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2章(6)
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香港の冬は、雲南よりずっと暖かい。雲南で生まれ育った類にとって香港の冬はさほど寒いとは感じない。上着なしでも外を歩けるくらいだ。
しかし室内となれば話は違う。類が居候している九龍街区のアパートには、暖炉も暖房もない。そして日差しが届かず、室内は昼でも暗い。日光の暖かさを感じることもできない。外と室内の中の気温がほとんど変わらないどころか、日の暖かさがない分、室内のほうが寒く感じる。
類の家では冬になると暖炉でごうごうと薪が燃えていて、いつでも暖かく、裸足でアイスクリームを食べることだってできた。暑がりな父親は冬でも白いタンクトップ一枚で家の中を歩いていた。外が寒い分、せめて部屋の中だけでも暖かくしようと頑張っていたのだ。
もし今、九龍街区のアパートで同じことをやったら、類はすぐに風邪を引いて寝込む自信がある。
正直言って布団も毛布も薄く、被っていないのではと思うほどだ。それでも寒さに凍えずに毎日ぐっすり眠れるのは、藍豪がそばで寝て体温を分けてくれるからだった。
類はアパートの屋上で洗濯したシーツを干し終えると、すっかり軽くなった籠を抱えて意気揚々と階段を駆け下りはじめた。
行きは水を吸ったシーツが重たいし、地下から屋上まで延々と階段を登り続けなければならないから、その足取りは亀よりも遅い。自分より年下の下働きの子がシーツを何枚も抱えて二段飛ばしに階段を駆け上がっていくところを見た時は、驚きすぎて声も出なかった。
娼館での下働きは、畑仕事とは違う大変さがある。どちらも体力勝負なことには変わらないが、娼館の仕事は休みがない。畑仕事は天気が悪かったり、その年の収穫がすべて終わると家族みんなで休むことができたけれど、娼館は天候も閑散期も関係ない。一年のうちで娼館が休みになるのは春節の時だけだと、女主人の珠蘭は言っていた。
「類、遅いよ」
地下の娼館まで戻ると、ふたつ年上の下働きの少女、美雨が洗濯室の前で腕を組んで待っていた。美雨は珠蘭に言われて類に下働きの仕事を教えることになったらしいが、優しさというものは微塵も感じられず、とにかく怒りっぽい。どこからそんなに文句が湧き出てくるのだろうと思うほど、類の行動ひとつひとつにケチをつけるのだ。
類は美雨の目を見てから、膝に額がつくほど深く頭を下げた。決まった作法で謝罪をしなければ、また美雨に叱られる。
「ごめん、美雨。明日はもっと頑張るから」
水で濡れた床を見つめる類の頭に、美雨の不機嫌な声が降ってくる。
「早く一人分の仕事ができるようになってよね。いつまでも手伝ってあげられるほど、暇じゃないの」
類は頭を下げたまま、唇を噛んだ。類がやりきれなかった仕事はすべて、教育係である美雨が片づけてくれている。類に対して怒るのも当然だ。美雨は類が来てからずっと、二人分の仕事をさせられているのだから。
美雨に対する申し訳なさと、なかなか仕事が上手くできるようにならない悔しさで涙が出そうだった。でも、泣いたら美雨に泣くなと怒られる。泣いている暇があったら仕事をしろと、彼女は皆に聞こえるような大声で怒鳴るだろう。
「もういい、顔上げなよ。客が来る前に帰らないと」
美雨の許しを得て、顔を上げる。吐き出されたため息が、いつまでもそこに漂っているような気がした。
洗濯室に籠を戻して、類は美雨の後について娼館の入り口まで歩いた。美雨は娼館の生まれで、娼館の中に自分の部屋があるという。結局入り口で別れてしまうのに、なぜか美雨は毎日、類を入り口まで送ってくれた。もしかしたら類の送迎も、珠蘭に言いつけられたことの一部なのかもしれない。
美雨は入り口までやってくると、いつものようにそのまま引き返していくのかと思った。しかし類の予想とは裏腹に、美雨はその場を動こうとしなかった。まだなにか、類に言い足りないことがあるのだろうか。藍豪が迎えに来るまでに終わればいいな、と類はこっそり思った。
「あんたってさ」
美雨が冷たいコンクリートの壁に寄りかかりながら、言いにくいことを言うようにもごもごと話し出す。
「ここの生まれじゃないでしょ」
類は一瞬、言葉に詰まった。どう返せばいいか、瞬時に頭の中で考える。美雨は生まれた時から九龍街区で育ってきた人間だ。下手に「九龍街区で生まれた」なんて嘘をついたら、見抜かれるに決まっている。
迷った挙げ句、類はすこしだけうなずいた。
「やっぱりね」と美雨が幾分か自信を取り戻したように言う。
「じゃあどこから来たの?」
これもまた、答えにくい質問だった。藍豪には育った村のことや、村で起こったことを誰にも話してはいけないと言われている。相手がふたつしか年齢の違わない女の子だったとしても、本当のことは言えない。美雨が、誰か別の大人に類のことを話す可能性だってある。
まさか美雨は類のことを聞くためだけに、ここに残っているのだろうか? なんと言ったら美雨は納得して、藍豪が迎えに来る前に自分の部屋に帰ってくれるのだろう?
