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4章(2)
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稀豆粉の店は、飲食店が立ち並ぶ通りの一角にあった。九龍街区と吴星宇の屋敷のちょうど中間地点になるだろう。類はすでに何度か食べに来ているらしく慣れた様子で店に入り、店主らしき中年の男と挨拶を交わしながら、注文まで終えたようだった。類がグラスに水を注ぎ、藍豪に手渡す。
財布を出そうとする藍豪の手を、類がやんわりと押し止めた。
「僕が誘ったんだから、僕が払います」
藍豪は舌打ちをして、財布をポケットにしまった。類はどことなく、吴星宇に似てきた気がする。自分の中の類は、いつまでも藍豪の後ろをついて回る子どもだ。日に日に、現実と理想の乖離が大きくなっていく。類が大人になっていくことを受け入れられない。立派に育てたんだから、もう十分だろうと呆れ返った様子で珠蘭に言われたことを、藍豪はずっと引きずっていた。
「吴大人が、藍豪のことを心配していましたよ」
「明日の香港は秋の豪雨だろうな」
「働きすぎて躰を壊されたら困るって」
星宇が心配しているのは藍豪の躰ではない。瑞蜜会の未来だ。沈殺しを請け負ったのが藍豪しかいない今、藍豪に脱落されては困るということだろう。類が星宇のことを吴大人なんて敬称をつけて呼んでいるのも気に入らない。類にとって星宇はたしかに目上の人間ではあるが、類が裏社会に染まってしまったような感じがして、どうにも好きになれないのだった。
「そういえば静月が死んだ時のこと、覚えていますか」
懐かしい名前だった。張静月の死後、隣室はずっと空いたままだ。ふいに、死に際に書かれた文字のことを思い出した。彼は藍豪に、どんな言葉を遺したのだろう。
「藍豪の手のひらに書かれていた文字のことを、この前急に思い出したんです」
「あれは、なんて書いてあったんだ?」
内心、気が急いている。あの文字の意味がわかれば、静月の仇を取れるかもしれない。
しかし藍豪の思いとは裏腹に、類は肩をすくめてさらりと言い放った。
「別に、特別なことじゃありません。『水滴石穿』ですよ」
「水滴石穿?」
「小さな水滴が、やがて大きな石を貫く。そういう意味の諺です」
藍豪にはなんのことかわからなかった。自分の学がないせいだろうか。静月が命がけで遺したものを、すこしもわかってやれないなんて。
静月に心の中で詫びながら類と二、三言会話を交わしていると、テーブルの上に次々に皿が並べられていく。一番大きな皿に入った、淡い黄色のどろりとしたものが稀豆粉だろう。スプーンですくうともったりとしていて、そのまま食べるものなのか迷うところだ。
「はじめてなら、薬味を混ぜて食べるといいですよ。麺も追加できますけど、注文しますか?」
「いや、いい」
なかなか手をつけようとしない藍豪を見かねた類が、食べ方を見せてくれる。類は稀豆粉に刻まれた青菜や唐辛子、にんにくなどをどっさり入れると、ぐるぐるとスプーンでかき混ぜてから口に運んだ。
藍豪は試しにすこしだけスプーンですくい、舐めてみた。ほとんど味がしない。うっすらと塩味を感じるだけだ。見よう見まねで薬味を入れ、混ぜてみる。店の壁に稀豆粉の作り方らしきものが書かれていたが、文字の読めない藍豪にとってはまるで意味のないものだった。
薬味を混ぜてから食べてみると、雲南名物といわれるのもよくわかる味だ。薬味によってほんのりと豆の味が引き立ち、油っぽさもなくて食べやすい。朝からなにも食べていない空っぽの胃にはちょうどいい代物だった。
「うまいな、これ」
「でしょう? 僕の姉も、稀豆粉を作るのがとても上手かったんです」
類の無邪気な思い出話で、胃に入った稀豆粉が重たくなるのを感じた。グラスの水を飲んで、息を整える。
