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⑤⑥話 庭でのひとときと戦の気配
しおりを挟む織田信長が庭に現れた後、彼は小姓の太郎左衛門に命じた。
「町を再度見回り、忍びが紛れ込んでおらぬか念入りに確認せよ」
凛とした声が庭に響き、太郎左衛門は小柄な体をきびすに返すと、緊張した面持ちで深々と頭を下げ、すぐさま去っていった。
若くして重責を担う彼の姿には同情すら覚える。だが、伯父上──織田信長という男の威圧感を前にすれば、その慌てぶりも無理からぬことだった。
信長の足音が遠ざかると、庭には再び静寂が戻った。
春の陽が傾き始め、風に舞う桃の花びらが私たちの髪や肩をやわらかく撫でていく。私は母上と妹たち、お初、お江と共に桃の木の下に腰を下ろし、落ちた花びらをそっと手に取った。
指先に触れる花びらは思いのほか脆く、軽く押しただけで崩れてしまう。その儚さが、胸の奥に淡い切なさを運んできた。
そんな私の手元を見つめながら、母上様──お市様が、ふっと目を細めた。
「茶々、お初、お江。桃の花も、そろそろ見納めね」
「ええ、でも……来春にはまた咲きますよね?」
私が問い返すと、母上は柔らかく微笑み、
「その通りですよ、茶々。花は散っても、また巡りくるもの」
その言葉に、私はどこか安心する。
すると、お初が首を傾げて、真剣な顔で母上に尋ねた。
「母上、伯父上様が“戦に出る”と仰いましたけれど、それはどういう意味なのですか?」
「お初、それは……伯父上様が武田という敵と戦うということよ。戦とは、力をもって敵を打ち倒すこと」
私がそう答えると、お江が小さな声で、不安そうに呟いた。
「こわいのですか……?」
その問いに、お初が優しく答える。
「いいえ、お江。伯父上様は必ず勝つわ。だから、こわがらなくて大丈夫」
お江は少し安心したように頷き、母上の膝にすり寄った。
私は、戦が始まるという現実にほんの少し胸をざわつかせながらも、妹たちの前では平静を装っていた。
「母上様、武田というのは、それほどの強敵なのですか?」
私の問いに、母上はしばし遠くを見つめた。
「詳しくはわかりませんが……兄上様は、負けることのないお方です。まるで天が味方しているかのように、物事が兄上様の思うままに進んでいく。なぜあれほどまでに神が兄上様に味方するのか……私にもわからないほどです」
言葉の最後には、微かに影が差していた。母上様は私の髪を撫でながら微笑んだが、その笑顔には見えない不安がにじんでいるように思えた。
その気配に私は気づいたが、あえて口には出さなかった。
そこへ、侍女のささつきが温かい茶を盆に乗せてやってきた。
「お市様、お嬢様方。少し冷えてまいりましたから、こちらをどうぞ」
「ありがとう、ささつき」
私は茶碗を受け取り、ふと尋ねた。
「ささつき、伯父上様が町を見て回っていたのは、やはり忍びがいるからなのでしょうか?」
ささつきは一瞬返答に困ったように視線を彷徨わせ、それでも微笑みながら答えた。
「それは私には分かりかねますが……上様がそこまで気にされるということは、それだけ武田が侮れぬ相手なのでしょう」
私はふと、忍びという存在に思いを巡らせた。
密かに城下に入り込み、情報を探る者たち──その影の存在は、私にはどこか幻想のようでもあり、同時にぞっとするほど現実味があった。
「ささつき、もし忍びが現れたら、私が捕らえてみせますよ」
冗談半分で言ったつもりだったが、ささつきは真剣な顔で首を振った。
「まあ、茶々様、それはおやめくださいませ。とても危険です」
その真面目な反応が可笑しくて、私はくすりと笑った。
そんな私を見て、母上様が穏やかに声をかけてくる。
「茶々、あまり思い詰めるでないよ。今日は桃を愛でて、心を和ませましょう」
「はい、母上様。おっしゃる通りです」
そう答えながらも、胸の奥にはまだ“戦”という言葉が重く残っていた。
「茶々、母上がいてくださるから、私は怖くない」
お初がそう囁き、私は微笑んだ。
「その通りだよ、お初。母上様がいれば、私たちは大丈夫」
春の陽は西に傾き、庭に長い影を落とし始める。
風がそよぎ、桃の花びらが舞っては、静かに石畳に降り積もっていく。
私たちはゆっくりと座敷へ戻り、囲炉裏のそばで手を温めた。
「おやすみ、茶々。お初、お江もね」
母上様のその声に、私は布団に入りながら尋ねた。
「母上様、伯父上様が勝てば、私たちは幸せになれるのでしょうか?」
母上様は一瞬黙り、それから優しく私の頬に触れた。
「ええ、茶々。そうなれるように、私が努めます。だから、気に病むことは何もありません」
その笑みには、どこか寂しさが宿っているように見えた。
寝る前、私はふと窓を開けた。
岐阜の夜は静かで、星の瞬きすら凛と感じられるようだった。遠くに浮かぶ岐阜城の影が、まるで黒い巨人のように夜空に立っている。
風が木々を揺らし、微かな音を連れてくる。
私は母上様の温もりを感じながら、静かに目を閉じた。
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