類は返答に困り、言葉にならない声を漏らした。美雨は類がなにを言い出すのかと、じっと待っている。話すしかなさそうだ。
緊張で乾いた唇を舐めて湿らせて、口を開く。
「どこから来たかはわかんないんだけど……李藍豪って人と一緒に住んでるんだ」
藍豪の名前を聞いた途端、美雨の顔がみるみるうちに凍りついた。勝ち気そうなぱっちりとした瞳は怯えて収縮し、唇の端が震えている。
「嘘でしょ……? 藍豪って、七階の藍豪でしょ?」
「そうだけど、美雨は知り合いなの?」
「あんな奴と一緒にしないで!」と美雨は廊下に響き渡るような大音量で叫んだ。
明らかに様子がおかしい。どうにも、藍豪は評判のいい人ではないらしい。
類にとって藍豪は命の恩人だが、美雨にとっては「あんな奴」と形容するような人でしかないのだ。
「どうしてそんなふうに言うの?」
類は悲しかった。自分の命の恩人が、美雨にとっては快く思わない人間なのだ。なぜそんなふうに藍豪を悪く言うのか、理由が知りたかった。類にとって藍豪は、命の恩人であり、阿片の売人であり、類よりもずっと年上である。そのくらいの情報しかない。藍豪に関することなら、どんなことだって聞いておきたかった。
美雨は辺りをきょろきょろと見回して人がいないことを確認すると、ぐっと険しい顔になった。
眉を下げる類に向かって、美雨は険しい顔のまま言い放つ。
「だって七階の藍豪って、姉殺しの藍豪でしょ? 九龍街区の人は皆知ってるよ。藍豪がマフィアに入りたくて、自分のお姉さんを殺したんだって」
お姉さんを人質に取られて阿片の売人になったという話は嘘だったのか? 類の混乱を美雨は知らず、またそれ以上話そうともしなかった。
この日。藍豪はいくら待てども類を迎えには来なかった。
胸の中に湧き上がった不安を抑え込むことができないまま、類は一人で帰路につく。七階までの階段が、屋上へ行くよりも果てしなく長く感じられた。
しかし室内となれば話は違う。類が居候している九龍街区のアパートには、暖炉も暖房もない。そして日差しが届かず、室内は昼でも暗い。日光の暖かさを感じることもできない。外と室内の中の気温がほとんど変わらないどころか、日の暖かさがない分、室内のほうが寒く感じる。
類の家では冬になると暖炉でごうごうと薪が燃えていて、いつでも暖かく、裸足でアイスクリームを食べることだってできた。暑がりな父親は冬でも白いタンクトップ一枚で家の中を歩いていた。外が寒い分、せめて部屋の中だけでも暖かくしようと頑張っていたのだ。
もし今、九龍街区のアパートで同じことをやったら、類はすぐに風邪を引いて寝込む自信がある。
正直言って布団も毛布も薄く、被っていないのではと思うほどだ。それでも寒さに凍えずに毎日ぐっすり眠れるのは、藍豪がそばで寝て体温を分けてくれるからだった。
類はアパートの屋上で洗濯したシーツを干し終えると、すっかり軽くなった籠を抱えて意気揚々と階段を駆け下りはじめた。
行きは水を吸ったシーツが重たいし、地下から屋上まで延々と階段を登り続けなければならないから、その足取りは亀よりも遅い。自分より年下の下働きの子がシーツを何枚も抱えて二段飛ばしに階段を駆け上がっていくところを見た時は、驚きすぎて声も出なかった。
娼館での下働きは、畑仕事とは違う大変さがある。どちらも体力勝負なことには変わらないが、娼館の仕事は休みがない。畑仕事は天気が悪かったり、その年の収穫がすべて終わると家族みんなで休むことができたけれど、娼館は天候も閑散期も関係ない。一年のうちで娼館が休みになるのは春節の時だけだと、女主人の珠蘭は言っていた。
「類、遅いよ」
地下の娼館まで戻ると、ふたつ年上の下働きの少女、美雨が洗濯室の前で腕を組んで待っていた。美雨は珠蘭に言われて類に下働きの仕事を教えることになったらしいが、優しさというものは微塵も感じられず、とにかく怒りっぽい。どこからそんなに文句が湧き出てくるのだろうと思うほど、類の行動ひとつひとつにケチをつけるのだ。
類は美雨の目を見てから、膝に額がつくほど深く頭を下げた。決まった作法で謝罪をしなければ、また美雨に叱られる。
「ごめん、美雨。明日はもっと頑張るから」
水で濡れた床を見つめる類の頭に、美雨の不機嫌な声が降ってくる。
