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1章(6)
少年が目を覚ましたのは、藍豪の部屋に運び込んでから三日目の朝だった。
朝食を買いに外へ出て、粥を手に戻ってくると少年が布団の上で躰を起こしていたのだ。見つめれば吸い込まれそうなほど大きな瞳は、突然部屋に戻ってきた藍豪を凝視している。
藍豪は自分の部屋だというのに、急に居心地の悪さを感じる。
「あー……起きたか」
なにか上手い言葉のひとつでも言えたらいいものの、あいにく藍豪は話し上手ではない。漆黒に薄紫の混じった不思議な色の瞳に見つめられて、少年が起きたらかけようと思っていた言葉の数々がすべて吹き飛んでいってしまった。
少年はまだ、一言も発しない。ひび割れた唇がかすかに動いて、なにかを言おうとしていることは伝わる。
ひゅうっと息の抜ける音がして、少年は軽く咳き込んだ。カラカラに乾いた咳に、藍豪ははっと思い至る。
「待ってろ、飲み物持ってきてやるから」
藍豪は言うが早いか、部屋を飛び出した。地下まで水道を汲みに行って沸かすのでは時間がかかってしまう。長い時間、少年を部屋に一人にしておくこともできない。
藍豪は迷うことなく、隣室の扉を叩いた。今まさに眠ろうとしていた寝ぼけ眼の静月が、気怠げに扉の隙間から顔を出す。
「なんでもいい、飲めるもんないか?」
「酒?」
「いや……子どもが飲めるもので、ちゃんと煮沸されてるやつ」
その一言で、静月にはすべてが伝わったのだろう。彼は就寝直前とは思えない素早い身のこなしで、プラスチックのコップに冷えた茉莉花茶を入れてきた。
「ごめん、昨日の夜に淹れたやつだから冷えてる」
「助かった」と言いながら、藍豪はコップをひったくるようにして受け取り、半歩で自分の部屋に舞い戻った。
少年は先ほどと寸分違わない体勢で、じっと入り口のほうを見つめている。
藍豪は少年のそばに膝を着くと、布団から投げ出された白い手にコップを握らせた。少年の手が震え、茉莉花茶が布団の上にこぼれる。
藍豪は少年の手に自分の手を添えて、ゆっくりとコップを口元へ持って行った。こくりと細い喉が鳴って、少年が二口ほどお茶を飲み下す。
「まだ飲むか?」と尋ねると、少年は首を振って拒否した。中身の残っているコップを金庫の上に置いて、少年に視線を戻す。
「ここ、は」
変声期前のふんわりと高い少年の声が、掠れて聞こえてくる。綺麗な顔にふさわしい、小鳥のさえずりのようにひそやかな声だ。
藍豪が黙っていると、少年はまた咳き込んでから続ける。
「ここは、どこですか」
彼なりにきちんと事態を飲み込もうとしているのだろう。あいかわらず手は震えたままだが、大きな目はしっかりと藍豪を見ている。
藍豪はなるべく少年を刺激しないよう、努めてゆっくり、はっきりと喋った。
「ここは、九龍街区のアパートだ」
「九龍街区?」
「そうだ。ここは香港にある九龍という街で、お前はアパート近くの路地に倒れていたんだ」
少年の目が記憶をたどるように宙をさまよう。裸電球の明かりを受けて、その目の色が黒から紫へと移り変わる。きっと日光の下で見たら、さらに美しい色を見せるのだろう。藍豪はまるで新しいおもちゃを買ってもらった子どものように、飽きもせず少年の瞳を見つめていた。
宙をふらふらしていた少年の視線が戻ってきて、藍豪の前で像が結ばれる。
「あなたが、助けてくれたのですか?」
はっきりそう言われると、認めるのが気恥ずかしかった。阿片の売人という、およそ子どもに自慢できるはずもない仕事をやっている自分が、路地で倒れていた子どもを助けて治療費を払い、もう三日も一枚しかない布団を譲っている。
藍豪は急に自分が汚らしい人間に思えて、少年から目を逸らした。
「ありがとうございます」
