしばし黙り、母上様の瞳をじっと見つめた。

やがて、静かに呟いた。

「……市は、儂をよく理解しておるな」

その視線は鋭くもあり、どこか寂しげでもあった。二人の眼差しが交差する様は、まるで目で言葉を交わすようで、見ている私たちまで息を呑んでしまう。

お初が私の袖を引いて、そっと囁いた。

「茶々、母上様って……とても強いのね」

私は大きく頷いた。

「ええ、本当に……誰よりも素晴らしい方よ」

お江はまだ母上の裾を握りしめたままだったが、その小さな体が少しだけ母上に寄り添うように動いた。

母上がそばにいる限り、私たちは大丈夫。

桃の花がまた一枚、風に乗って宙を舞い、私の肩にふわりと落ちた。

その花びらは、まるで母上様の強さと優しさを象徴しているように思えた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

ソラノカケラ    ⦅Shattered Skies⦆

みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始 台湾側は地の利を生かし善戦するも 人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される 背に腹を変えられなくなった台湾政府は 傭兵を雇うことを決定 世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった これは、その中の1人 台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと 舞時景都と 台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと 佐世野榛名のコンビによる 台湾開放戦を描いた物語である ※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...