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1章(3)
霧雨は降っていたが、屋台のそばまで来てみると寒さはそれほど感じなかった。持ち帰って家で食べるより、屋台のそばで食べたほうが暖かそうだと思い直し、把子肉が盛られた丼を抱えて腰を落ち着けそうな場所を探す。
昼食時をすこし過ぎた時間だが、近所の工事現場で働く肉体労働者で屋台通りは繁盛しており、座れそうな場所を見つけるのに時間がかかった。屋台通りの端まで来て、ようやくぽっかりと空席になっているベンチを見つける。
近くの焼きビーフンの屋台から流れてくる熱気と匂いを吸い込みながら、藍豪は白飯の上に鎮座する豚バラの塊に箸を突き立てた。氷砂糖を溶かした油で揚げてから、醤油ベースのタレで煮込まれた豚バラは箸を刺しただけでほろほろと崩れるほど柔らかい。藍豪は豚バラを箸で細かく崩してから、白飯と一緒に一気にかき込む食べ方が好きだった。肉にまとわりついた甘辛いタレだけで、もう一杯白飯が食えるほどの中毒性がある。
ものの五分もしないうちに丼の中身を平らげると、腹の底からぽかぽかと温まってきて怠かった手足にも力が戻ってくる。四日前の仕事で負った左頬の火傷は、痛みも取れて完治を待つだけというところまで回復した。幸い、痕が残るほどひどい火傷ではなかった。
ゴミ箱に丼と箸を突っ込み、また陰気な九龍街区へ戻るために歩き出す。霧雨のせいで髪がしっとりと濡れて、鬱陶しい。腹が満ちてくると今度は風呂に入りたくなる。人間の欲というのは、底なしのようだ。
帰りに銭湯へ寄ったらいいか、と考えているうちに藍豪は九龍街区のじめじめとした細い路地に戻ってきていた。
通り慣れたはずの路地に、見慣れないものがうずくまっている。猫にしてはすこし大きい。仮に大型犬だとしても、人間の服を着て路地のど真ん中を占領している犬はいないだろう。
人間だ、と気づいた瞬間、藍豪は一気に興味を失った。阿片中毒者や物乞いの孤児が路地にうずくまっていることはしょっちゅうである。大抵はいつの間にか場所を移動しているか、そのまま死んでいるかのどちらかだ。香港最大のスラム街である九龍街区において、路地に転がる人間は風景の一部として人々に認識されている。
藍豪はそのまま雨と汚物でぬるついた路地を突き進み、中央に横たわる子どもらしき物体を脚で端へ転がそうとした。
差し込んだ爪先が、ずるっと滑る。くにゃりとした嫌な感覚が、靴から伝わってくる。
藍豪は爪先の位置を変え、そっと物体を転がした。
あどけない小さな顔が目に入る。血と煤で汚れてはいるが、子どもにしてはかなり整った、綺麗な顔だ。雨を吸い込んだ黒髪は短く切りそろえられており、おそらく少年であろうと藍豪は推測する。馬のような鹿のようなよくわからない動物のキャラクターが描かれた長袖のTシャツは、元は白かったのだろうが今は全体的に茶色く汚れていて、さらに腹の辺りは赤く染まっていた。
十歳前後だろうか。九龍街区に住んでいる子どもをすべて把握しているわけではないが、この辺りでは見たことのない顔である。
「おい」
自分でもなにを思ったのか、わからない。けれど藍豪は、子どもから死体になりかけのその物体を見下ろしながら声をかけた。一目見ただけでも腹からの出血がかなりひどいことがわかる。閉じられたまぶたは血管が透き通るほど青白く、薄く開かれた小さな唇には固まった血がこびりついていた。
「やめときな」
ふいに頭上から声をかけられて、顔を上げる。見ると、二階の住人が窓を開けて藍豪を見下ろしていた。
「昨日の夕方にふらふらそこに来て、それっきりさ。もう死んでんじゃないの?」
「いや、まだ生きてるみたいだ」