少年は布団の上に手をついたかと思うと、藍豪に向かって深々と頭を下げた。目を伏せても少年の丸っこい頭が目に入ってきてしまって、どうしたらいいかわからなくなる。
俺はそんな、お前に感謝されるような人間じゃない。大声でそう叫びたかった。本当に、ただの気の迷いだったのだ。無理やり理由をつけるとするならば、目の色が宇宙みたいで綺麗だったから。そうとしか言えない。
藍豪は所在なさげに腕を組むと、わけもなくきょろきょろしながら尋ねた。
「名前は? 家族も、お前のこと捜してるんじゃねぇの?」
細い肩がふるりと震えた気がして、さまよわせていた視線を戻す。
少年は、大きな目をめいいっぱい開いて、ぽろぽろと涙をこぼしていた。大声を上げて、ギャンギャン泣きわめくような子どもらしい泣き方ではない。両手をぎゅっと握り合わせて、まるで一時の感情の揺らぎだとでもいうように、黙って涙が落ちるに任せている。
こんな泣き方をする子どもは、はじめてだった。
喉から絞り出すような嗚咽が漏れて、藍豪は衝動的に少年の肩を抱いた。少年の肩は藍豪の手のひらにすっぽりと収まってしまうほど細く、頼りない。
「言いたくないなら、言わなくていい」
藍豪に抱かれて肩を震わせていた少年が、ふるふると首を振る。
少年が顔を上げる。涙で濡れた目は、この世のどんな宝石にも敵わぬほど美しかった。
「僕は、類。家族はたぶん……皆、死んだと思います」
半分は、予想していたことだ。しかしなんと尋ねたらよいものか、思案する。藍豪の迷いに気づかず、類は続ける。
「村が、襲われたんです。雲南の――阿片の畑を作るから、って。皆、焼かれて……」
すうっと、腹の底が冷えていく感覚がした。
「それは、いつのことだ?」
「十一月の、終わり頃だったと、思います」
間違いない。一週間前のクソみたいな仕事を思い出す。吴星宇に人手が足りないと呼び出されて、山奥に連れて行かれて――。
類の村を焼いたのは、俺だ。
朝食を買いに外へ出て、粥を手に戻ってくると少年が布団の上で躰を起こしていたのだ。見つめれば吸い込まれそうなほど大きな瞳は、突然部屋に戻ってきた藍豪を凝視している。
藍豪は自分の部屋だというのに、急に居心地の悪さを感じる。
「あー……起きたか」
なにか上手い言葉のひとつでも言えたらいいものの、あいにく藍豪は話し上手ではない。漆黒に薄紫の混じった不思議な色の瞳に見つめられて、少年が起きたらかけようと思っていた言葉の数々がすべて吹き飛んでいってしまった。
少年はまだ、一言も発しない。ひび割れた唇がかすかに動いて、なにかを言おうとしていることは伝わる。
ひゅうっと息の抜ける音がして、少年は軽く咳き込んだ。カラカラに乾いた咳に、藍豪ははっと思い至る。
「待ってろ、飲み物持ってきてやるから」
藍豪は言うが早いか、部屋を飛び出した。地下まで水道を汲みに行って沸かすのでは時間がかかってしまう。長い時間、少年を部屋に一人にしておくこともできない。
藍豪は迷うことなく、隣室の扉を叩いた。今まさに眠ろうとしていた寝ぼけ眼の静月が、気怠げに扉の隙間から顔を出す。
「なんでもいい、飲めるもんないか?」
「酒?」
「いや……子どもが飲めるもので、ちゃんと煮沸されてるやつ」
その一言で、静月にはすべてが伝わったのだろう。彼は就寝直前とは思えない素早い身のこなしで、プラスチックのコップに冷えた茉莉花茶を入れてきた。
「ごめん、昨日の夜に淹れたやつだから冷えてる」
「助かった」と言いながら、藍豪はコップをひったくるようにして受け取り、半歩で自分の部屋に舞い戻った。
少年は先ほどと寸分違わない体勢で、じっと入り口のほうを見つめている。
藍豪は少年のそばに膝を着くと、布団から投げ出された白い手にコップを握らせた。少年の手が震え、茉莉花茶が布団の上にこぼれる。
