【完結】バッドトリップ【R18】

古都まとい

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2章(4)

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 頬の腫れがなかなか引かず、はるはパートを一週間休むことになった。口を開けるのすら億劫で、もごもごと休ませてほしいと語る晴を、パート先の店長はどう思っただろう。気遣わしげな「お大事に」という言葉には、色々な意味が込められているような気がした。
 パート先はもちろん、晴は腫れが引くまで外出することすら許されなかった。一幸かずゆきにも、顔を腫らした妻が外へ出るのはまずいと思うくらいの分別はあるのだろう。だったら手を上げなければよいのに、と思うのにどうやらその自制はきかないようだ。

 自分の中で、日に日に一幸への反発心が大きくなっていることを感じる。前は一幸に怯えてばかりいて、反抗しようなどとは露ほども思わなかった。いまも目に見えてなにか行動を起こせるわけではないが、あきらかに以前の自分とは心持ちがちがうという自覚がある。

 ――晴のことを大事にしないクズ旦那なんてさ、殺しちゃえばいいじゃん。

 じんの言葉が、晴の心を捉えて離さない。
 わかっている。どんな理由があれ、人を殺してはいけない。これでも真面目に生きてきたつもりだ。人に迷惑をかけないこと、警察のお世話にならないこと。母の当たり前すぎる教えは、いまでもしっかりと晴の心に残っている。

 でも、どうしても、夢を見てしまうのはいけないことだろうか?
 世間体を気にする一幸が、あっさりと離婚してくれるとは思えない。一幸も義両親も、早く晴に子どもを産ませようと躍起になっている。子どもさえいれば、簡単に離婚はできないし、名村家に縛り付けておけると思っているのだ。

 家の中でじっと考えを巡らせていると、風は晴に有利なほうへ吹いているような気がしてきた。一幸が自身の問題を認め、不妊の原因を治療しない限り、晴が妊娠する可能性はほとんどゼロに近いだろう。
 一幸を溺愛し、初孫を待ちわびている義両親からすれば、一幸が「不妊の原因は晴にある」と一言言えば子どもを産めない晴を名村家から追い出すことだって有り得る。

 それまで、あと何年待てばいい?
 あと何年耐えれば、解放される?


◇ ◇ ◇


「無精子症?」

 黙って部下の報告を聞いていたじんは、思わず声を上げた。
 新しい部下は必要最低限しか喋らない。口を引き結んで、こくりとうなずく。

「本当に、名村一幸なむらかずゆきの検査結果で間違いないのか?」

 部下はまたしても、うなずいただけだった。
 静の中でようやく、はるが見せたぎこちない笑みが腑に落ちる。晴はきっと、不妊の原因が夫にあることに気づいているのだ。それで、静が子どもの話をした時に妙な顔を見せた。それ以上触れられたくないというような、あいまいな拒絶だった。

「どうします、沈大人シェンターレン

 呼びかけられて、静は部下の顔を見る。能面を貼り付けたような、立体感と色彩に欠ける顔。彼に表情といったものがあるのかすら、疑わしい。
 母はこういう男が好きだったな、と静はふと思い出した。いまとなっては、どうでもいいことだが。

名村晴なむらはるはここ四日、出勤していないようです。店長の話では『階段から落ちて転んだと聞いている』とのことですが」
「寝室の盗聴器はどうだった」
「四日前の深夜に、殴打音が録音されています。聞きますか?」
「いや、いい」

 静は考えを巡らせるように、ゆっくりとソファに身を沈ませた。風向きを間違えてはいけない。確実にこちらへ風が吹いている時に踏み込まなければ、すべては水の泡となって消える。
 本当は今すぐにでも、晴を手に入れたい。やわらかな身体にこれ以上傷が付かないように、誰も手の届かないところへ攫って、閉じ込めてしまいたい。

「まだ、早い」

 静は独り言のように、口の中で呟く。
 まだ晴は完全にこちらへ傾いたわけではない。種はまいた。水もやった。いまはまだ、芽吹いたばかりだ。美しい花を咲かせるには、あとひと押しが足りない。

 名村一幸や自身の置かれた環境に対する絶望が大きければ大きいほど、晴は静に縋って助けを乞うだろう。彼女のすべてを余すことなく手に入れるためには、もっと時間が必要だ。名村一幸にはもっと、晴を痛めつけてもらわないと困る。

 その絶望がはち切れんばかりに育ち、すべてを失った彼女が、わずかな希望に縋って静に手を伸ばすまで。
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