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6章(2)
ガタゴトと耳障りな音が頭の中で鳴り響いている。歩いていないのに、躰はどこかへ運ばれているようだ。
藍豪はもう一度沈みそうになる意識をなんとか引き止め、うっすらとまぶたを持ち上げた。
雲ひとつない淡い水色の空が、視界いっぱいに広がる。周りの木々がみるみるうちに流れていく。重たく締めつけるような痛みを発する頭を持ち上げて、躰を起こす。
藍豪は、荷車の上に乗せられていた。舗装されていない土の道を、荷車のタイヤが踏みしめている。ゴトゴトと揺られ、まるで自分が市場へ売られに行く豚になった気分だ。
「ああ、よかった。目が覚めたんすね」
荷車を後ろから押していた男が、起き上がった藍豪を見て声をかける。まだ二十代かそこらの、若い男だ。男の声を聞いて、前で荷車を引いている男も振り返る。こちらは四十代くらい、藍豪より年上に見えた。
「村まではまだかかるから、寝ていたほうがいい」
男はぶっきらぼうにそう言って、前に向き直った。
藍豪の乗っている荷台部分には毛布がこんもりと敷き詰められていて、寒さや尻が痛くなるような木の硬さを感じることはない。寝ているうちに目的地に着いてしまう、夢のような動く寝台に乗っている気分だ。
しかし、なぜ。自分はこんなところで荷車に揺られているのだろう。目を閉じる前の記憶を思い出そうとするが、上手くいかない。
自分は類の阿片中毒を治してもらうために、村を出て香港へ戻ろうとしたはずだ。黙々と歩き通して、ひとつめの山を越えたところまでは覚えている。それから――それから、どうした?
ふいに、荷車を押している若い男と目が合う。
「俺は……なんでこんなところにいるんだ?」
藍豪の問い、男は目を丸くした。
「なにも覚えてないんすか?」
藍豪は正直にうなずく。自分がいつ荷車に乗ったかなど、まったく記憶にない。ひとつ山を越えて、次の瞬間にはここにいた。途中の記憶が、すっぽりと抜けてしまっている。
「あんたが村からいなくなったって旦那が大騒ぎして、畑休んで皆で手分けして捜すことになったんすよ。で、そっちの山越えたところでぶっ倒れてるあんたを俺らが見つけて、村に戻ってるって感じっすね」
「倒れていた? 俺が?」
「はい。飲まず食わずで二日くらい歩いてたんじゃないすか?」
男が憐れみの視線を向けてくるが、藍豪には覚えがない。きっと相当頭の悪い奴だと思っていることだろう。勇み足で村を出て行ったというのに、ろくに山越えの準備もせずに、挙げ句すこし山を越えただけで倒れてしまうなんて。類にも、農夫たちにもかなり迷惑をかけた。
若さとともにこういった無鉄砲なところは失ったと思っていたが、類が絡むと話は別らしい。歩いての山越えが無理なら、なんとか迎えの車を呼び寄せなければならない。類を説得して瑞蜜会に連絡してもらうのが早いか。
藍豪は後悔と不甲斐なさを溜め込んだまま、不規則に揺れる荷車の上で膝を抱えた。
◇ ◇ ◇
屋敷に帰り着いて簡単に湯を浴び、宿舎でもらってきた蒸しパンで腹を満たす。
類の自室の前まで来て、藍豪は緊張を解くように大きく深呼吸した。分厚い扉をノックすると、くぐもった声が返ってくる。
藍豪が部屋に入っても、類は背を向けたままだった。寝台の上に横たわり、翡翠のパイプをふかしている。パイプの先からゆるりと立ち上る煙に、藍豪は顔をしかめた。なんの匂いもしないからこそ、燃えているのが煙草ではなく阿片だとわかる。
類の顔が見えるように、扉を閉めて寝台をぐるりと回る。椅子を引き寄せて枕元のそばに座ると、焦点の合っていなかった類の目がゆっくりと藍豪のほうを向き、像を結んだ。
「外は、楽しかったですか」
怒るでもなく、悲しんでいるわけでもない。感情のまったく読めない、空虚な言葉が放たれる。
