【完結】九龍街区の売人は偽りの少年と極彩色の夢を見ない【R18】

古都まとい

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2章(8)

 藍豪ランハオは部屋に着くなり、敷きっぱなしの布団に崩れるように横たわった。顔は相貌そうぼうがわからないほど腫れて赤黒く、左手は小指と薬指を失った。星宇シンユーが呼びつけた医者によって縫合と止血はされたが、何重にも巻かれた包帯の下でじんじんと痛みを発している。歩くたびに痛みが骨にまで響き、七階までの階段は苦行そのものだった。
 レイはまだ帰ってきていない。いつもなら娼館の前まで迎えに行く時間だが、地下まで下りる気力が湧いてこなかった。まさか藍豪が迎えに行くまでじっと待っているということはないだろう。客が入る前には帰ってくるはずだ。

 天井の裸電球の明かりが滲んで見える。眩しすぎて目を逸らしたいが、顔を横へ向けるさえ億劫だった。
 藍豪は類に部屋の鍵を持たせていないことに気づき、のろのろと躰を起こした。迎えに行けないのなら、せめて部屋の鍵だけでも開けておかなければならない。鍵が締まっていたら、藍豪がどこかへ出かけたまま帰っていないのだと勘違いするかもしれないからだ。
 藍豪が鍵を回したのとほぼ同時に――部屋の扉が大きく開かれた。
 視線だけ下ろすと、柔らかい猫毛のつむじが見える。ほんのりと嗅ぎ慣れた汗の匂いがして、藍豪は目の前に立っているのが類だと認識した。

「藍豪……?」

 とうの類は、顔面が腫れ上がった男を藍豪だと一目ではわからなかったらしい。藍豪が軽くうなずきかけると、類は一歩後ずさった。警戒心を浮かべていた瞳が徐々に見開かれ、そして驚きが顔いっぱいに広がる。類の全身を上手く視界に収めることができない。藍豪は涙を浮かべる類の顔を、ぼやけた視界で他人事のように見ていた。

「どうしたんです、その怪我」

 藍豪はどう言ったらいいものかわからず、曖昧にうなずいた。立っているのもつらくなり、類を伴って部屋の中へ引っ込む。ごろんと布団に身を投げ出し、胸の上に左手を置くとようやく痛みがすこしだけマシになった。
 固く包帯が巻かれた左手を類が凝視している。顔が上手く見えなくても、突き刺さるような視線を感じた。

「心配すんなよ……すぐ治る」

 類は片膝をついた状態で藍豪の隣にしゃがみ込んでいる。汗とも涙ともつかない透明な液体が、類の頬を濡らしていた。
 すこし話すだけで、ずたずたに傷ついた口の中が痛む。あれだけ殴られて歯を一本も失わなかったのは幸いだ。両顎の骨が軋むほど奥歯を噛み締めていたから、多少すり減っているかもしれないが。
 類は身をかがめると、藍豪の顔を覗き込んだ。

「なにがあって……こんな怪我を?」

 泣き声とも囁きともとれない類の声が、耳をくすぐる。藍豪は目を開けているのも面倒で、重たいまぶたを下ろした。まぶたの裏で電球の明かりが白く光る。

「ガキが心配するようなことじゃねぇよ――」
「教えてください、藍豪。僕を――仲間外れにしないで」

 類の声が震えた気がして、藍豪は下がろうとするまぶたを押し上げ、目を開けた。ぽたっと、生温いなにかが頬に落ちてくる。類は藍豪の顔を覗き込んで泣いていた。なぜ、類が泣くのか。自由な右手を挙げて、類の目元を服の袖で拭う。まっすぐ落ちてきた涙が口に入り、傷に染みる塩辛さに藍豪は目を細めた。
 菫色の瞳が涙で染まってきらめく。類が泣いているところを見るのは、これで二度目だ。大人のような物言いをして、大人のように落ち着いた振る舞いをする類が、声も上げずに泣いている。
 藍豪は類の顔を右手で拭ってやりながら、そっと切り出した。

「指二本売って――お前の七年を、買ったんだ」
「どうして」という類の声はほとんど悲鳴に近かった。類が喚こうとするのを、手で制す。

「お前は十九になったら、ここを出て行く。俺とも一切関わりないところで、生きていくんだ」

 藍豪は詰めていた息を吐き出す。

「七年経ったら、俺のことは忘れていい。リー藍豪ランハオなんて男は、お前の人生には存在しなかった。お前は一人で――九龍街区での七年を生き抜いたんだ」

 類の顔がますます歪んでいく。言いかけた言葉はどれも形を成さず、ついには藍豪の腹に顔を突っ伏して、声を押し殺すように泣きはじめた。類の体温と涙で、腹がじんわりと温まり、湿っていく。
 さらさらと流れる類の細い髪の毛を指先でき、藍豪は己の身勝手さを悔いた。あのまま路地で死なせてやったほうが、類は幸せだったのではないか。藍豪なんかに拾われてしまったから、類はつらい思いしかしていないのだ。
 一時の気の迷いで命を救い、ゴミ溜めのような汚い九龍街区での生活を強いる。お前のために、指を切り落としたのだぞと見せびらかす。なにもかも、藍豪の独りよがりでしかない。類に恨まれることは多々あろうが、感謝されることはこれっぽっちもない。
 藍豪の腹の上でぐずぐずと鼻を鳴らしていた類が、おもむろに顔を上げた。目元を濡らし、鼻の頭を赤くして、藍豪の腫れぼったい顔を見つめる。

「僕が十九歳になったら――藍豪は僕のこと、同じ大人だって認めてくれますか」
「……ああ、認めるよ」

 じゃあ、と言いかけて類がぐいと乱暴に涙を拭う。
 その顔にはすっきりとした、決意のようなものがみなぎっていた。

「僕は大人になっても、藍豪と一緒にいます。大人なんだから、なにをやっても自由なはずです。そうですよね……藍豪?」

 類の問いには答えられなかった。鎮痛剤が誘発した眠気がひたひたと藍豪の意識に忍び寄り、泥の底へ攫っていった。
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