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3章(2)
「美雨や他の娼婦にも言われたんです。これだけ多くの女性に囲まれて働いてるのに、一回も女の人を好きになったことがないのはおかしいって……」
類は縋るような目つきで藍豪を見てくる。
先ほど少女と一緒にいたのは、彼女とつき会っているからではないのか?
「僕はおかしいんでしょうか? 藍豪は、女性を好きになったことがありますか?」
類の問いは、切実な響きを帯びていた。ずっと答えを追い求めて、それでも見つからなくて、いよいよ藍豪に尋ねるしかなくなったのだ。
藍豪はずっと封じてきた、遠い記憶を呼び起こした。思い出すだけで胸が苦しくなる。けれど、類の問いに真剣に答えてやるためには話さなければならない。
息を整えて、乾ききった唇を舐める。
「一度だけ、好きになったことがある。子どもの頃の話だ」
一瞬、類の目に失望が見えたのは気のせいだろうか。
藍豪は気づかないふりをして、続ける。
「俺が好きになったのは、姉だった。姉といっても、血の繋がりはなかったが」
「藍豪の、お姉さんは……」
類の視線に同情が混ざった気がして、目を逸らす。
「そうだ、俺が十六の時に死んだ。俺は売人になってやると言ったのに――あいつは姉を殺したんだ」
まぶたの裏に、今でもありありと思い出すことができる。殺しを辞めて瑞蜜会を抜けると言った瞬間、星宇は逆上した。藍豪の姉を人質に取り、顔の形が変わるほど殴られまくって瀕死の藍豪に向かい、言い放ったのだ。
――百歩譲って、殺しを辞めることは認めてあげよう。でも、君が瑞蜜会を抜けると言うのなら、俺は今すぐ彼女の喉を掻き切る。
そして星宇は藍豪に二つの条件を出した。瑞蜜会を辞めないこと、殺しの代わりに阿片の売人となって組織のために働くこと。
藍豪はすぐさま了承した。死ぬまで働くから、彼女だけはどうか助けてくれと星宇の足に縋りついた。
頭を垂れる藍豪に、姉の喉から迸った血が降り注いだ。生温かく、鉄臭い真っ赤な血を浴びながら藍豪は誓った。いつか、吴星宇を殺す。王老板を殺して、瑞蜜会を壊滅させる。
藍豪が語るのを、類は黙って聞いていた。ずっと胸に抱え込んできた秘密を子ども相手に話すのは、些か抵抗があった。それでも最後まで話せたのは、類が藍豪に悩みを打ち明け、真剣に答えを求めてきたからだろう。
三年間同じ部屋に暮らしてきて、ここまで深い話をするのははじめてだった。
「姉以外、好きになれそうな人はいないな。それに、お前はまだ自分の村と九龍街区の中しか知らないようなもんだ。大人になって外の世界を見れば、好きになれる女の一人や二人、簡単に見つかるだろ」
藍豪はそう締めくくって、手元に目を落とした。小指と薬指がなくなった左手。類を安全に十九歳まで育てるために、払った代償。
あの時、藍豪が命を投げ出せば――姉を助けることができたのだろうか。類の七年が指二本なら、姉の一生は藍豪の命だけでは足りないかもしれない。
取り留めもない想像を断ち切ったのは、類の苦悩に満ちたため息だった。
「藍豪は――僕が男の人を好きだと言ったら、笑いますか」
藍豪はようやく、類が本当に聞きたかったことはこれなのだと悟った。女性を好きになるかどうかは、ただの世間話のようなものだったのだ。
藍豪は努めて、いつもと同じ口調で言った。
「笑うわけないだろ。誰を好きになろうが、自由だ」
藍豪が同性愛に偏見を持つ人間なら、とっくに隣人の張静月とは縁を切っている。彼は男娼として、男性相手の商売をしている。もしかしたら藍豪よりよほど、静月のほうが類の相談相手としてふさわしいかもしれない。
