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1章(1)
「殺すんだろう、俺を」
目を閉じた。聞きたいことは山ほどあったが、なにも聞く気になれなかった。
深く息を吸い込み、そして吐き出す。
「李藍豪」
透き通った低音が、藍豪の名を呼ぶ。
ぎしり、と寝台の軋む音がして、目を開ける。
すぐ近くに、類の顔があった。わずかな憂いの残る美しい顔に微笑みを浮かべて、類は藍豪の顔の両脇に手をつく。
藍豪の顔に濃い影が落ちる。
「僕はあなたをずっと、殺したいほど憎んで――でも、愛してきました」
愛を囁くにはふさわしくない、激しい憎悪を顔に浮かべて。
類は藍豪の首に、手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
香港最大のスラム街、九龍街区。ここは中国政府が匙を投げた無法地帯だ。
三階建てのアパートの上に、さらに五階建てのアパートを積み上げるような違法建築が乱立する街でもある。アパート同士は倒壊を恐れるように密接に寄り添い合い、上へ上へと伸び続けている。
巷では法も秩序も存在しない街などと言われているが、そんなことはない。匙を投げた政府に代わって、アパートの住人たちの間で自然と自警団が結成され、最低限のモラルは守られている。外の人々が思うほど窃盗や殺人といった類のものは起こらないし、不便があるとしたら異常な人口密集率から引き起こされる部屋の狭さ、密集した高層建築ゆえの日照不足、インフラ整備の遅れくらいである。
住めば都とまでは言わないが、ぎりぎり人が住めなくもない。それが九龍街区という場所だ。
李藍豪はその高すぎる違法建築群アパートの間を縫って、のっそりと歩いていた。
今朝整えたはずの黒髪はボサボサで、視界を遮るように目にかかっている。躰は鉛のように重く、先ほどからもう一歩も歩けないと思いながら、それでもなんとか歩を進めている。満身創痍とはまさにこのことで、呼吸をするたびに喉と肺がきりきりと痛んだ。
人手が足りないから来てほしいと言われて行ったはいいが、結果は散々だった。てっきりほんの一、二時間で終わると思ったものが、なにがなんだかわからないまま山奥に連れて行かれ、説明もなしに業務を振り分けられた。帰りも渋滞にはまり、気づけば家を出てから十二時間以上たっている。
藍豪はいくら上司の頼みとあってもこんな仕事は二度と請けないと心に決めて、真っ暗闇の帰路についた。躰も心も、ぐったりと疲れ切っていた。
両脇に乱立する高すぎるアパートを見て、うんざりする。藍豪の部屋は七階にあるため、これから気が遠くなるほど階段を登らなければならない。電気や水道といったインフラ整備が遅れている九龍街区のアパートに、エレベーターなんて便利なものは存在しない。信じられるのは己の脚力だけだ。
藍豪が入居した時は七階が最上階だったが、今ではその二倍の十四階が最上階だ。これ以上は大きくならないと言われているが、毎年増築されるたびに言われていることであるから信用には値しない。
藍豪が死ぬ頃には五十階建てになっているか、下の階から順に重みで潰れていって五階建てくらい落ち着いているかのどちらかだろう。
藍豪は汚物と生ゴミでぬるついた細い路地を通り抜けると、コンクリートがむき出しの階段を登りはじめた。一歩がとてつもなく重い。一段の高さが倍になったように感じる。
登っても登っても終わりが見えないようで、藍豪は一度、三階で立ち止まった。
三階の細い廊下にはびっちりと扉が並んでいるが、どれもこれも開け放たれていて廊下を埋め尽くすように手書きの看板が立ち並んでいる。どうしてそうなったかはわからないが、なぜか三階の住人は皆、食品を扱う店をやっている。もちろん、衛生法による営業許可など受けていない。九龍街区に住むような人間が、食品衛生など気にするわけもないが。
「しけた面してんねぇ、仕事帰りかい?」
階段に一番近い部屋から、ひょっこりと中年の女性が顔を出す。
時刻はすでに二十三時だというのに、女性は今起きたのではないかと思うほど溌剌としていて、丸い顔は汗と脂でテカテカに光っている。鼻の頭のところによれたファンデーションが固まっていて、なにもはじめからすっぴんというわけではなかったのだな、と藍豪はうっすら思った。