藍豪は少年の手に自分の手を添えて、ゆっくりとコップを口元へ持って行った。こくりと細い喉が鳴って、少年が二口ほどお茶を飲み下す。
「まだ飲むか?」と尋ねると、少年は首を振って拒否した。中身の残っているコップを金庫の上に置いて、少年に視線を戻す。
「ここ、は」
変声期前のふんわりと高い少年の声が、掠れて聞こえてくる。綺麗な顔にふさわしい、小鳥のさえずりのようにひそやかな声だ。
藍豪が黙っていると、少年はまた咳き込んでから続ける。
「ここは、どこですか」
彼なりにきちんと事態を飲み込もうとしているのだろう。あいかわらず手は震えたままだが、大きな目はしっかりと藍豪を見ている。
藍豪はなるべく少年を刺激しないよう、努めてゆっくり、はっきりと喋った。
「ここは、九龍街区のアパートだ」
「九龍街区?」
「そうだ。ここは香港にある九龍という街で、お前はアパート近くの路地に倒れていたんだ」
少年の目が記憶をたどるように宙をさまよう。裸電球の明かりを受けて、その目の色が黒から紫へと移り変わる。きっと日光の下で見たら、さらに美しい色を見せるのだろう。藍豪はまるで新しいおもちゃを買ってもらった子どものように、飽きもせず少年の瞳を見つめていた。
宙をふらふらしていた少年の視線が戻ってきて、藍豪の前で像が結ばれる。
「あなたが、助けてくれたのですか?」
はっきりそう言われると、認めるのが気恥ずかしかった。阿片の売人という、およそ子どもに自慢できるはずもない仕事をやっている自分が、路地で倒れていた子どもを助けて治療費を払い、もう三日も一枚しかない布団を譲っている。
藍豪は急に自分が汚らしい人間に思えて、少年から目を逸らした。
「ありがとうございます」
少年は布団の上に手をついたかと思うと、藍豪に向かって深々と頭を下げた。目を伏せても少年の丸っこい頭が目に入ってきてしまって、どうしたらいいかわからなくなる。
俺はそんな、お前に感謝されるような人間じゃない。大声でそう叫びたかった。本当に、ただの気の迷いだったのだ。無理やり理由をつけるとするならば、目の色が宇宙みたいで綺麗だったから。そうとしか言えない。
藍豪は所在なさげに腕を組むと、わけもなくきょろきょろしながら尋ねた。
「名前は? 家族も、お前のこと捜してるんじゃねぇの?」
細い肩がふるりと震えた気がして、さまよわせていた視線を戻す。
少年は、大きな目をめいいっぱい開いて、ぽろぽろと涙をこぼしていた。大声を上げて、ギャンギャン泣きわめくような子どもらしい泣き方ではない。両手をぎゅっと握り合わせて、まるで一時の感情の揺らぎだとでもいうように、黙って涙が落ちるに任せている。
こんな泣き方をする子どもは、はじめてだった。
喉から絞り出すような嗚咽が漏れて、藍豪は衝動的に少年の肩を抱いた。少年の肩は藍豪の手のひらにすっぽりと収まってしまうほど細く、頼りない。
「言いたくないなら、言わなくていい」
藍豪に抱かれて肩を震わせていた少年が、ふるふると首を振る。
少年が顔を上げる。涙で濡れた目は、この世のどんな宝石にも敵わぬほど美しかった。
「僕は、類。家族はたぶん……皆、死んだと思います」
半分は、予想していたことだ。しかしなんと尋ねたらよいものか、思案する。藍豪の迷いに気づかず、類は続ける。
「村が、襲われたんです。雲南の――阿片の畑を作るから、って。皆、焼かれて……」
すうっと、腹の底が冷えていく感覚がした。
「それは、いつのことだ?」
「十一月の、終わり頃だったと、思います」
間違いない。一週間前のクソみたいな仕事を思い出す。吴星宇に人手が足りないと呼び出されて、山奥に連れて行かれて――。
類の村を焼いたのは、俺だ。
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