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6章(3)
藍豪の願いは、通じたかに思われた。げんに類はわずかだが阿片の量を減らし、藍豪の前で吸うことはしなくなった。類が離脱症状に苦しむ時、藍豪はつきっきりでそばにいた。どれだけ殴られても、罵られても、決して手を離したりしなかったのだ。
すべてが上手くいっているように思えたのは、神が最期に見せた幻想だろうか。
類が「外の空気を吸いに行く」と言ったきり戻って来なかったのは、十一月の初旬だった。
いつもの散歩だろうと油断していたのだ。藍豪はその日のうちに農夫を総動員して村の周りを捜したが、夜になっても見つからなかった。ただ、道にはくっきりと真新しいタイヤの痕が二つ残っていた。
誰かが類を車で迎えに来たのか。三日に渡って広範囲を捜したにもかかわらず見つからないということは、とっくに雲南を出て行ってしまっていると考えるほうが自然だろう。徒歩ではそれほど遠くに行けないことは、藍豪が身をもって証明している。
なんの手がかりも掴めないまま、二週間が過ぎた。空気はぐっと冷たくなり、真冬の気配がすぐそこまで迫ってきている。
主人を失った雲南の村は、もはや崩壊しているといってもいい。最初に、体力に自信のある者が討伐隊のごとくグループを組んで村を出て行った。その一週間後、村の麓にマイクロバスが現れた。最初に旅立っていった若者たちは見事、山を越えて車を呼びに行けたのだ。
そこまでの執念に感心するとともに、藍豪は黙って農夫や連れてこられた娼婦たちがバスに乗り込むのを見ていた。自分には、彼らを引き止める権限などない。藍豪はあくまで阿片の売人であって、栽培地の管理を任されている人間ではないからだ。
藍豪は農夫たちの視線を振り切って、ひとり村に残った。阿片の栽培地になってしまっても、ここは類の故郷だ。彼がいつかふらっと村に戻ってくることを、藍豪は願っていた。類が戻ってくるまで、藍豪は冬支度を整えて屋敷にこもっているつもりだ。畑はどうでもいい。どうせ春になって花が咲き、実がついたところで収穫する人間がいない。
帰ってくる類を待つための籠城という、ゆるやかな自殺を続けているうちに藍豪は村に入ってくる人影を見た。類が消えてから、一ヶ月が経とうとしている。
藍豪は屋敷を出て、転げるように坂を下り、はっきりと見えた人影に息を呑んだ。
そこに立っていたのは類ではなく、血まみれの吴星宇だった。
「香港にいないと思ったら……」
星宇が嫌な咳をして、身をかがめる。見たところ、致命傷になるようなひどい怪我はしていない。しかし細かな切り傷や煤のような黒い汚れまでついていて、まるで戦地から帰還したばかりの兵士のような有様だった。
藍豪は星宇に手を貸して、屋敷までの長い坂を登る。どんな死地から来たのかは知らないが、まずは落ち着いて話せる場所へ移動したほうがいいだろう。星宇は片脚を引きずりながらも、意外にしっかりとした足取りで坂を登りきった。我が家のごとく馴染んだ屋敷の扉を開ける。
談話室のソファに星宇を座らせ、藍豪は水差しと度数の高い蒸留酒を用意して、向かいに腰を下ろした。香港を離れてたかだか三ヶ月ほどだというのに、星宇の顔を見るともう何年も会っていなかったような気がしてくる。彼と語る思い出はないが、積もる話はある。
だが、星宇の話を聞くほうが先だろう。藍豪が目で促すと、星宇はソファに預けていた躰を起こした。
「王老板が死んだ」
「老衰か?」
「まさか」
星宇はふっと鼻で笑ったが、すぐに顔を引き締める。この男の、人を射殺せそうなほど鋭い視線を見るのは久しぶりだ。香港でただならぬことが起こっているのは明白だった。
星宇が気つけとばかりに蒸留酒を流し込み、酒と血で濡れた唇を舐める。
「三千龍団にやられたんだよ。あいつら、俺たちが王老板の屋敷に集まる日を知っていただけじゃない。うちが持ってる阿片栽培地も、同時多発的にやられた」
そこで一度、星宇は言葉を切った。
