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26.ミーシャ
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はらはらと落ちる涙は頬を濡らし、レスターの指によって丁寧に拭われる。
「女は苦しんでいる姿が一番美しい……苦痛に濡れたその瞳を、永遠のものにしたい……」
混じりけのない狂気が、アルマの精神を蝕む。理解などできないし、したくもない。
アルマはゆるゆると首を振る。
「そのために母や、ドルシーさんを殺したっていうんですか」
「殺すなんてとんでもない! 私はただ、美しいものを美しいままに残しておきたいだけなんですよ」
足元から震えが這い上がってくる。
「分かるでしょう? 苦痛に塗れた女を手に入れるためなら、私はなんだってする! 墓守の君だって見てきたはずですよ、天にも昇るあの至上の美しさを……」
アルマの脳裏に、今まで埋葬してきた遺体たちの記憶がよみがえる。アルマの管理する墓地に送られてくる遺体は、安らかに眠った者が少ない。貧民窟で襲われた末に殺された遺体や、飢えて骨と皮だけになった遺体など、見るに堪えない形相の者が多かった。目を見開いた苦悶の表情のまま、墓地の入口に打ち捨てられた遺体も数知れない。アルマは一度たりとも、それを美しいと思ったことがなかった。
レスターの朗読劇は続く。
「君も、私のコレクションに加えましょう。フィオラの瞳と一緒に、並べましょうね」
エメラルドが四つ、とレスターは歌うように言う。
アルマの首に、レスターの両手がかかる。抵抗しなければ、そう思うのに指先ひとつ、ぴくりとも動かない。アルマを見下ろすレスターの瞳が狂喜に染まる。ゆっくりといたぶるように、じわじわと首を絞められ、苦しさに視界が滲む。自分の意思とは関係なく、酸素を求めて口がはくはくと動く。
「さあ、もっと見せて……! その瞳が濁るまで、私に!」
レスターから滲み出る狂気や歓びが、アルマを麻痺させる。真相を知ったからには、生きて帰らなければならない。せめてカルナやセリモッドには、真実を伝えなければならない。
「ミー……シャ……」
笛のように細く、かすかな声が漏れる。アルマが手を伸ばした先で、ミーシャの理知的な緑の瞳がきらめいた。
意識を手放す寸前、アルマの視界に白いものが横切る。
「ぐっ……!」
レスターのうめき声と共に、止まっていた空気が一気に流れ出し、アルマの肺を満たした。あまりの濃度と勢いに、膝を折ってせき込む。
「離れろ……!」
顔を上げると、涙で滲む視界が、ミーシャの勇姿を捉えた。
レスターの腕に鋭い牙とたくましい爪を突き立てて、振り回されようが離れまいと必死の形相を見せている。レスターがミーシャを引き剝がそうとするたびに、噛みつかれた腕からポタポタと血が落ちた。
相当深く刺さったらしい牙と爪のせいで、なかなかミーシャを離すことができず、レスターは苛立ちと苦悶の表情を浮かべている。
アルマはさっと入ってきた扉に目を走らせた。逃げるには、またとないチャンスだ。今この瞬間を逃せば、もう外へ出る機会はないかもしれない。
考える。ミーシャを置いて逃げることなど、できようか?
アルマは素早い動作で走り出した。レスターに背を向け、転がるような勢いで体当たりしながら扉を開ける。薄暗い闇と、どこまでも上に伸びる石造りの階段が、アルマの前にそびえ立つ。
「ミーシャ、おいで! 逃げ――」
「このクソ猫が!」
振り返ったアルマが目にしたのは、まさに今、床に打ちつけられたミーシャの姿だった。
レスターは腕から離れないと分かると、ミーシャごと腕を床に叩きつけることで解決を図ったらしい。
全身を打ちつけられたミーシャから、鈍い音が響く。毛皮に包まれて、くぐもった骨の折れる音だった。
その口はなおもレスターの腕を捉えて離さないが、四肢はあらぬ方向に曲がり、緑の瞳も光を宿していなかった。
開け放った扉の前で、アルマは絶望を絞り出すように絶叫する。ミーシャの壊れていく様子と、ステラの死に様がリンクし、アルマは自我を失いかけた。
逃げようにも、足に力が入らない。ここで逃げなければ、ミーシャの活躍を無駄にすることは分かっている。体が言うことを聞かない。肺を押し潰すような痛みと、全身の震えが増していくばかりだ。
ようやくミーシャを引き剥がしたレスターは、ゆっくりとアルマに向き直ろうとし、動きを止めた。黄金に輝く瞳が、ミーシャを凝視する。
息絶えたはずのミーシャは、ゆるやかに変化をはじめていた。やわらかな白い毛が、みるみるうちに緑青色の鱗に覆われていく。まるで別の生物に生まれ変わっていくようだ。バラバラの方向に折れ曲がっていた四肢は、ゆっくりと形を変え、そのうちに消失する。
ミーシャが猫であったことを忘れるほどの衝撃と、作り変えられていく過程に目を見張る。
アルマとレスターが息を詰めて見つめるなか、完成したのは猫ではなく、両手で抱きかかえられそうなほどの小さな竜だった。
猫のミーシャだった頃と変わらない緑の瞳に光が宿り、大儀そうに背中の黒い翼が上下に羽ばたきはじめる。愛らしかった顔も、ふわふわの毛も、どこにも跡形がない。堅い鱗はランタンの光を受けて鈍く輝き、金属や宝石を思わせるきらめきを放つ。
「使い魔か……!」
レスターが愕然と呟く。そしてレスターもまた、ミーシャに噛まれた傷跡から黒い鱗が噴出し、腕を埋め尽くそうとしていた。