「早く一人分の仕事ができるようになってよね。いつまでも手伝ってあげられるほど、暇じゃないの」
類は頭を下げたまま、唇を噛んだ。類がやりきれなかった仕事はすべて、教育係である美雨が片づけてくれている。類に対して怒るのも当然だ。美雨は類が来てからずっと、二人分の仕事をさせられているのだから。
美雨に対する申し訳なさと、なかなか仕事が上手くできるようにならない悔しさで涙が出そうだった。でも、泣いたら美雨に泣くなと怒られる。泣いている暇があったら仕事をしろと、彼女は皆に聞こえるような大声で怒鳴るだろう。
「もういい、顔上げなよ。客が来る前に帰らないと」
美雨の許しを得て、顔を上げる。吐き出されたため息が、いつまでもそこに漂っているような気がした。
洗濯室に籠を戻して、類は美雨の後について娼館の入り口まで歩いた。美雨は娼館の生まれで、娼館の中に自分の部屋があるという。結局入り口で別れてしまうのに、なぜか美雨は毎日、類を入り口まで送ってくれた。もしかしたら類の送迎も、珠蘭に言いつけられたことの一部なのかもしれない。
美雨は入り口までやってくると、いつものようにそのまま引き返していくのかと思った。しかし類の予想とは裏腹に、美雨はその場を動こうとしなかった。まだなにか、類に言い足りないことがあるのだろうか。藍豪が迎えに来るまでに終わればいいな、と類はこっそり思った。
「あんたってさ」
美雨が冷たいコンクリートの壁に寄りかかりながら、言いにくいことを言うようにもごもごと話し出す。
「ここの生まれじゃないでしょ」
類は一瞬、言葉に詰まった。どう返せばいいか、瞬時に頭の中で考える。美雨は生まれた時から九龍街区で育ってきた人間だ。下手に「九龍街区で生まれた」なんて嘘をついたら、見抜かれるに決まっている。
迷った挙げ句、類はすこしだけうなずいた。
「やっぱりね」と美雨が幾分か自信を取り戻したように言う。
「じゃあどこから来たの?」
これもまた、答えにくい質問だった。藍豪には育った村のことや、村で起こったことを誰にも話してはいけないと言われている。相手がふたつしか年齢の違わない女の子だったとしても、本当のことは言えない。美雨が、誰か別の大人に類のことを話す可能性だってある。
まさか美雨は類のことを聞くためだけに、ここに残っているのだろうか? なんと言ったら美雨は納得して、藍豪が迎えに来る前に自分の部屋に帰ってくれるのだろう?
類は返答に困り、言葉にならない声を漏らした。美雨は類がなにを言い出すのかと、じっと待っている。話すしかなさそうだ。
緊張で乾いた唇を舐めて湿らせて、口を開く。
「どこから来たかはわかんないんだけど……李藍豪って人と一緒に住んでるんだ」
藍豪の名前を聞いた途端、美雨の顔がみるみるうちに凍りついた。勝ち気そうなぱっちりとした瞳は怯えて収縮し、唇の端が震えている。
「嘘でしょ……? 藍豪って、七階の藍豪でしょ?」
「そうだけど、美雨は知り合いなの?」
「あんな奴と一緒にしないで!」と美雨は廊下に響き渡るような大音量で叫んだ。
明らかに様子がおかしい。どうにも、藍豪は評判のいい人ではないらしい。
類にとって藍豪は命の恩人だが、美雨にとっては「あんな奴」と形容するような人でしかないのだ。
「どうしてそんなふうに言うの?」
類は悲しかった。自分の命の恩人が、美雨にとっては快く思わない人間なのだ。なぜそんなふうに藍豪を悪く言うのか、理由が知りたかった。類にとって藍豪は、命の恩人であり、阿片の売人であり、類よりもずっと年上である。そのくらいの情報しかない。藍豪に関することなら、どんなことだって聞いておきたかった。
美雨は辺りをきょろきょろと見回して人がいないことを確認すると、ぐっと険しい顔になった。
眉を下げる類に向かって、美雨は険しい顔のまま言い放つ。
「だって七階の藍豪って、姉殺しの藍豪でしょ? 九龍街区の人は皆知ってるよ。藍豪がマフィアに入りたくて、自分のお姉さんを殺したんだって」
お姉さんを人質に取られて阿片の売人になったという話は嘘だったのか? 類の混乱を美雨は知らず、またそれ以上話そうともしなかった。
この日。藍豪はいくら待てども類を迎えには来なかった。
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