藍豪は見るに耐えず、視線を逸らした。快活だった頃の類は、どこにもいなかった。青白い顔に生気はない。瞳はぽっかりと真っ暗で、なにも映していない。藍豪より十以上若いはずなのに、躰を包む空気は藍豪よりずっと老いている。
直感的に、もう先は長くないだろうと思った。類の部屋には、死の香りが濃厚に漂っている。ここにいるだけで、藍豪まで老け込んでいくかのようだ。
「藍豪」
すうっと消え入りそうな声で、類は藍豪の名を呼んだ。おそるおそる顔を上げる。阿片が効いてきたのか、先ほどより幾分晴れやかな顔をした類が意外なほど優しい目つきで藍豪を見つめている。
類に手招きされ、藍豪は顔を寄せた。冷たい指が、藍豪の右手を絡め取る。
「藍豪。僕を、殺してください」
類の手に導かれ、藍豪の右手が類の首にかかる。類が息を呑むと、喉仏がごろりと動く感覚が手のひらに伝わった。
類の目に、色が戻る。真っ暗だった瞳に、薄い菫色が混じる。黒と紫が、瞳の中で宇宙のように混ざり合い、きらめく。久しぶりに見る、綺麗な瞳だった。この頃ずっと厚い雲のように覆っていた濁りが取り払われ、まっすぐな光を宿して、藍豪を見ている。
折れそうなほど細い類の首に指を巻きつける。中毒で苦しんで、自我を失いながら死んでゆくのなら、いっそ自分の手で殺してしまったほうがいいのではないか。類も、藍豪に殺されることを心から望んでいるのではないか。
命が尽き、その美しい瞳が永遠の膜で閉ざされる。
藍豪の鼻をかすめたのは、九龍街区の汚い路地で嗅いだ霧雨の匂いだった。濡れた土と、すえたゴミの臭い。今よりうんと小さかった躰。薄い布団の上でわけ合った体温が、藍豪の躰にありありとよみがえる。いつから類の手は、こんなに冷たくなってしまったのだろう。七年前のあの日、自分が望んだのはこんな未来ではなかったはずだ。
「それは――できない」
藍豪は類の首から指を引き剥がすと、ひしと握られていた翡翠のパイプを奪い取った。煙を限界まで吸い込み、肺を満たす。効果が現れるまで、まだ時間がかかる。
驚いて顔を逸らした類にのしかかり、猫の毛のように細い髪を掴む。無理やり視線を合わせると、類は目にうっすらと涙を溜めて藍豪を見た。
「殺してほしいなんて、二度と言うな」
地の底から這い上がってきたような低い声で、藍豪は呟く。
類が戻って来ないのなら、俺がそっちへ行けばいい。
「お前は俺と一緒に、地獄へ堕ちるんだ」
藍豪はもう一度沈みそうになる意識をなんとか引き止め、うっすらとまぶたを持ち上げた。
雲ひとつない淡い水色の空が、視界いっぱいに広がる。周りの木々がみるみるうちに流れていく。重たく締めつけるような痛みを発する頭を持ち上げて、躰を起こす。
藍豪は、荷車の上に乗せられていた。舗装されていない土の道を、荷車のタイヤが踏みしめている。ゴトゴトと揺られ、まるで自分が市場へ売られに行く豚になった気分だ。
「ああ、よかった。目が覚めたんすね」
荷車を後ろから押していた男が、起き上がった藍豪を見て声をかける。まだ二十代かそこらの、若い男だ。男の声を聞いて、前で荷車を引いている男も振り返る。こちらは四十代くらい、藍豪より年上に見えた。
「村まではまだかかるから、寝ていたほうがいい」
男はぶっきらぼうにそう言って、前に向き直った。
藍豪の乗っている荷台部分には毛布がこんもりと敷き詰められていて、寒さや尻が痛くなるような木の硬さを感じることはない。寝ているうちに目的地に着いてしまう、夢のような動く寝台に乗っている気分だ。
しかし、なぜ。自分はこんなところで荷車に揺られているのだろう。目を閉じる前の記憶を思い出そうとするが、上手くいかない。
自分は類の阿片中毒を治してもらうために、村を出て香港へ戻ろうとしたはずだ。黙々と歩き通して、ひとつめの山を越えたところまでは覚えている。それから――それから、どうした?