「どう、肉団子? 夕食もまだだろう?」
「ネズミ入りじゃなければ買うよ」
藍豪の言い草に、女性がふんっと鼻を鳴らす。
「人聞き悪いこと言わないでおくれ。うちは豚しか使ってないよ」
「ここの肉団子屋はネズミが三割って聞いたけどな」
藍豪はそう言って階段の踊り場からふらふらと廊下へ移動した。
開け放たれた扉から女性の部屋を覗くと、部屋の大半が調理道具で占領されていた。元々そう広い部屋ではない。入り口のすぐ近くに大きな中華鍋が置かれ、その鍋の中でぐつぐつと肉団子が煮られている。中華鍋の隣に水色の三十リットルバケツが置かれ、冷えた肉団子が詰め込まれていた。
中華鍋のすぐそばに汗の染みた布団が敷かれているところが、さすが九龍街区といったところだろう。街区外の料理店で厨房に布団が敷かれている店など見たことがない。部屋の中で厨房と居室が渾然一体となっている。
藍豪はズボンのポケットからくしゃくしゃになった紙幣を一枚取り出すと、ずっと手を出して待ち構えていた女性に握らせた。紙幣を見た女性がお釣りを準備しようと奥に引っ込むのを目で制す。
「それで買える分だけくれ。釣りをもらうのも面倒なんだ」
女性は藍豪と紙幣を交互に見つめて怪訝な顔をしたが、やがて紙幣を放って青いビニール手袋に両手を押し込んだ。
水色のバケツに山と盛られた赤子の拳ほどもある大きな肉団子を、女性は無造作に掴み取って透明なビニール袋に詰めている。藍豪を見立てでは五、六個ほど買えるだろうと思っていたが、差し出された袋は口が閉まらないほどパンパンに肉団子が詰め込まれていた。
手渡されると、余計ずっしりとした重みを感じる。三日ほどは肉団子生活になりそうだ。
藍豪はお礼もそこそこに踵を返した。夕食を手にしたら、後はひたすら自分の部屋を目指して階段を登るしかない。
途中で五階の薬局に寄って薬を買おうと思ったが、やめた。この時間に開いているとは思えない。薬が買えないとわかると、それまで気にしていなかった頬の火傷痕が急に疼き出すような気がした。今日は仰向けか、右向きにしか眠れなさそうだ。
藍豪は重たい肉団子の袋に悪態をつきながら、のろのろと暗い階段を登り続けた。
目を閉じた。聞きたいことは山ほどあったが、なにも聞く気になれなかった。
深く息を吸い込み、そして吐き出す。
「李藍豪」
透き通った低音が、藍豪の名を呼ぶ。
ぎしり、と寝台の軋む音がして、目を開ける。
すぐ近くに、類の顔があった。わずかな憂いの残る美しい顔に微笑みを浮かべて、類は藍豪の顔の両脇に手をつく。
藍豪の顔に濃い影が落ちる。
「僕はあなたをずっと、殺したいほど憎んで――でも、愛してきました」
愛を囁くにはふさわしくない、激しい憎悪を顔に浮かべて。
類は藍豪の首に、手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
香港最大のスラム街、九龍街区。ここは中国政府が匙を投げた無法地帯だ。
三階建てのアパートの上に、さらに五階建てのアパートを積み上げるような違法建築が乱立する街でもある。アパート同士は倒壊を恐れるように密接に寄り添い合い、上へ上へと伸び続けている。
巷では法も秩序も存在しない街などと言われているが、そんなことはない。匙を投げた政府に代わって、アパートの住人たちの間で自然と自警団が結成され、最低限のモラルは守られている。外の人々が思うほど窃盗や殺人といった類のものは起こらないし、不便があるとしたら異常な人口密集率から引き起こされる部屋の狭さ、密集した高層建築ゆえの日照不足、インフラ整備の遅れくらいである。
住めば都とまでは言わないが、ぎりぎり人が住めなくもない。それが九龍街区という場所だ。
李藍豪はその高すぎる違法建築群アパートの間を縫って、のっそりと歩いていた。
今朝整えたはずの黒髪はボサボサで、視界を遮るように目にかかっている。躰は鉛のように重く、先ほどからもう一歩も歩けないと思いながら、それでもなんとか歩を進めている。満身創痍とはまさにこのことで、呼吸をするたびに喉と肺がきりきりと痛んだ。
人手が足りないから来てほしいと言われて行ったはいいが、結果は散々だった。てっきりほんの一、二時間で終わると思ったものが、なにがなんだかわからないまま山奥に連れて行かれ、説明もなしに業務を振り分けられた。帰りも渋滞にはまり、気づけば家を出てから十二時間以上たっている。