「あ、そう」
住人は言いたいことだけを言って、ぴしゃりと窓を閉めた。ミスト状の雨に吹きつけられながら、ごみ溜めのような路地に藍豪と死にかけの少年が取り残される。放っておいたら、数時間もしないうちに死ぬだろう。この出血量なら、たとえ藍豪が拾ったとしても今日中の命かもしれない。
小さい頃、姉がよく野良犬を拾ってきては両親に怒られていた。最期まで面倒を見られないのなら、拾って来るなと。
藍豪はもう一度、その綺麗な寝顔のような顔を見てから脇を通り抜けようとした。
一歩踏み出した途端、足音が呼び水となったように少年がうっすらと目を開く。藍豪は思わずその目を見つめ返し、息を呑んだ。
黒とも紫ともつかない、奇妙に美しい瞳の色だった。漆黒のように見えて、ほんのわずかな光の加減で菫のような薄紫の色味が瞳に差している。かと思えばすぐに光をすべて吸い込み、真っ暗闇が広がる。その様子は、藍豪が幼い頃に観た宇宙を撮ったというビデオを思い出させた。地球の外では黒に様々な色が混じり合い、それでも真っ黒を保っているという。
少年の目は、まるで宇宙そのものを体現しているかのように美しく、そして神秘的だった。
血色を失った青白いまぶたがまた、閉じられようとしている。少年の半開きの目に、自分のくたびれた顔が映った。髭を剃り忘れた間抜けな顔が、くしゃりと歪む。
「ああ、クソッ……!」
藍豪は雨と汚物と血でぬめる躰を肩に担いだ。しっかり年齢分の重みがある。九龍街区に住んでいるひょろひょろに痩せた子どもとは、重みが違う。それなりに良い家で育ったようだ。それなのに、なぜ? なぜこんな、野良犬も寄りつかないような汚らしい路地で命を終えようとしている?
九龍街区に住む無免許の医者じゃ話にならない。気は進まない。馬鹿なことをしていることはわかっている。クソみたいに高い金を払ったところで、助かる見込みはほとんどないだろう。
それでも藍豪は少年を担いで、雨で滑る道を駆け抜けた。目指すは吴星宇の屋敷。あそこなら、腕のいい医者を呼んでもらえる。
昼食時をすこし過ぎた時間だが、近所の工事現場で働く肉体労働者で屋台通りは繁盛しており、座れそうな場所を見つけるのに時間がかかった。屋台通りの端まで来て、ようやくぽっかりと空席になっているベンチを見つける。
近くの焼きビーフンの屋台から流れてくる熱気と匂いを吸い込みながら、藍豪は白飯の上に鎮座する豚バラの塊に箸を突き立てた。氷砂糖を溶かした油で揚げてから、醤油ベースのタレで煮込まれた豚バラは箸を刺しただけでほろほろと崩れるほど柔らかい。藍豪は豚バラを箸で細かく崩してから、白飯と一緒に一気にかき込む食べ方が好きだった。肉にまとわりついた甘辛いタレだけで、もう一杯白飯が食えるほどの中毒性がある。
ものの五分もしないうちに丼の中身を平らげると、腹の底からぽかぽかと温まってきて怠かった手足にも力が戻ってくる。四日前の仕事で負った左頬の火傷は、痛みも取れて完治を待つだけというところまで回復した。幸い、痕が残るほどひどい火傷ではなかった。
ゴミ箱に丼と箸を突っ込み、また陰気な九龍街区へ戻るために歩き出す。霧雨のせいで髪がしっとりと濡れて、鬱陶しい。腹が満ちてくると今度は風呂に入りたくなる。人間の欲というのは、底なしのようだ。
帰りに銭湯へ寄ったらいいか、と考えているうちに藍豪は九龍街区のじめじめとした細い路地に戻ってきていた。
通り慣れたはずの路地に、見慣れないものがうずくまっている。猫にしてはすこし大きい。仮に大型犬だとしても、人間の服を着て路地のど真ん中を占領している犬はいないだろう。
