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2章(4)
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藍豪がまだ十代だった頃。藍豪は王老板の犬として香港裏社会で名の通る者だった。王の命令ひとつでどんな殺しでもやる。だからといって、心から老板に忠誠を誓っているわけではない。姉という人質を取られて、止むに止まれず、その手を血で染めることになった。
藍豪は寒々しい鉄柵を軽々と乗り越えると、足音も立てずに庭に下り立った。土砂降りの雨が全身に叩きつける。屋根に弾ける雨音が騒がしく、藍豪がすこし音を立てても家主に気づかれる心配はなさそうだった。
庭の端の植え込みに身を隠し、頭の中で手順を思い返す。藍豪の今日の目的は目の前にそびえる屋敷の主人である黄洋を殺害し、阿片取引の顧客リストを持ち帰ることだ。黄洋は三千龍団の中で阿片の製造・流通を任されている。同じく阿片取引を活動の目玉としている瑞蜜会にとって、なるべく早く排除したい人間に他ならない。
連休の初日で、使用人や三千龍団の構成員はほとんど出払っている。屋敷に残っているのは主人の黄洋と、息子の黄偉だけ。一人ずつ殺していけば、そう難しい仕事ではない。
藍豪は暴れ出す心臓を落ち着けるために大きく息を吸った。失敗は許されない。失敗すれば、姉の命はない。仕事を請けなくても姉は殺されるし、無理な仕事を押しつけられて失敗しても姉は殺される。藍豪はいつでも極限状態に立たされていた。どっちに転んでも地獄の日々の中で、唯一姉との面会だけが藍豪の汚れきった心を洗い流してくれた。
覚悟を決めて、植え込みから身を躍り出す。ほふく前進のように壁伝いに地面を這って進む。雨と泥を吸い込んだ服がずっしりと重い。
屋敷の端まで来てそっと立ち上がり、窓から室内を確認する。頭に叩き込んだ屋敷の設計図通り、そこは厨房だった。今は使用人も料理人もおらず、明かりもついていない厨房は薄闇に包まれている。一応、窓に手をかけてみたが開かなかった。
あたりを窺い、人がいないことを確認する。窓にナイフの柄を叩きつけると、いとも簡単に窓ガラスは粉々になった。一番の懸念点だった音も、雨の音にかき消されてそれほど響くことはなかった。しかし屋敷の中にいる人間がいつ気づくともわからない。
窓枠に手をかけて、泥で汚れきった躰を押し上げる。薄暗い厨房を抜けるとすぐに、絨毯張りの廊下に出た。再度、頭の中に設計図を呼び起こす。黄洋の書斎は二階の階段そばにある。その隣が寝室だ。
足音を絨毯に吸わせながら、ひたひたと歩く。屋敷の中はしんと静まり返り、本当に二人がいるのかすらわからないほど人の気配がない。もしなんらかの手違いで二人が外出しているのなら、帰ってくるまで待たなければならない。長丁場の仕事になるかもしれないと、藍豪は身を引き締めた。
しかし、そんな心配は杞憂に終わった。書斎に姿の見えなかった黄洋は、酒瓶とともに寝室で眠りについていたのだ。使用人に暇を出して羽目が外れたのか、ろくに扉の施錠もせずに大いびきをかいて寝込んでいる。
難しいことはなにもなかった。白いシーツに泥水を落としながら、両手で握ったナイフを心臓めがけて突き立てる。黄洋は眠ったまま二、三度躰を痙攣させ、やがて動かなくなった。
あとは息子の黄偉を始末し、書斎から顧客リストを盗み出すだけだ――。
「王老板の犬」
冷めた声に呼ばれて、振り返る。寝室の入り口に一人の青年が立っていた。藍豪よりすこし年上くらいの、厚ぼったい一重のせいで眠たげな顔に見える男だ。広い屋敷の中を捜し回る手間が省けた。この男こそ、息子の黄偉だろう。
目深に被った雨除けのフードを下ろす。黄偉は藍豪の顔を見て、すこしだけ眉をひそめた。まさか王老板の犬として香港裏社会をかき回している人間が、自分よりも年下だとは思っていなかったのだろう。