ふいに、荷車を押している若い男と目が合う。
「俺は……なんでこんなところにいるんだ?」
藍豪の問い、男は目を丸くした。
「なにも覚えてないんすか?」
藍豪は正直にうなずく。自分がいつ荷車に乗ったかなど、まったく記憶にない。ひとつ山を越えて、次の瞬間にはここにいた。途中の記憶が、すっぽりと抜けてしまっている。
「あんたが村からいなくなったって旦那が大騒ぎして、畑休んで皆で手分けして捜すことになったんすよ。で、そっちの山越えたところでぶっ倒れてるあんたを俺らが見つけて、村に戻ってるって感じっすね」
「倒れていた? 俺が?」
「はい。飲まず食わずで二日くらい歩いてたんじゃないすか?」
男が憐れみの視線を向けてくるが、藍豪には覚えがない。きっと相当頭の悪い奴だと思っていることだろう。勇み足で村を出て行ったというのに、ろくに山越えの準備もせずに、挙げ句すこし山を越えただけで倒れてしまうなんて。類にも、農夫たちにもかなり迷惑をかけた。
若さとともにこういった無鉄砲なところは失ったと思っていたが、類が絡むと話は別らしい。歩いての山越えが無理なら、なんとか迎えの車を呼び寄せなければならない。類を説得して瑞蜜会に連絡してもらうのが早いか。
藍豪は後悔と不甲斐なさを溜め込んだまま、不規則に揺れる荷車の上で膝を抱えた。
◇ ◇ ◇
屋敷に帰り着いて簡単に湯を浴び、宿舎でもらってきた蒸しパンで腹を満たす。
類の自室の前まで来て、藍豪は緊張を解くように大きく深呼吸した。分厚い扉をノックすると、くぐもった声が返ってくる。
藍豪が部屋に入っても、類は背を向けたままだった。寝台の上に横たわり、翡翠のパイプをふかしている。パイプの先からゆるりと立ち上る煙に、藍豪は顔をしかめた。なんの匂いもしないからこそ、燃えているのが煙草ではなく阿片だとわかる。
類の顔が見えるように、扉を閉めて寝台をぐるりと回る。椅子を引き寄せて枕元のそばに座ると、焦点の合っていなかった類の目がゆっくりと藍豪のほうを向き、像を結んだ。
「外は、楽しかったですか」
怒るでもなく、悲しんでいるわけでもない。感情のまったく読めない、空虚な言葉が放たれる。
藍豪は見るに耐えず、視線を逸らした。快活だった頃の類は、どこにもいなかった。青白い顔に生気はない。瞳はぽっかりと真っ暗で、なにも映していない。藍豪より十以上若いはずなのに、躰を包む空気は藍豪よりずっと老いている。
直感的に、もう先は長くないだろうと思った。類の部屋には、死の香りが濃厚に漂っている。ここにいるだけで、藍豪まで老け込んでいくかのようだ。
「藍豪」
すうっと消え入りそうな声で、類は藍豪の名を呼んだ。おそるおそる顔を上げる。阿片が効いてきたのか、先ほどより幾分晴れやかな顔をした類が意外なほど優しい目つきで藍豪を見つめている。
類に手招きされ、藍豪は顔を寄せた。冷たい指が、藍豪の右手を絡め取る。
「藍豪。僕を、殺してください」
類の手に導かれ、藍豪の右手が類の首にかかる。類が息を呑むと、喉仏がごろりと動く感覚が手のひらに伝わった。
類の目に、色が戻る。真っ暗だった瞳に、薄い菫色が混じる。黒と紫が、瞳の中で宇宙のように混ざり合い、きらめく。久しぶりに見る、綺麗な瞳だった。この頃ずっと厚い雲のように覆っていた濁りが取り払われ、まっすぐな光を宿して、藍豪を見ている。
折れそうなほど細い類の首に指を巻きつける。中毒で苦しんで、自我を失いながら死んでゆくのなら、いっそ自分の手で殺してしまったほうがいいのではないか。類も、藍豪に殺されることを心から望んでいるのではないか。
命が尽き、その美しい瞳が永遠の膜で閉ざされる。
藍豪の鼻をかすめたのは、九龍街区の汚い路地で嗅いだ霧雨の匂いだった。濡れた土と、すえたゴミの臭い。今よりうんと小さかった躰。薄い布団の上でわけ合った体温が、藍豪の躰にありありとよみがえる。いつから類の手は、こんなに冷たくなってしまったのだろう。七年前のあの日、自分が望んだのはこんな未来ではなかったはずだ。
「それは――できない」
藍豪は類の首から指を引き剥がすと、ひしと握られていた翡翠のパイプを奪い取った。煙を限界まで吸い込み、肺を満たす。効果が現れるまで、まだ時間がかかる。
驚いて顔を逸らした類にのしかかり、猫の毛のように細い髪を掴む。無理やり視線を合わせると、類は目にうっすらと涙を溜めて藍豪を見た。
「殺してほしいなんて、二度と言うな」
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