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第9錠
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目が覚めた時、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
見慣れない天井に、いつもと質感のちがうシーツ。固さのちがうマットレス。
そして、いるはずのない人の気配。
「あ、起きましたか」
純平がゆっくりとベッドで身体を起こすと、キッチンのほうからマグカップを両手に持った水瀬がやってきた。
辺りを見回す。自分の部屋ではない。綺麗に整頓されていて、ほんのりと生活感の漂う部屋。
「ここは俺の家ですよ」
水瀬がマグカップをテーブルに置きながら言った。ふんわりとコーヒーの香りが漂ってくる。
枕元を探ると、自分のスマホを発見した。画面をタップし、時間を確認する。月曜日の朝六時。
「どうして……」
必死に記憶を探り当てる。昨夜はすこし疲れていて、二十二時頃に処方された薬を飲み、ベッドに入った。ベッドに入ってスマホを見ていると五分もしないうちに眠気がやってきて、純平は眠ったはずだった。
それが今、水瀬の家にいる。自分は眠ったのではななかったか? まだ夢の続きを見ているというのか?
水瀬がコーヒーを一口啜り、こちらを見た。
「昨日の夜中、佐野さんが急に家に来たんです。経緯はメッセージアプリを見てもらえたらわかるかと」
水瀬に言われ、メッセージアプリを開く。自分が送ったメッセージを見て愕然とする。こんなこと、言った覚えがない。しかも時間も真夜中だ。自分は寝ていたはず。
ベッドで起き上がったまま、頭を抱えた。自分の身体が、頭が、どうにかなっている。自分の知らないところで、自分が動いている。
「隣、座っても?」
「あ、はい……」
水瀬の穏やかな声につられて、純平は彼が座れるようにすこし場所を移動した。
水瀬がマグカップを持ったまま、ベッドに腰かける。彼の体重でベッドがすこし軋む。
「佐野さんに現れているのは、健忘の副作用だと思います」
「健忘……?」
「睡眠導入剤を飲むとたまに健忘の副作用が現れる人がいるんですよ。自分は眠っているはずなのに、なにか行動を起こしている。たとえば冷蔵庫の中のものを勝手に食べていたり、知らない間に高額な買い物をしていたり――」
純平はうつむく。薬の副作用だとしても、自分は水瀬に迷惑をかけてしまった。まさか夜中に家にまで押しかけるなんて。記憶がなくても、罪悪感は消えない。むしろ記憶にないからこそ水瀬になにか失礼なことをしたり、言ったりしたのではないかと思って怖くて仕方がないのだ。
「すみません、迷惑かけて」
純平は素直に頭を下げた。できることなら水瀬に怒ってもらいたかった。
「薬は変えたほうがいいかもしれませんね。俺のところに来るのは大歓迎ですが、記憶がないうちに佐野さんが事故に遭ったりなんかしたら困りますから」
水瀬はどこまでも優しい。けれど、今はその優しさが痛い。
純平はベッドから抜け出すと、床に放り出してあった自分のリュックを手に取った。なるべく水瀬の顔を見ないようにして、玄関まで一直線に向かう。
「佐野さん?」
「本当に、迷惑かけてすみませんでした。もう水瀬さんには近づきませんから」
「え、ちょっと――」
水瀬の言葉を最後まで聞かずに純平は玄関から飛び出した。まだ昇りはじめたばかりの朝日が容赦なく顔面に降り注ぐ。
『水瀬さんに会いたくて』
いくら薬の副作用だったとしても、あんなこと言ってはいけなかった。水瀬は自分の扱いに困ったはずだ。彼は仕事上必要だから、自分と関わってくれているだけで。純平と個人的に親しくなりたいなんて微塵も思っていないはず。
それに――水瀬は自分のことをどこまで知っているのだろうか? 記憶のないうちに自分がカミングアウトした可能性を考える。水瀬に彼女がいたら? 結婚を考えている人がいたら? やっぱり自分は邪魔者でしかない。
まだ人もすくない電車に乗って、純平は一度自分の家に戻った。
熱いシャワーを浴び、服を着替える。食欲はなくて、朝食はパスした。
昨夜のまま、変わらないテーブルの上を見る。空になった錠剤のシート。こいつのせいで、自分の記憶はぐちゃぐちゃになったのだ。
やっぱり薬なんて飲むべきじゃなかった。純平はまだ手つかずの錠剤シートもまとめて手に取った。そしてそれらをゴミ箱に突っ込む。
薬がなくなったらまた眠れない日々がはじまるかもしれない。それでも、記憶をなくすより、水瀬に迷惑をかけるよりマシだ。人間、何日も眠れなければそのうち限界を迎えて勝手に眠くなるだろう。その時を待てばいいだけだ。
薬を捨てたからといって、自分が記憶をなくした事実は変わらない。けれど、心は幾分かすっきりした。月曜日の朝にしては、上出来の気分だ。
出勤前にもう一度、メッセージアプリをチェックする。昨夜、水瀬以外にメッセージを送ったりして迷惑をかけた人がいないか確認する。冷蔵庫を覗いて、夜中のうちに食べたり飲んだりしたものがないか確認する。大丈夫そうだ。
家を出る直前、スマホが震えた。メッセージの通知を見て、純平は確認するべきか迷う。メッセージの送り主が水瀬だったからだ。
しばし迷ってから、純平はひとつ息を整えて玄関でメッセージアプリを開いた。そして記憶をなくした自分の行いを、心の底から後悔することになった。
『昨日聞いたことは、全部俺の胸の中にしまっておきます。でも、ひとつだけ言うなら俺も佐野さんと同じ、同性愛者です』
見慣れない天井に、いつもと質感のちがうシーツ。固さのちがうマットレス。
そして、いるはずのない人の気配。
「あ、起きましたか」
純平がゆっくりとベッドで身体を起こすと、キッチンのほうからマグカップを両手に持った水瀬がやってきた。
辺りを見回す。自分の部屋ではない。綺麗に整頓されていて、ほんのりと生活感の漂う部屋。
「ここは俺の家ですよ」
水瀬がマグカップをテーブルに置きながら言った。ふんわりとコーヒーの香りが漂ってくる。
枕元を探ると、自分のスマホを発見した。画面をタップし、時間を確認する。月曜日の朝六時。
「どうして……」
必死に記憶を探り当てる。昨夜はすこし疲れていて、二十二時頃に処方された薬を飲み、ベッドに入った。ベッドに入ってスマホを見ていると五分もしないうちに眠気がやってきて、純平は眠ったはずだった。
それが今、水瀬の家にいる。自分は眠ったのではななかったか? まだ夢の続きを見ているというのか?
