『おかえり、という声がしない夜に』 ―アラフォー独女・奈緒の三千夜記―

本能寺から始める常陸之介寛浩

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第3話『カーテン越しに差すものは』

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 カーテンを開けるのが、少しだけ怖くなっていた。

 朝、目が覚めたとき、最初に視線が向くのは窓だった。
 その向こうに広がる空の色で、一日が決まる気がする。
 だけど今日は、目が覚めても、布団の中でしばらくじっとしていた。
 動く気が起きなかった。

 体が重いとか、頭が痛いとか、そういうことではない。
 ただ、「今日」を迎える準備が、まだできていなかった。

 カーテンの隙間から、うっすらと光が差していた。
 それだけで、なんとなく「外は晴れているのだろう」と察する。

 晴れているなら、洗濯をすればいい。
 掃除も、窓を開けて空気を入れ替えればいい。
 そんなことは、わかっている。

 だけど、今日はどうしても、それができなかった。

 奈緒は、カーテンの前に立ったまま、しばらく動けずにいた。
 握った手が、わずかに汗ばんでいる。
 カーテン一枚。その向こうに、光がある。
 なのに、なぜこんなにも、それを開けるのが億劫なのか、自分でも分からない。

 気合いを入れて、ようやくカーテンをそっと引いた。

 すると──
 窓越しに、真っ青な空が見えた。
 白い雲が、ゆっくり流れていた。
 隣のマンションの屋上に干されたシーツが、風になびいていた。

 世界は、ちゃんと動いていた。
 ただ、それだけのことなのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

 光が、まぶしかった。
 まるで、自分が「取り残されている」ことを、肯定されてしまった気がした。

 奈緒は、カーテンを半分だけ閉じた。
 光が部屋に入りすぎると、自分が溶けてしまいそうで、怖かった。

 パジャマのまま、冷蔵庫を開ける。
 中には、変わらず少しの食材。
 卵はあとひとつ。牛乳は残り少なく、食パンはかたくなっている。

 結局、何も食べずに、お湯をわかすことにした。
 電気ポットが、かちかちと音を立てている間、ソファに腰を下ろす。
 スマホを手に取っても、通知は相変わらずゼロ。
 SNSを開く気にもなれず、ニュースを読む気にもなれない。

 だから、テレビをつけてみた。
 ちょうど朝の情報番組が流れていた。
 爽やかな司会者が笑っていて、街頭インタビューでは「いい天気ですね!」と声が上がっていた。

 ──そうだろうね、と奈緒は小さくつぶやいた。

 そこには、自分はいない。
 街頭にも、朝の爽やかさにも、晴れた青空にも、自分は含まれていない。

 “カーテン越しに差すもの”は、光なんかじゃなかった。
 それは、まるで「あなたには関係のない世界ですよ」と語りかけてくるような、静かな断絶だった。

 ポットのスイッチが「カチッ」と音を立てて切れる。

 奈緒は立ち上がり、マグカップに湯を注ぐ。
 今日は何も入れない。ティーバッグもなし。ただの白湯。
 それを、ゆっくりすすりながら、窓のほうに目をやる。

 半分閉じたカーテンの隙間から、ベランダの手すりが見えた。
 雨が続いたせいで、少し黒ずんでいる。
 そこに、小さな影が乗っていた。
 スズメだった。
 一羽のスズメが、ちょこんととまり、羽をふくらませて、しばらく動かなかった。

 奈緒は、その姿を見て、ほんのわずかだけ、心が揺れた。
 「誰にも気づかれずにいる」という点では、あの鳥も、自分と似ているかもしれないと思った。

 けれど──
 あのスズメには、飛ぶ力がある。
 彼女には、もうない。

 今の自分が何かを「始める」には、あまりにも足りないものが多すぎた。
 気力も、体力も、情熱も。
 そしてなにより、「理由」がなかった。

 何かをする理由が、どこにもない。
 そして、それを誰にも説明しなくていい生活が、思いのほか長く続いている。

 そのことが、少しずつ、奈緒の中の“輪郭”を削っていっている。

 スマホがブルッと震えた。
 久しぶりの通知だった。
 思わず手に取って、画面を見る。

 ──アプリからの広告通知だった。
 「生前整理のススメ」
 「ひとり暮らし向け終活ガイド」
 そういったキーワードが並んでいた。

 奈緒は、無言で通知を削除した。
 すぐに画面が元の無音へと戻る。
 それが、なんだか“現実”というもののような気がした。

 今日も、たぶんどこにも行かない。
 誰にも会わず、何もせず、ただ一日が終わっていく。
 でも──
 それでも、窓の向こうには、風が吹いている。

 スズメはもういなかった。
 いつのまにか飛び立ったらしい。
 残されたのは、ほんの少しの羽毛と、冷たい光だけ。

 奈緒は、再びカーテンを閉じた。
 半分だけだったはずの隙間も、今はもう必要なかった。
 光は、今日の奈緒には、少し強すぎた。

 部屋の中に、ふたたび静けさが戻る。
 白湯のぬるさだけが、かろうじて彼女を繋ぎとめていた。
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