手に持ったナイフの感触をたしかめる。外に逃げられたら面倒だ。一歩で届く距離まで詰めてから、一発でとどめを刺さなければいけない。ゴロゴロと、雷の唸る音が聞こえる。窓に叩きつける雨音は、一層強くなっている。
「取引をしよう」
黄偉は奇妙な抑揚で言った。緊張しているのかしきりに唇を舐めて、一重の奥にある瞳がせわしなく左右に揺れている。
彼が取り出したのは、紙の束だった。黒い紐で閉じられたそれは、藍豪がこれから奪い取って行こうとしている阿片取引の顧客リストに違いなかった。
ナイフを握り直す藍豪を手で制し、黄偉が幾分落ち着いた声で続ける。
「このリストは渡す。父の金庫の鍵も渡すから、必要なものがあればすべて持って行ってもらって構わない」
「……なにが目的だ?」
取引というのだから、藍豪がリストを手に入れるのに交換条件があるはずだ。
黄偉の肩がわずかに震える。
「俺は、こんなところで死にたくない」
目当てのものは渡すから、自分の命は見逃してほしい。彼はそう言っているようだ。
しかし、藍豪もそれであっさり引き下がるわけにはいかない。王老板が求めているのは、黄親子の首と顧客リストだからだ。首がひとつ足りないとなれば、藍豪の仕事は失敗したとみなされ、姉は殺される。
藍豪がそのことを説明すると、黄偉は唇を噛んだ。
「俺も姉が殺されるのはごめんだ」
大股で一気に距離を詰める。ナイフの切っ先が喉に届きそうになった時――黄偉は後退りながら叫んだ。
「首なら用意する!」
すんでのところで動きを止めた藍豪に対し、黄偉は懇願するような目つきで様子を窺ってくる。
「もうすぐ俺と同じ歳の使用人が帰ってくる。そいつの首を黄偉の首として持って行けばいい」
「顔が違えば、すぐにバレるぞ」
「人相をわからなくすればいいんだ。殴ったり……燃やしたりして」
藍豪は深いため息を吐いた。自分が生き残るために他者を殺すことを厭わないのは、立派な裏社会の素質がある。こいつを生かしておけば、将来父親のような人間に育ち、三千龍団で出世していくだろうと藍豪はぼんやり思った。けれど、手間が省けることもたしかだ。
「お前がやれよ」
藍豪の言葉に黄偉が顔を引きつらせる。
そうして藍豪は、黄偉が使用人の男を殺し、遺体を解体する様を黙って見ていた。
黄偉の生への執着は、藍豪の姉に対する執着とよく似ていた――。
藍豪は寒々しい鉄柵を軽々と乗り越えると、足音も立てずに庭に下り立った。土砂降りの雨が全身に叩きつける。屋根に弾ける雨音が騒がしく、藍豪がすこし音を立てても家主に気づかれる心配はなさそうだった。
庭の端の植え込みに身を隠し、頭の中で手順を思い返す。藍豪の今日の目的は目の前にそびえる屋敷の主人である黄洋を殺害し、阿片取引の顧客リストを持ち帰ることだ。黄洋は三千龍団の中で阿片の製造・流通を任されている。同じく阿片取引を活動の目玉としている瑞蜜会にとって、なるべく早く排除したい人間に他ならない。
連休の初日で、使用人や三千龍団の構成員はほとんど出払っている。屋敷に残っているのは主人の黄洋と、息子の黄偉だけ。一人ずつ殺していけば、そう難しい仕事ではない。
藍豪は暴れ出す心臓を落ち着けるために大きく息を吸った。失敗は許されない。失敗すれば、姉の命はない。仕事を請けなくても姉は殺されるし、無理な仕事を押しつけられて失敗しても姉は殺される。藍豪はいつでも極限状態に立たされていた。どっちに転んでも地獄の日々の中で、唯一姉との面会だけが藍豪の汚れきった心を洗い流してくれた。
覚悟を決めて、植え込みから身を躍り出す。ほふく前進のように壁伝いに地面を這って進む。雨と泥を吸い込んだ服がずっしりと重い。
屋敷の端まで来てそっと立ち上がり、窓から室内を確認する。頭に叩き込んだ屋敷の設計図通り、そこは厨房だった。今は使用人も料理人もおらず、明かりもついていない厨房は薄闇に包まれている。一応、窓に手をかけてみたが開かなかった。
あたりを窺い、人がいないことを確認する。窓にナイフの柄を叩きつけると、いとも簡単に窓ガラスは粉々になった。一番の懸念点だった音も、雨の音にかき消されてそれほど響くことはなかった。しかし屋敷の中にいる人間がいつ気づくともわからない。