三千龍団は構成員の数も、阿片取引における儲けも、瑞蜜会には劣っていたはずだ。だからこそ王老板は、ボスである沈を殺すまで七年の猶予を藍豪に与えてくれた。そのくらいは、余裕があったはずだ。
「王老板が死んだって、別に人を立てればいいだけだろう。お前も、生きてるんだし――」
「もうここしか残ってないんだよ、藍豪」
王老板や幹部たちは、吴星宇を残して全員殺されたという。阿片栽培地も雲南以外はすべて三千龍団に占領され、香港では残党殺しが活発に行われている。瑞蜜会はもはや、修復不可能なほど崩壊していた。
星宇は運転手を一人伴って、なんとか香港から逃げ出してきたと語った。彼には、雲南に来なければならない理由があった。
「類はどこにいるんだい?」
吴星宇の口からいずれ類の名前が出ることは予想していた。それでも、実際に類の名を聞くとショックが襲う。
藍豪は痛みを隠すように、短く「なぜ」と聞いた。星宇のため息が耳に突き刺さる。
「彼が三千龍団に情報を流していたことはわかっている。三千龍団の構成員に吐かせたし、状況から見ても瑞蜜会の人間が向こうに情報を売っていたとしか思えないんだよ」
星宇がやけに真剣な表情をして、藍豪を見る。
「俺には、始末をつける責任がある。類を瑞蜜会に入れたのも、才能を見込んで栽培地を任せたのも、俺だから――」
言い終わらないうちに、星宇は躰を二つに折って咳き込んだ。ごぷっと嫌な音がして、口元を押さえていた指の隙間から血が溢れ出す。内臓がやられているのかもしれない。よくこの躰で香港から雲南までやって来れたものだ。
「もういい、喋るな」
星宇の躰をソファへ横たわらせながら、藍豪は必死に考えを巡らせる。
類はここにはいない。考えられるのは、ひとり香港に戻ったのではないかということだ。類が三千龍団と結託して瑞蜜会の襲撃を計画したなら、香港で三千龍団の人間と一緒にいる可能性はないだろうか。
藍豪の背負う罪は、星宇の比ではない。そもそも類を拾ったのは、自分なのだから。
「下、に……」
「ああ、わかってる」
下に車を待たせている。そう言いたかったのだろう。起き上がろうとする星宇を押し留め、立ち上がる。
「俺がお前の代わりに、香港に行く」
類は結局、いつまで経っても手のかかる子どもなのだ。
「あいつのケツ拭けんのは、俺しかいないからな」
すべてが上手くいっているように思えたのは、神が最期に見せた幻想だろうか。
類が「外の空気を吸いに行く」と言ったきり戻って来なかったのは、十一月の初旬だった。
いつもの散歩だろうと油断していたのだ。藍豪はその日のうちに農夫を総動員して村の周りを捜したが、夜になっても見つからなかった。ただ、道にはくっきりと真新しいタイヤの痕が二つ残っていた。
誰かが類を車で迎えに来たのか。三日に渡って広範囲を捜したにもかかわらず見つからないということは、とっくに雲南を出て行ってしまっていると考えるほうが自然だろう。徒歩ではそれほど遠くに行けないことは、藍豪が身をもって証明している。
なんの手がかりも掴めないまま、二週間が過ぎた。空気はぐっと冷たくなり、真冬の気配がすぐそこまで迫ってきている。
主人を失った雲南の村は、もはや崩壊しているといってもいい。最初に、体力に自信のある者が討伐隊のごとくグループを組んで村を出て行った。その一週間後、村の麓にマイクロバスが現れた。最初に旅立っていった若者たちは見事、山を越えて車を呼びに行けたのだ。
そこまでの執念に感心するとともに、藍豪は黙って農夫や連れてこられた娼婦たちがバスに乗り込むのを見ていた。自分には、彼らを引き止める権限などない。藍豪はあくまで阿片の売人であって、栽培地の管理を任されている人間ではないからだ。
藍豪は農夫たちの視線を振り切って、ひとり村に残った。阿片の栽培地になってしまっても、ここは類の故郷だ。彼がいつかふらっと村に戻ってくることを、藍豪は願っていた。類が戻ってくるまで、藍豪は冬支度を整えて屋敷にこもっているつもりだ。畑はどうでもいい。どうせ春になって花が咲き、実がついたところで収穫する人間がいない。