やはり、今すぐにでも類に本当のことを言わなければならない。類の村は瑞蜜会の阿片栽培地として、変わり果てている。その片棒を担いだのは藍豪だ。いくら吴星宇の指示でやったことだとしても、藍豪が加担した事実は変わらない。
懸念はもうひとつある。それは類が藍豪の「三千龍団が類の村を焼いた」という言葉を信じて、瑞蜜会に入ったのではないかということだ。瑞蜜会に入り、自分の村を焼いた三千龍団に復讐する。今後、両者が抗争になった時、類の復讐心が瑞蜜会にとって都合のいいように使われてしまうのではないか。
本当は、類と三千龍団にはなんの関係もない。藍豪のついた嘘が、類の将来を歪めたのだとしたら。
話すなら、今しかない。沈殺しを決行する前に、藍豪は類と向き合うことに決めた。
スプーンを置いた藍豪を見て、類が首をかしげる。
「お前に、話があるんだ」
なんとか絞り出した声は、固く強張っていた。藍豪の緊張が伝播したように、類もスプーンを置いて姿勢を正す。
「俺はお前に――ずっと、嘘をついてきた」
喉元まで出かかった言葉が、ぐっと腹の底に沈み込む。唇が上手く動かない。舌が張りつき、藍豪は気持ちをなだめるようにグラスに残った水を飲み干した。緊張のせいか、手が震えて落ち着かない。
「藍豪?」
異変を感じ取った類が、怪訝そうに藍豪の名前を呼ぶ。
躰の底から湧き上がってきたのは、強烈な睡魔だった。先ほどまでの緊張はどこかに吹っ飛び、眠くて仕方がない。意志の力でなんとかまぶたを持ち上げているが、自分でも本当に目が開いているのかすらわからない。
落ちそうになる頭を持ち上げ、向かいに座る類を見る。
「なん、で――」
類は、笑っていた。子どもの頃のように、藍豪に遠慮しているようなぎこちない微笑みではない。獰猛で、冷酷で、吴星宇がまれに見せる笑みにそっくりだった。
躰が鉛のように重い。立ち上がろうにも、指一本さえ満足に動かせない。自分の意思とは裏腹に頭を持ち上げることができず、テーブルに突っ伏す。足の先からずるずると気力が抜けていくような感覚がある。
「藍豪。家に帰りましょう」
類に嵌められたと気づいた時には、もう遅かった。藍豪はまぶたを下ろし、泥のような眠りに身を落とした。
財布を出そうとする藍豪の手を、類がやんわりと押し止めた。
「僕が誘ったんだから、僕が払います」
藍豪は舌打ちをして、財布をポケットにしまった。類はどことなく、吴星宇に似てきた気がする。自分の中の類は、いつまでも藍豪の後ろをついて回る子どもだ。日に日に、現実と理想の乖離が大きくなっていく。類が大人になっていくことを受け入れられない。立派に育てたんだから、もう十分だろうと呆れ返った様子で珠蘭に言われたことを、藍豪はずっと引きずっていた。
「吴大人が、藍豪のことを心配していましたよ」
「明日の香港は秋の豪雨だろうな」
「働きすぎて躰を壊されたら困るって」
星宇が心配しているのは藍豪の躰ではない。瑞蜜会の未来だ。沈殺しを請け負ったのが藍豪しかいない今、藍豪に脱落されては困るということだろう。類が星宇のことを吴大人なんて敬称をつけて呼んでいるのも気に入らない。類にとって星宇はたしかに目上の人間ではあるが、類が裏社会に染まってしまったような感じがして、どうにも好きになれないのだった。
「そういえば静月が死んだ時のこと、覚えていますか」
懐かしい名前だった。張静月の死後、隣室はずっと空いたままだ。ふいに、死に際に書かれた文字のことを思い出した。彼は藍豪に、どんな言葉を遺したのだろう。
「藍豪の手のひらに書かれていた文字のことを、この前急に思い出したんです」
「あれは、なんて書いてあったんだ?」
内心、気が急いている。あの文字の意味がわかれば、静月の仇を取れるかもしれない。
しかし藍豪の思いとは裏腹に、類は肩をすくめてさらりと言い放った。
「別に、特別なことじゃありません。『水滴石穿』ですよ」
「水滴石穿?」
「小さな水滴が、やがて大きな石を貫く。そういう意味の諺です」