窓枠に手をかけて、泥で汚れきった躰を押し上げる。薄暗い厨房を抜けるとすぐに、絨毯張りの廊下に出た。再度、頭の中に設計図を呼び起こす。黄洋の書斎は二階の階段そばにある。その隣が寝室だ。
足音を絨毯に吸わせながら、ひたひたと歩く。屋敷の中はしんと静まり返り、本当に二人がいるのかすらわからないほど人の気配がない。もしなんらかの手違いで二人が外出しているのなら、帰ってくるまで待たなければならない。長丁場の仕事になるかもしれないと、藍豪は身を引き締めた。
しかし、そんな心配は杞憂に終わった。書斎に姿の見えなかった黄洋は、酒瓶とともに寝室で眠りについていたのだ。使用人に暇を出して羽目が外れたのか、ろくに扉の施錠もせずに大いびきをかいて寝込んでいる。
難しいことはなにもなかった。白いシーツに泥水を落としながら、両手で握ったナイフを心臓めがけて突き立てる。黄洋は眠ったまま二、三度躰を痙攣させ、やがて動かなくなった。
あとは息子の黄偉を始末し、書斎から顧客リストを盗み出すだけだ――。
「王老板の犬」
冷めた声に呼ばれて、振り返る。寝室の入り口に一人の青年が立っていた。藍豪よりすこし年上くらいの、厚ぼったい一重のせいで眠たげな顔に見える男だ。広い屋敷の中を捜し回る手間が省けた。この男こそ、息子の黄偉だろう。
目深に被った雨除けのフードを下ろす。黄偉は藍豪の顔を見て、すこしだけ眉をひそめた。まさか王老板の犬として香港裏社会をかき回している人間が、自分よりも年下だとは思っていなかったのだろう。
手に持ったナイフの感触をたしかめる。外に逃げられたら面倒だ。一歩で届く距離まで詰めてから、一発でとどめを刺さなければいけない。ゴロゴロと、雷の唸る音が聞こえる。窓に叩きつける雨音は、一層強くなっている。
「取引をしよう」
黄偉は奇妙な抑揚で言った。緊張しているのかしきりに唇を舐めて、一重の奥にある瞳がせわしなく左右に揺れている。
彼が取り出したのは、紙の束だった。黒い紐で閉じられたそれは、藍豪がこれから奪い取って行こうとしている阿片取引の顧客リストに違いなかった。
ナイフを握り直す藍豪を手で制し、黄偉が幾分落ち着いた声で続ける。
「このリストは渡す。父の金庫の鍵も渡すから、必要なものがあればすべて持って行ってもらって構わない」
「……なにが目的だ?」
取引というのだから、藍豪がリストを手に入れるのに交換条件があるはずだ。
黄偉の肩がわずかに震える。
「俺は、こんなところで死にたくない」
目当てのものは渡すから、自分の命は見逃してほしい。彼はそう言っているようだ。
しかし、藍豪もそれであっさり引き下がるわけにはいかない。王老板が求めているのは、黄親子の首と顧客リストだからだ。首がひとつ足りないとなれば、藍豪の仕事は失敗したとみなされ、姉は殺される。
藍豪がそのことを説明すると、黄偉は唇を噛んだ。
「俺も姉が殺されるのはごめんだ」
大股で一気に距離を詰める。ナイフの切っ先が喉に届きそうになった時――黄偉は後退りながら叫んだ。
「首なら用意する!」
すんでのところで動きを止めた藍豪に対し、黄偉は懇願するような目つきで様子を窺ってくる。
「もうすぐ俺と同じ歳の使用人が帰ってくる。そいつの首を黄偉の首として持って行けばいい」
「顔が違えば、すぐにバレるぞ」
「人相をわからなくすればいいんだ。殴ったり……燃やしたりして」
藍豪は深いため息を吐いた。自分が生き残るために他者を殺すことを厭わないのは、立派な裏社会の素質がある。こいつを生かしておけば、将来父親のような人間に育ち、三千龍団で出世していくだろうと藍豪はぼんやり思った。けれど、手間が省けることもたしかだ。
「お前がやれよ」
藍豪の言葉に黄偉が顔を引きつらせる。
そうして藍豪は、黄偉が使用人の男を殺し、遺体を解体する様を黙って見ていた。
黄偉の生への執着は、藍豪の姉に対する執着とよく似ていた――。
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