帰ってくる類を待つための籠城という、ゆるやかな自殺を続けているうちに藍豪は村に入ってくる人影を見た。類が消えてから、一ヶ月が経とうとしている。
藍豪は屋敷を出て、転げるように坂を下り、はっきりと見えた人影に息を呑んだ。
そこに立っていたのは類ではなく、血まみれの吴星宇だった。
「香港にいないと思ったら……」
星宇が嫌な咳をして、身をかがめる。見たところ、致命傷になるようなひどい怪我はしていない。しかし細かな切り傷や煤のような黒い汚れまでついていて、まるで戦地から帰還したばかりの兵士のような有様だった。
藍豪は星宇に手を貸して、屋敷までの長い坂を登る。どんな死地から来たのかは知らないが、まずは落ち着いて話せる場所へ移動したほうがいいだろう。星宇は片脚を引きずりながらも、意外にしっかりとした足取りで坂を登りきった。我が家のごとく馴染んだ屋敷の扉を開ける。
談話室のソファに星宇を座らせ、藍豪は水差しと度数の高い蒸留酒を用意して、向かいに腰を下ろした。香港を離れてたかだか三ヶ月ほどだというのに、星宇の顔を見るともう何年も会っていなかったような気がしてくる。彼と語る思い出はないが、積もる話はある。
だが、星宇の話を聞くほうが先だろう。藍豪が目で促すと、星宇はソファに預けていた躰を起こした。
「王老板が死んだ」
「老衰か?」
「まさか」
星宇はふっと鼻で笑ったが、すぐに顔を引き締める。この男の、人を射殺せそうなほど鋭い視線を見るのは久しぶりだ。香港でただならぬことが起こっているのは明白だった。
星宇が気つけとばかりに蒸留酒を流し込み、酒と血で濡れた唇を舐める。
「三千龍団にやられたんだよ。あいつら、俺たちが王老板の屋敷に集まる日を知っていただけじゃない。うちが持ってる阿片栽培地も、同時多発的にやられた」
そこで一度、星宇は言葉を切った。
三千龍団は構成員の数も、阿片取引における儲けも、瑞蜜会には劣っていたはずだ。だからこそ王老板は、ボスである沈を殺すまで七年の猶予を藍豪に与えてくれた。そのくらいは、余裕があったはずだ。
「王老板が死んだって、別に人を立てればいいだけだろう。お前も、生きてるんだし――」
「もうここしか残ってないんだよ、藍豪」
王老板や幹部たちは、吴星宇を残して全員殺されたという。阿片栽培地も雲南以外はすべて三千龍団に占領され、香港では残党殺しが活発に行われている。瑞蜜会はもはや、修復不可能なほど崩壊していた。
星宇は運転手を一人伴って、なんとか香港から逃げ出してきたと語った。彼には、雲南に来なければならない理由があった。
「類はどこにいるんだい?」
吴星宇の口からいずれ類の名前が出ることは予想していた。それでも、実際に類の名を聞くとショックが襲う。
藍豪は痛みを隠すように、短く「なぜ」と聞いた。星宇のため息が耳に突き刺さる。
「彼が三千龍団に情報を流していたことはわかっている。三千龍団の構成員に吐かせたし、状況から見ても瑞蜜会の人間が向こうに情報を売っていたとしか思えないんだよ」
星宇がやけに真剣な表情をして、藍豪を見る。
「俺には、始末をつける責任がある。類を瑞蜜会に入れたのも、才能を見込んで栽培地を任せたのも、俺だから――」
言い終わらないうちに、星宇は躰を二つに折って咳き込んだ。ごぷっと嫌な音がして、口元を押さえていた指の隙間から血が溢れ出す。内臓がやられているのかもしれない。よくこの躰で香港から雲南までやって来れたものだ。
「もういい、喋るな」
星宇の躰をソファへ横たわらせながら、藍豪は必死に考えを巡らせる。
類はここにはいない。考えられるのは、ひとり香港に戻ったのではないかということだ。類が三千龍団と結託して瑞蜜会の襲撃を計画したなら、香港で三千龍団の人間と一緒にいる可能性はないだろうか。
藍豪の背負う罪は、星宇の比ではない。そもそも類を拾ったのは、自分なのだから。
「下、に……」
「ああ、わかってる」
下に車を待たせている。そう言いたかったのだろう。起き上がろうとする星宇を押し留め、立ち上がる。
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