今日の飯にありつけるかもわからない九龍街区で、他人の趣味嗜好を気にしている暇はない。藍豪だけでなく、九龍街区全体がそうなのだ。いちいち他人の恋愛事情に首を突っ込むような暇人はいないし、そんな暇があったら缶拾いでもしたほうがいい。
類はなにかを決心したように大きく息を吸い、まっすぐに藍豪を見つめた。瞳の中で黒と紫が混じり合い、電球の明かりでみるみる色が変化していく。
「李藍豪」
類が決意のこもった声で、藍豪の名を呼ぶ。
「僕は、藍豪のことが好きです」
「それは――」
「命の恩人として、家族として、ということではありません。僕はあなたの、恋人になりたいのです」
急に空気の流れがゆったりと感じられた。類は熱のこもったまなざしで藍豪を見ている。
藍豪はどうすれば類を傷つけずに済むか、必死に頭の中で言葉を巡らせながら戸惑いがちに唇を開いた。
「まず、俺とお前とじゃ歳が離れすぎてる。十五歳のお前から見たら、二十九歳なんか爺もいいところだろ?」
「珠蘭はもう四十代ですが、二十歳の男性とつき合っています」
「じゃあ、あれだ。その……まだだめだ」
「まだ?」
期待を持たせるようなことは言ってはいけない。しかし、類を傷つけずにこの場を切り抜けるにはこうするしかないのだ。
醜い言い訳と嘘ばかりを重ね続ける類との関係は、日毎に重みを増していた。それでも藍豪は嘘をつき続けなければならない。嘘の上に嘘を塗り重ねて、完璧な偶像である李藍豪を作り上げるのだ。
「お前が大人になったら、考えてやる。いいか、二十九のおっさんが十五歳に手出してみろ。それこそ珠蘭に九龍街区を追い出されかねない」
類の顔にじわじわと喜びが広がるのを、藍豪は見ていられなかった。
こうしてまた、本当のことが言えなくなる。類の家族を殺し、村を焼いたのは藍豪だ。類に慕われるような人間では、到底ない。
類は縋るような目つきで藍豪を見てくる。
先ほど少女と一緒にいたのは、彼女とつき会っているからではないのか?
「僕はおかしいんでしょうか? 藍豪は、女性を好きになったことがありますか?」
類の問いは、切実な響きを帯びていた。ずっと答えを追い求めて、それでも見つからなくて、いよいよ藍豪に尋ねるしかなくなったのだ。
藍豪はずっと封じてきた、遠い記憶を呼び起こした。思い出すだけで胸が苦しくなる。けれど、類の問いに真剣に答えてやるためには話さなければならない。
息を整えて、乾ききった唇を舐める。
「一度だけ、好きになったことがある。子どもの頃の話だ」
一瞬、類の目に失望が見えたのは気のせいだろうか。
藍豪は気づかないふりをして、続ける。
「俺が好きになったのは、姉だった。姉といっても、血の繋がりはなかったが」
「藍豪の、お姉さんは……」
類の視線に同情が混ざった気がして、目を逸らす。
「そうだ、俺が十六の時に死んだ。俺は売人になってやると言ったのに――あいつは姉を殺したんだ」
まぶたの裏に、今でもありありと思い出すことができる。殺しを辞めて瑞蜜会を抜けると言った瞬間、星宇は逆上した。藍豪の姉を人質に取り、顔の形が変わるほど殴られまくって瀕死の藍豪に向かい、言い放ったのだ。
――百歩譲って、殺しを辞めることは認めてあげよう。でも、君が瑞蜜会を抜けると言うのなら、俺は今すぐ彼女の喉を掻き切る。
そして星宇は藍豪に二つの条件を出した。瑞蜜会を辞めないこと、殺しの代わりに阿片の売人となって組織のために働くこと。
藍豪はすぐさま了承した。死ぬまで働くから、彼女だけはどうか助けてくれと星宇の足に縋りついた。
