【完結】九龍街区の売人は偽りの少年と極彩色の夢を見ない【R18】

古都まとい

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5章(2)

 種まき前の休暇に出ていた農夫たちが戻ってきたのは、藍豪ランハオが村に連れて来られてから五日目のことだった。
 だだっ広い畑に、ぽつぽつと人の姿が見える。屋敷の窓からでは遠すぎてなにをしているかまではよく見えなかったが、レイの話によれば二、三日中には畑を耕し終わり、種まきまで済ませるとのことだった。

「春になれば花が咲いて、あたり一面が真っ赤になるんですよ」

 類は寝台に腰掛け、窓の外を見ているような遠い目をして言った。その瞳にわずかな濁りを見て、藍豪は眉をひそめる。

「お前……」

 最後まで言えなかった。類の顔がこちらを向き、藍豪をじっと見つめる。
 類の抜けるように白い肌は、白さを通り越して血管が透けるほど青白い。さらさらと流れる、細い黒髪が目に差し込んだ陰りを覆い隠している。
 聞けるわけがない。阿片をやっているのではないか、なんて。

 まさか類に限って、そんなことはないと思いたい。
 しかし、ここのところの類はおかしな行動が増えた。暴力に身を任せて荒々しく藍豪を抱いたかと思うと、次の日にはまるで別人のように落ち込み、藍豪がいくら呼びかけても部屋から出てこない。藍豪と話していても上の空なことが増え、目つきはそわそわと常になにかを探しているように落ち着かない。
 顔色の悪さも、こけた頬も、すべて藍豪が九龍街区で見てきた阿片中毒者にそっくりだった。
 そして、なにより。藍豪は類の黒と紫の混じり合う綺麗な瞳が濁っていくのを許せなかった。

「僕の顔に、なにかついてます?」

 藍豪がなにも言わずに類の顔を凝視していたからだろう。類が目を細めて、藍豪の胸の内を探るような視線を送ってくる。

「いや――」
「遠慮しないでください」

 類はまるで藍豪がなにを言おうとしているか、すべてわかっているような口ぶりで言った。藍豪に合わせられていた視点がぼんやりと遠くへ行き、また窓の外を見る。藍豪もつられて、わけもなく外を見た。
 あいかわらず豆粒くらいに小さな人影が、茶色一色の畑の上をもぞもぞと動いている。この一見なんの変哲もないただの畑から、莫大な富が生まれるのだ。藍豪が近年売りさばいていた阿片も、ここ雲南で作られたものだろう。

「なんで瑞蜜会ルイミーフイに入ったんだ」

 ぽつりと、藍豪の口から自然に言葉がこぼれ落ちる。思えば、類に直接聞いたことはなかった。きっとこうだろうと、藍豪が勝手に決めつけた理由を信じていただけだ。
 類は窓の外を見たまま、口を開いた。

「香港から、阿片を消し去るためですよ」

 じっとりと重い言葉が、藍豪を取り巻く。

「香港を拠点とする組織で大規模な阿片栽培地を持っているのは、瑞蜜会と三千龍団サンチェンロンだけです。この二つを潰せば、香港から阿片取引を一掃できるといってもいい。現実的には、上海あたりからまた流れてくるだけでしょうけど」

 類の復讐の矛先は、藍豪なんてちっぽけな存在に向けられたものではなかった。もっと大きな、阿片という元凶から根絶やしにしようとしているのだ。類はそのために、すでに動き出しているに違いない。藍豪を雲南に拉致し、藍豪の予定とは異なる方法で三千龍団のシェンを殺したのも、計画の一部のような気がしてならなかった。

「なら、どうして――」

 藍豪はどうしても解せなかった。類の曖昧とした視線が、藍豪へ向けられる。

「どうしてお前は、阿片に手を出したんだ?」

 類は意外そうに目を見開くと、くすくすと笑った。

「気づいてたんですか」
「気づかないわけがあるかよ。何年も売人やって、毎日のように中毒者を見てきたんだぞ」
「僕は藍豪の目に、どんなふうに映っているんですか?」

 投げやりにも見える類の視線から目を逸らし、藍豪はうつむく。

「なんというか……変わったよ、お前は」

 昔の類に戻ってほしいと思うのは、藍豪の傲慢だろうか。類から家族や家を奪ったのは自分なのに。こんなことを言いたいのではない。もっと、類にかけるべき言葉があるはずだ。
 しかし一方で、藍豪がどんなに言葉を尽くしても類を変えることはできない。それもわかっていた。
 顔を上げて、類の目を見る。七年前に路地で見たあの宇宙のようにきらめく瞳は、すっかりもやがかかったように濁ってしまっている。
 藍豪は無意識のうちに、類の頬へ手を伸ばしていた。

「俺は、お前の目が好きだ。道でぶっ倒れてるお前が目を開けて、俺を見た時――絶対に助けなきゃいけないと思った」

 類が、かすかに息を飲む。藍豪が親指の腹で、痩せた類の頬を撫でる。

「お前から全部奪った俺がこんなこと言う資格がないのはわかってる。でも、俺はお前に……こんなことをしてほしくて助けたんじゃない」

 類が痛みをこらえるような顔をして、視線を落とす。その視線の先に、藍豪の左手がある。三本指の左手。類のために失った小指と薬指。そこにないはずの指が、類の視線に耐えかねたように痛む。
 藍豪は類から手を引くと、左手を掲げ、窓から差し込む陽にかざした。

「俺の七年は、悪くなかった」

 意識せずともよみがえる。霧雨が降る九龍街区の路地。ウー星宇シンユーにらしくないと笑われた。四畳の狭すぎる部屋での共同生活。ぐんぐん身長の伸びる類に、とにかく腹いっぱい食べさせてやろうとがむしゃらに働いた。類のためなら、左手を丸ごと失っても惜しくないと思った。

「お前の七年は、どうだった」

 類の喉から、かすかな呻きが漏れる。
 藍豪に対する情と憎しみとが混じり合った歪な表情をして、類は藍豪を寝台の上に突き飛ばした。仰向けに転がった藍豪にのしかかり、骨張った指を首に絡める。

「僕を変えてしまったのはあなたでしょう、リー藍豪ランハオ! あなたの気まぐれで、僕は……!」

 首にかかった指が震える。藍豪は抵抗もせず、手足を寝台に投げ出して類に身を委ねた。

「類、お前の気が済むなら俺を殺せばいい。だけど、約束してくれ」

 最期かもしれないと思い、肺いっぱいに空気を吸い込む。
 藍豪は血走った類の目をまっすぐに見上げた。

「俺を殺したら――瑞蜜会を抜けて、阿片もやめてくれ」

 類の手がぶるぶると震える。氷のように冷たい指が頸動脈を絞め、藍豪の喉仏を押し潰す。
 これでいい。類に殺されるのなら、本望だ。

「絶対に――」

 ふいに、首を絞めていた手が緩んだ。どっと空気が躰に流れ込み、細胞に酸素が行き渡る。藍豪は生理的な咳に躰を折りながら、類を見上げた。
 類が藍豪に体重を預けるように、しなだれかかってくる。

「絶対に、あなたを殺したりなんかしません……全部終わったら、藍豪は僕と一緒に、地獄へ堕ちるんですから」

呪詛のような言葉を吐いて、類は藍豪にすがりつく。
七年前より遥かに重くなったその躰を抱きとめながら、藍豪は深く息を吐いた。
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