人間だ、と気づいた瞬間、藍豪は一気に興味を失った。阿片中毒者や物乞いの孤児が路地にうずくまっていることはしょっちゅうである。大抵はいつの間にか場所を移動しているか、そのまま死んでいるかのどちらかだ。香港最大のスラム街である九龍街区において、路地に転がる人間は風景の一部として人々に認識されている。
藍豪はそのまま雨と汚物でぬるついた路地を突き進み、中央に横たわる子どもらしき物体を脚で端へ転がそうとした。
差し込んだ爪先が、ずるっと滑る。くにゃりとした嫌な感覚が、靴から伝わってくる。
藍豪は爪先の位置を変え、そっと物体を転がした。
あどけない小さな顔が目に入る。血と煤で汚れてはいるが、子どもにしてはかなり整った、綺麗な顔だ。雨を吸い込んだ黒髪は短く切りそろえられており、おそらく少年であろうと藍豪は推測する。馬のような鹿のようなよくわからない動物のキャラクターが描かれた長袖のTシャツは、元は白かったのだろうが今は全体的に茶色く汚れていて、さらに腹の辺りは赤く染まっていた。
十歳前後だろうか。九龍街区に住んでいる子どもをすべて把握しているわけではないが、この辺りでは見たことのない顔である。
「おい」
自分でもなにを思ったのか、わからない。けれど藍豪は、子どもから死体になりかけのその物体を見下ろしながら声をかけた。一目見ただけでも腹からの出血がかなりひどいことがわかる。閉じられたまぶたは血管が透き通るほど青白く、薄く開かれた小さな唇には固まった血がこびりついていた。
「やめときな」
ふいに頭上から声をかけられて、顔を上げる。見ると、二階の住人が窓を開けて藍豪を見下ろしていた。
「昨日の夕方にふらふらそこに来て、それっきりさ。もう死んでんじゃないの?」
「いや、まだ生きてるみたいだ」
「あ、そう」
住人は言いたいことだけを言って、ぴしゃりと窓を閉めた。ミスト状の雨に吹きつけられながら、ごみ溜めのような路地に藍豪と死にかけの少年が取り残される。放っておいたら、数時間もしないうちに死ぬだろう。この出血量なら、たとえ藍豪が拾ったとしても今日中の命かもしれない。
小さい頃、姉がよく野良犬を拾ってきては両親に怒られていた。最期まで面倒を見られないのなら、拾って来るなと。
藍豪はもう一度、その綺麗な寝顔のような顔を見てから脇を通り抜けようとした。
一歩踏み出した途端、足音が呼び水となったように少年がうっすらと目を開く。藍豪は思わずその目を見つめ返し、息を呑んだ。
黒とも紫ともつかない、奇妙に美しい瞳の色だった。漆黒のように見えて、ほんのわずかな光の加減で菫のような薄紫の色味が瞳に差している。かと思えばすぐに光をすべて吸い込み、真っ暗闇が広がる。その様子は、藍豪が幼い頃に観た宇宙を撮ったというビデオを思い出させた。地球の外では黒に様々な色が混じり合い、それでも真っ黒を保っているという。
少年の目は、まるで宇宙そのものを体現しているかのように美しく、そして神秘的だった。
血色を失った青白いまぶたがまた、閉じられようとしている。少年の半開きの目に、自分のくたびれた顔が映った。髭を剃り忘れた間抜けな顔が、くしゃりと歪む。
「ああ、クソッ……!」
藍豪は雨と汚物と血でぬめる躰を肩に担いだ。しっかり年齢分の重みがある。九龍街区に住んでいるひょろひょろに痩せた子どもとは、重みが違う。それなりに良い家で育ったようだ。それなのに、なぜ? なぜこんな、野良犬も寄りつかないような汚らしい路地で命を終えようとしている?
九龍街区に住む無免許の医者じゃ話にならない。気は進まない。馬鹿なことをしていることはわかっている。クソみたいに高い金を払ったところで、助かる見込みはほとんどないだろう。
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