水瀬がコーヒーを一口啜り、こちらを見た。
「昨日の夜中、佐野さんが急に家に来たんです。経緯はメッセージアプリを見てもらえたらわかるかと」
水瀬に言われ、メッセージアプリを開く。自分が送ったメッセージを見て愕然とする。こんなこと、言った覚えがない。しかも時間も真夜中だ。自分は寝ていたはず。
ベッドで起き上がったまま、頭を抱えた。自分の身体が、頭が、どうにかなっている。自分の知らないところで、自分が動いている。
「隣、座っても?」
「あ、はい……」
水瀬の穏やかな声につられて、純平は彼が座れるようにすこし場所を移動した。
水瀬がマグカップを持ったまま、ベッドに腰かける。彼の体重でベッドがすこし軋む。
「佐野さんに現れているのは、健忘の副作用だと思います」
「健忘……?」
「睡眠導入剤を飲むとたまに健忘の副作用が現れる人がいるんですよ。自分は眠っているはずなのに、なにか行動を起こしている。たとえば冷蔵庫の中のものを勝手に食べていたり、知らない間に高額な買い物をしていたり――」
純平はうつむく。薬の副作用だとしても、自分は水瀬に迷惑をかけてしまった。まさか夜中に家にまで押しかけるなんて。記憶がなくても、罪悪感は消えない。むしろ記憶にないからこそ水瀬になにか失礼なことをしたり、言ったりしたのではないかと思って怖くて仕方がないのだ。
「すみません、迷惑かけて」
純平は素直に頭を下げた。できることなら水瀬に怒ってもらいたかった。
「薬は変えたほうがいいかもしれませんね。俺のところに来るのは大歓迎ですが、記憶がないうちに佐野さんが事故に遭ったりなんかしたら困りますから」
水瀬はどこまでも優しい。けれど、今はその優しさが痛い。
純平はベッドから抜け出すと、床に放り出してあった自分のリュックを手に取った。なるべく水瀬の顔を見ないようにして、玄関まで一直線に向かう。
「佐野さん?」
「本当に、迷惑かけてすみませんでした。もう水瀬さんには近づきませんから」
「え、ちょっと――」
水瀬の言葉を最後まで聞かずに純平は玄関から飛び出した。まだ昇りはじめたばかりの朝日が容赦なく顔面に降り注ぐ。
『水瀬さんに会いたくて』
いくら薬の副作用だったとしても、あんなこと言ってはいけなかった。水瀬は自分の扱いに困ったはずだ。彼は仕事上必要だから、自分と関わってくれているだけで。純平と個人的に親しくなりたいなんて微塵も思っていないはず。
それに――水瀬は自分のことをどこまで知っているのだろうか? 記憶のないうちに自分がカミングアウトした可能性を考える。水瀬に彼女がいたら? 結婚を考えている人がいたら? やっぱり自分は邪魔者でしかない。
まだ人もすくない電車に乗って、純平は一度自分の家に戻った。
熱いシャワーを浴び、服を着替える。食欲はなくて、朝食はパスした。
昨夜のまま、変わらないテーブルの上を見る。空になった錠剤のシート。こいつのせいで、自分の記憶はぐちゃぐちゃになったのだ。
やっぱり薬なんて飲むべきじゃなかった。純平はまだ手つかずの錠剤シートもまとめて手に取った。そしてそれらをゴミ箱に突っ込む。
薬がなくなったらまた眠れない日々がはじまるかもしれない。それでも、記憶をなくすより、水瀬に迷惑をかけるよりマシだ。人間、何日も眠れなければそのうち限界を迎えて勝手に眠くなるだろう。その時を待てばいいだけだ。
薬を捨てたからといって、自分が記憶をなくした事実は変わらない。けれど、心は幾分かすっきりした。月曜日の朝にしては、上出来の気分だ。
出勤前にもう一度、メッセージアプリをチェックする。昨夜、水瀬以外にメッセージを送ったりして迷惑をかけた人がいないか確認する。冷蔵庫を覗いて、夜中のうちに食べたり飲んだりしたものがないか確認する。大丈夫そうだ。
家を出る直前、スマホが震えた。メッセージの通知を見て、純平は確認するべきか迷う。メッセージの送り主が水瀬だったからだ。
しばし迷ってから、純平はひとつ息を整えて玄関でメッセージアプリを開いた。そして記憶をなくした自分の行いを、心の底から後悔することになった。
『昨日聞いたことは、全部俺の胸の中にしまっておきます。でも、ひとつだけ言うなら俺も佐野さんと同じ、同性愛者です』
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