藍豪にはなんのことかわからなかった。自分の学がないせいだろうか。静月が命がけで遺したものを、すこしもわかってやれないなんて。
静月に心の中で詫びながら類と二、三言会話を交わしていると、テーブルの上に次々に皿が並べられていく。一番大きな皿に入った、淡い黄色のどろりとしたものが稀豆粉だろう。スプーンですくうともったりとしていて、そのまま食べるものなのか迷うところだ。
「はじめてなら、薬味を混ぜて食べるといいですよ。麺も追加できますけど、注文しますか?」
「いや、いい」
なかなか手をつけようとしない藍豪を見かねた類が、食べ方を見せてくれる。類は稀豆粉に刻まれた青菜や唐辛子、にんにくなどをどっさり入れると、ぐるぐるとスプーンでかき混ぜてから口に運んだ。
藍豪は試しにすこしだけスプーンですくい、舐めてみた。ほとんど味がしない。うっすらと塩味を感じるだけだ。見よう見まねで薬味を入れ、混ぜてみる。店の壁に稀豆粉の作り方らしきものが書かれていたが、文字の読めない藍豪にとってはまるで意味のないものだった。
薬味を混ぜてから食べてみると、雲南名物といわれるのもよくわかる味だ。薬味によってほんのりと豆の味が引き立ち、油っぽさもなくて食べやすい。朝からなにも食べていない空っぽの胃にはちょうどいい代物だった。
「うまいな、これ」
「でしょう? 僕の姉も、稀豆粉を作るのがとても上手かったんです」
類の無邪気な思い出話で、胃に入った稀豆粉が重たくなるのを感じた。グラスの水を飲んで、息を整える。
やはり、今すぐにでも類に本当のことを言わなければならない。類の村は瑞蜜会の阿片栽培地として、変わり果てている。その片棒を担いだのは藍豪だ。いくら吴星宇の指示でやったことだとしても、藍豪が加担した事実は変わらない。
懸念はもうひとつある。それは類が藍豪の「三千龍団が類の村を焼いた」という言葉を信じて、瑞蜜会に入ったのではないかということだ。瑞蜜会に入り、自分の村を焼いた三千龍団に復讐する。今後、両者が抗争になった時、類の復讐心が瑞蜜会にとって都合のいいように使われてしまうのではないか。
本当は、類と三千龍団にはなんの関係もない。藍豪のついた嘘が、類の将来を歪めたのだとしたら。
話すなら、今しかない。沈殺しを決行する前に、藍豪は類と向き合うことに決めた。
スプーンを置いた藍豪を見て、類が首をかしげる。
「お前に、話があるんだ」
なんとか絞り出した声は、固く強張っていた。藍豪の緊張が伝播したように、類もスプーンを置いて姿勢を正す。
「俺はお前に――ずっと、嘘をついてきた」
喉元まで出かかった言葉が、ぐっと腹の底に沈み込む。唇が上手く動かない。舌が張りつき、藍豪は気持ちをなだめるようにグラスに残った水を飲み干した。緊張のせいか、手が震えて落ち着かない。
「藍豪?」
異変を感じ取った類が、怪訝そうに藍豪の名前を呼ぶ。
躰の底から湧き上がってきたのは、強烈な睡魔だった。先ほどまでの緊張はどこかに吹っ飛び、眠くて仕方がない。意志の力でなんとかまぶたを持ち上げているが、自分でも本当に目が開いているのかすらわからない。
落ちそうになる頭を持ち上げ、向かいに座る類を見る。
「なん、で――」
類は、笑っていた。子どもの頃のように、藍豪に遠慮しているようなぎこちない微笑みではない。獰猛で、冷酷で、吴星宇がまれに見せる笑みにそっくりだった。
躰が鉛のように重い。立ち上がろうにも、指一本さえ満足に動かせない。自分の意思とは裏腹に頭を持ち上げることができず、テーブルに突っ伏す。足の先からずるずると気力が抜けていくような感覚がある。
「藍豪。家に帰りましょう」
類に嵌められたと気づいた時には、もう遅かった。藍豪はまぶたを下ろし、泥のような眠りに身を落とした。
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