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⑤⑦話 岐阜城の軍議と夜の静寂
しおりを挟むその夜、伯父・織田信長が岐阜城の主殿にて家臣たちを集め、密やかに軍議を開いた。
私は母上に手を引かれ、遠巻きにその様子を覗き見ていた。
主殿は広大で、太い柱が等間隔に立ち並び、高い天井はまるで空を支えるように伸びている。その厳かな空気に息を呑んだ。
中央には一枚の地図が広げられ、蝋燭の灯が淡く照らしていた。伯父・織田信長は静かにその地図の一角を指差すと、鋭く言い放つ。
「武田の騎馬は確かに強力だ。だが、儂の鉄砲隊がそれを凌駕する。……猿、鉄砲の数を確認しておけ」
その声は深く、鋼のように冷たいのに、不思議と誰も逆らえぬ迫力があった。
「猿」と呼ばれた羽柴秀吉がにやりと笑いながら応じる。
「上様、鉄砲は三千挺、すでに揃えてございます。弾薬も潤沢に。武田の馬など、蜂の巣にしてやりましょうぞ」
場にわずかに笑いが起きるが、信長は眉一つ動かさない。
私はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に氷の針が刺さるような痛みを感じた。
——もし、小谷城が攻められたあのとき、鉄砲がなければ……。
そんな思いがよぎり、私は無意識に唇を噛んでいた。母上様に視線を向けると、彼女は小さな声で私に囁いた。
「茶々……あれが、兄上様の力なのよ。火縄銃に早くから目をつけ、それを大量に備えた判断と行動。……それがなければ、今の織田家の強さはないでしょう」
私は頷いたが、その頷きは母を安心させるためのものでしかなかった。心の底では、違う感情が渦巻いていたのだ。
その力こそが、父上様を奪った力なのだ、と——。
場が少し静まったころ、明智光秀が一歩前に進み出る。いつも寡黙で穏やかな彼は、落ち着いた口調で提案を口にした。
「上様、長篠の設楽原は平坦でございますゆえ、騎馬隊には有利。しかし、我が鉄砲隊が柵を築けば、敵の突撃も封じられましょう」
伯父上は一瞬だけ目を細めると、低く命じた。
「光秀、その案で進めろ。柴田と丹羽には騎馬の迎撃を任せる。儂は中央で総指揮を執る」
私は、ふと母上に問うた。
「母上……鉄砲というのは、そんなにも騎馬を倒せるものなのですか?」
母上様は微笑まずに、静かに答えた。
「遠くから敵を打ち倒す武器。騎馬とて、火縄銃の雨には抗えないわ。数が揃えばなおさら……」
私は火縄銃に興味を覚えていた。遠距離から敵を撃ち伏せるその力は、恐ろしくも魅力的だった。
けれど、その力が伯父・信長の手にある限り、私は素直に称賛することができなかった。
そのとき、小姓の太郎左衛門が部屋の隅から一歩進み出て、控えめに口を開いた。
「殿、町の見回りの報告を。忍びらしき者は見当たりませぬが、商人の中に妙な動きをする者がひとり……」
伯父上は鋭く言い放つ。
「ほう、その者を捕らえて問い詰めろ。戦の前に不穏な芽は摘んでおくがよい」
太郎左衛門は慌てて退出していった。
私はその一連のやり取りを見ていたが、胸の奥に微かな苛立ちが灯った。
伯父上にとって、人の命は道具に過ぎぬのではないか——そんな思いが、ふと浮かんでは消える。
やがて軍議が終わり、家臣たちは一礼して退席していく。残された信長は、地図の上に視線を落とし続けていた。
私は母上様に問う。
「伯父上様は……天下をお取りになるおつもりなのですね?」
その問いには、ほんのわずかな棘が混じっていた。
母上は言葉を返さず、私の手をそっと握った。
私はさらに言葉を重ねる。
「もし伯父上様が勝ったら、私たちも……共にその勝利を、祝えるのでしょうか?」
けれど、本当の私は、その問いの答えを求めてなどいなかった。
祝うよりも、いずれ彼に報いる日が来ることを、私は心の奥底で切に願っていたのだ。
母上が、かすかな笑みを浮かべて言った。
「……そうね、茶々。祝えると、いいわね」
その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。
夜。屋敷に戻った私は、母上とお初、お江と共に寝所に入った。
囲炉裏の火が小さくパチリと音を立て、部屋を赤く、穏やかに照らしていた。
「母上様……伯父上様が、武田に勝利する夢を、見たいです」
そう口にしながらも、私が思い描いていたのはまるで逆の情景だった。
——伯父・信長が、敗れ、膝をつく姿。
叶わぬ夢かもしれない。けれど、その一瞬の幻を想像することで、胸の痛みが、ほんの少しだけやわらいだ。
「茶々、良い夢をね」
母上が私の額に手を添え、優しく撫でてくれた。
お初が微かに囁く。
「私も……母上がそばにいてくださるなら、怖くありません」
お江は何も言わず、ただ母上の手を握り締めていた。
私は寝床の端に身を起こし、ふと、窓の外に目をやる。
夜の闇に溶けるように、山の上の岐阜城天守がそびえ立ち、星々が静かに瞬いていた。
風が山肌を撫で、木々がかすかに揺れている音が遠くから届く。
母上の温もりを背に感じながら、私は目を閉じた。
伯父上の勝利を信じるふりをして——
けれど、私の胸の奥には、いつか彼に報いる日を夢見る、炎のような願いが静かに灯っていた。
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