「お前が使い魔に気づかないなんて、獲物を前に気が急いたか?」
「女は苦しんでいる姿が一番美しい……苦痛に濡れたその瞳を、永遠のものにしたい……」
混じりけのない狂気が、アルマの精神を蝕む。理解などできないし、したくもない。
アルマはゆるゆると首を振る。
「そのために母や、ドルシーさんを殺したっていうんですか」
「殺すなんてとんでもない! 私はただ、美しいものを美しいままに残しておきたいだけなんですよ」
足元から震えが這い上がってくる。
「分かるでしょう? 苦痛に塗れた女を手に入れるためなら、私はなんだってする! 墓守の君だって見てきたはずですよ、天にも昇るあの至上の美しさを……」
アルマの脳裏に、今まで埋葬してきた遺体たちの記憶がよみがえる。アルマの管理する墓地に送られてくる遺体は、安らかに眠った者が少ない。貧民窟で襲われた末に殺された遺体や、飢えて骨と皮だけになった遺体など、見るに堪えない形相の者が多かった。目を見開いた苦悶の表情のまま、墓地の入口に打ち捨てられた遺体も数知れない。アルマは一度たりとも、それを美しいと思ったことがなかった。
レスターの朗読劇は続く。
「君も、私のコレクションに加えましょう。フィオラの瞳と一緒に、並べましょうね」
エメラルドが四つ、とレスターは歌うように言う。
アルマの首に、レスターの両手がかかる。抵抗しなければ、そう思うのに指先ひとつ、ぴくりとも動かない。アルマを見下ろすレスターの瞳が狂喜に染まる。ゆっくりといたぶるように、じわじわと首を絞められ、苦しさに視界が滲む。自分の意思とは関係なく、酸素を求めて口がはくはくと動く。
「さあ、もっと見せて……! その瞳が濁るまで、私に!」
レスターから滲み出る狂気や歓びが、アルマを麻痺させる。真相を知ったからには、生きて帰らなければならない。せめてカルナやセリモッドには、真実を伝えなければならない。
「ミー……シャ……」
笛のように細く、かすかな声が漏れる。アルマが手を伸ばした先で、ミーシャの理知的な緑の瞳がきらめいた。
意識を手放す寸前、アルマの視界に白いものが横切る。
「ぐっ……!」
レスターのうめき声と共に、止まっていた空気が一気に流れ出し、アルマの肺を満たした。あまりの濃度と勢いに、膝を折ってせき込む。
「離れろ……!」
顔を上げると、涙で滲む視界が、ミーシャの勇姿を捉えた。
レスターの腕に鋭い牙とたくましい爪を突き立てて、振り回されようが離れまいと必死の形相を見せている。レスターがミーシャを引き剝がそうとするたびに、噛みつかれた腕からポタポタと血が落ちた。
相当深く刺さったらしい牙と爪のせいで、なかなかミーシャを離すことができず、レスターは苛立ちと苦悶の表情を浮かべている。
アルマはさっと入ってきた扉に目を走らせた。逃げるには、またとないチャンスだ。今この瞬間を逃せば、もう外へ出る機会はないかもしれない。
考える。ミーシャを置いて逃げることなど、できようか?
アルマは素早い動作で走り出した。レスターに背を向け、転がるような勢いで体当たりしながら扉を開ける。薄暗い闇と、どこまでも上に伸びる石造りの階段が、アルマの前にそびえ立つ。
「ミーシャ、おいで! 逃げ――」
「このクソ猫が!」
振り返ったアルマが目にしたのは、まさに今、床に打ちつけられたミーシャの姿だった。
レスターは腕から離れないと分かると、ミーシャごと腕を床に叩きつけることで解決を図ったらしい。
全身を打ちつけられたミーシャから、鈍い音が響く。毛皮に包まれて、くぐもった骨の折れる音だった。
その口はなおもレスターの腕を捉えて離さないが、四肢はあらぬ方向に曲がり、緑の瞳も光を宿していなかった。
開け放った扉の前で、アルマは絶望を絞り出すように絶叫する。ミーシャの壊れていく様子と、ステラの死に様がリンクし、アルマは自我を失いかけた。
逃げようにも、足に力が入らない。ここで逃げなければ、ミーシャの活躍を無駄にすることは分かっている。体が言うことを聞かない。肺を押し潰すような痛みと、全身の震えが増していくばかりだ。
ようやくミーシャを引き剥がしたレスターは、ゆっくりとアルマに向き直ろうとし、動きを止めた。黄金に輝く瞳が、ミーシャを凝視する。
息絶えたはずのミーシャは、ゆるやかに変化をはじめていた。やわらかな白い毛が、みるみるうちに緑青色の鱗に覆われていく。まるで別の生物に生まれ変わっていくようだ。バラバラの方向に折れ曲がっていた四肢は、ゆっくりと形を変え、そのうちに消失する。
ミーシャが猫であったことを忘れるほどの衝撃と、作り変えられていく過程に目を見張る。
アルマとレスターが息を詰めて見つめるなか、完成したのは猫ではなく、両手で抱きかかえられそうなほどの小さな竜だった。
猫のミーシャだった頃と変わらない緑の瞳に光が宿り、大儀そうに背中の黒い翼が上下に羽ばたきはじめる。愛らしかった顔も、ふわふわの毛も、どこにも跡形がない。堅い鱗はランタンの光を受けて鈍く輝き、金属や宝石を思わせるきらめきを放つ。
「使い魔か……!」
レスターが愕然と呟く。そしてレスターもまた、ミーシャに噛まれた傷跡から黒い鱗が噴出し、腕を埋め尽くそうとしていた。
「お前が使い魔に気づかないなんて、獲物を前に気が急いたか?」
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