藍豪はいくら上司の頼みとあってもこんな仕事は二度と請けないと心に決めて、真っ暗闇の帰路についた。躰も心も、ぐったりと疲れ切っていた。
両脇に乱立する高すぎるアパートを見て、うんざりする。藍豪の部屋は七階にあるため、これから気が遠くなるほど階段を登らなければならない。電気や水道といったインフラ整備が遅れている九龍街区のアパートに、エレベーターなんて便利なものは存在しない。信じられるのは己の脚力だけだ。
藍豪が入居した時は七階が最上階だったが、今ではその二倍の十四階が最上階だ。これ以上は大きくならないと言われているが、毎年増築されるたびに言われていることであるから信用には値しない。
藍豪が死ぬ頃には五十階建てになっているか、下の階から順に重みで潰れていって五階建てくらい落ち着いているかのどちらかだろう。
藍豪は汚物と生ゴミでぬるついた細い路地を通り抜けると、コンクリートがむき出しの階段を登りはじめた。一歩がとてつもなく重い。一段の高さが倍になったように感じる。
登っても登っても終わりが見えないようで、藍豪は一度、三階で立ち止まった。
三階の細い廊下にはびっちりと扉が並んでいるが、どれもこれも開け放たれていて廊下を埋め尽くすように手書きの看板が立ち並んでいる。どうしてそうなったかはわからないが、なぜか三階の住人は皆、食品を扱う店をやっている。もちろん、衛生法による営業許可など受けていない。九龍街区に住むような人間が、食品衛生など気にするわけもないが。
「しけた面してんねぇ、仕事帰りかい?」
階段に一番近い部屋から、ひょっこりと中年の女性が顔を出す。
時刻はすでに二十三時だというのに、女性は今起きたのではないかと思うほど溌剌としていて、丸い顔は汗と脂でテカテカに光っている。鼻の頭のところによれたファンデーションが固まっていて、なにもはじめからすっぴんというわけではなかったのだな、と藍豪はうっすら思った。
「どう、肉団子? 夕食もまだだろう?」
「ネズミ入りじゃなければ買うよ」
藍豪の言い草に、女性がふんっと鼻を鳴らす。
「人聞き悪いこと言わないでおくれ。うちは豚しか使ってないよ」
「ここの肉団子屋はネズミが三割って聞いたけどな」
藍豪はそう言って階段の踊り場からふらふらと廊下へ移動した。
開け放たれた扉から女性の部屋を覗くと、部屋の大半が調理道具で占領されていた。元々そう広い部屋ではない。入り口のすぐ近くに大きな中華鍋が置かれ、その鍋の中でぐつぐつと肉団子が煮られている。中華鍋の隣に水色の三十リットルバケツが置かれ、冷えた肉団子が詰め込まれていた。
中華鍋のすぐそばに汗の染みた布団が敷かれているところが、さすが九龍街区といったところだろう。街区外の料理店で厨房に布団が敷かれている店など見たことがない。部屋の中で厨房と居室が渾然一体となっている。
藍豪はズボンのポケットからくしゃくしゃになった紙幣を一枚取り出すと、ずっと手を出して待ち構えていた女性に握らせた。紙幣を見た女性がお釣りを準備しようと奥に引っ込むのを目で制す。
「それで買える分だけくれ。釣りをもらうのも面倒なんだ」
女性は藍豪と紙幣を交互に見つめて怪訝な顔をしたが、やがて紙幣を放って青いビニール手袋に両手を押し込んだ。
水色のバケツに山と盛られた赤子の拳ほどもある大きな肉団子を、女性は無造作に掴み取って透明なビニール袋に詰めている。藍豪を見立てでは五、六個ほど買えるだろうと思っていたが、差し出された袋は口が閉まらないほどパンパンに肉団子が詰め込まれていた。
手渡されると、余計ずっしりとした重みを感じる。三日ほどは肉団子生活になりそうだ。
藍豪はお礼もそこそこに踵を返した。夕食を手にしたら、後はひたすら自分の部屋を目指して階段を登るしかない。
途中で五階の薬局に寄って薬を買おうと思ったが、やめた。この時間に開いているとは思えない。薬が買えないとわかると、それまで気にしていなかった頬の火傷痕が急に疼き出すような気がした。今日は仰向けか、右向きにしか眠れなさそうだ。
藍豪は重たい肉団子の袋に悪態をつきながら、のろのろと暗い階段を登り続けた。
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