頭を垂れる藍豪に、姉の喉から迸った血が降り注いだ。生温かく、鉄臭い真っ赤な血を浴びながら藍豪は誓った。いつか、吴星宇を殺す。王老板を殺して、瑞蜜会を壊滅させる。
藍豪が語るのを、類は黙って聞いていた。ずっと胸に抱え込んできた秘密を子ども相手に話すのは、些か抵抗があった。それでも最後まで話せたのは、類が藍豪に悩みを打ち明け、真剣に答えを求めてきたからだろう。
三年間同じ部屋に暮らしてきて、ここまで深い話をするのははじめてだった。
「姉以外、好きになれそうな人はいないな。それに、お前はまだ自分の村と九龍街区の中しか知らないようなもんだ。大人になって外の世界を見れば、好きになれる女の一人や二人、簡単に見つかるだろ」
藍豪はそう締めくくって、手元に目を落とした。小指と薬指がなくなった左手。類を安全に十九歳まで育てるために、払った代償。
あの時、藍豪が命を投げ出せば――姉を助けることができたのだろうか。類の七年が指二本なら、姉の一生は藍豪の命だけでは足りないかもしれない。
取り留めもない想像を断ち切ったのは、類の苦悩に満ちたため息だった。
「藍豪は――僕が男の人を好きだと言ったら、笑いますか」
藍豪はようやく、類が本当に聞きたかったことはこれなのだと悟った。女性を好きになるかどうかは、ただの世間話のようなものだったのだ。
藍豪は努めて、いつもと同じ口調で言った。
「笑うわけないだろ。誰を好きになろうが、自由だ」
藍豪が同性愛に偏見を持つ人間なら、とっくに隣人の張静月とは縁を切っている。彼は男娼として、男性相手の商売をしている。もしかしたら藍豪よりよほど、静月のほうが類の相談相手としてふさわしいかもしれない。
今日の飯にありつけるかもわからない九龍街区で、他人の趣味嗜好を気にしている暇はない。藍豪だけでなく、九龍街区全体がそうなのだ。いちいち他人の恋愛事情に首を突っ込むような暇人はいないし、そんな暇があったら缶拾いでもしたほうがいい。
類はなにかを決心したように大きく息を吸い、まっすぐに藍豪を見つめた。瞳の中で黒と紫が混じり合い、電球の明かりでみるみる色が変化していく。
「李藍豪」
類が決意のこもった声で、藍豪の名を呼ぶ。
「僕は、藍豪のことが好きです」
「それは――」
「命の恩人として、家族として、ということではありません。僕はあなたの、恋人になりたいのです」
急に空気の流れがゆったりと感じられた。類は熱のこもったまなざしで藍豪を見ている。
藍豪はどうすれば類を傷つけずに済むか、必死に頭の中で言葉を巡らせながら戸惑いがちに唇を開いた。
「まず、俺とお前とじゃ歳が離れすぎてる。十五歳のお前から見たら、二十九歳なんか爺もいいところだろ?」
「珠蘭はもう四十代ですが、二十歳の男性とつき合っています」
「じゃあ、あれだ。その……まだだめだ」
「まだ?」
期待を持たせるようなことは言ってはいけない。しかし、類を傷つけずにこの場を切り抜けるにはこうするしかないのだ。
醜い言い訳と嘘ばかりを重ね続ける類との関係は、日毎に重みを増していた。それでも藍豪は嘘をつき続けなければならない。嘘の上に嘘を塗り重ねて、完璧な偶像である李藍豪を作り上げるのだ。
「お前が大人になったら、考えてやる。いいか、二十九のおっさんが十五歳に手出してみろ。それこそ珠蘭に九龍街区を追い出されかねない」
類の顔にじわじわと喜びが広がるのを、藍豪は見ていられなかった。
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