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第三章
【五】テツ―異端者を捜せ ②
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ソファーに座りながら松花堂弁当を囲んでいるのは、組長と淫魔店長、加藤弁護士と新寺弁護士だった。龍青会は春に新進気鋭の新寺弁護士が加わり、湾岸の開発計画も順調に進んでいた。ただし、佐倉社長の失踪を除いては……。
「屋代亭の権利を買った会社はダミー会社です。同じ電話番号で登録されている会社が新たに見つかりました。野村が確認中です」
「失踪事件の重要参考人と、屋代亭店主の関係は判明したのか?」
「金髪女性が親しげに店主を『ダーリン』と呼んでいたのを小春が聞いてますが、男女の仲かは不明です」
「事件が解決するまで、小春ちゃんも落ち着かないだろうな」
「俺との結婚も、家族と一部の人間しか知りません。屋代喜一に金をせびられたら、俺に連絡をするように小春の祖父にも伝えました」
「小春ちゃんの祖父?」
「丸川町で『丸川醤油』を造っています。屋代亭の『絶品親子丼』は、祖父の醤油を使うようになってから人気が出ました」
「それは確かか?」
箸を置いた組長に、俺は小さく頷いた。
「はい。『絶品親子丼の味は、三代目の味だ』と虎爺さんに知らされるまで、全く気づきませんでした」
俺の腹立たしげな口調に、新寺弁護士は目を丸くしている。当然だ。ついひと月前は、俺がレイに懸想してると思いこんでいたからな。あとで債務整理の礼をしなくては……。
「俺が出前を頼み始めたのも組長になってからだ。そりゃあ、気づく人も少ないだろうな」
「虎爺さんの餃子も絶品ですね」
加藤弁護士が満足げに茶をすすり、褒め称えた。
「虎爺さんから連絡があり、ルキアの社長も同席して話を聞いてきました。虎爺さんが所有する泉岳の別荘を売って欲しい、と金髪女性がホテルに来たそうです。これが渡された名刺です」
受け取った青龍神が眉をひそめた。
「株式会社『屋代亭』……また店を開くつもりか?」
「別荘の場所は地下鉄終点駅から車で十分。距離も八キロです」
「『絶品親子丼』の名を謳って、客が押し寄せるのか疑問ですね」
俺の告げた情報を、牛タン焼きを飲み込んだ新寺弁護士が分析した。
「もっと別の使い道をするかもしれない。屋代の同乗した車の足取りを追っている相沢さんに、泉岳近辺を調べてもらいましょう。金髪女性や屋代を見かけたら、懐に潜り込むでしょうからね」
銀縁メガネの奥で敏腕弁護士の瞳が光る。英知が滲む笑顔に騙される女性の、なんと多いことか。
『加藤弁護士のイケメンスマイルは、OLさん達を痺れさせてるんだよ!』
などと小春が喋っていたな。まさか彼の伴侶も男性だとは、世の女性は夢にも思うまい。
「最後に。沼沢靴店の親子が組について、あらぬ噂を流しています」
「あらぬ噂だぁ?」
組長の気分が怒りモードへ切り替わった。ヤンキー時代……いや、高校時代は喧嘩を吹っ掛けられると、こうしてドスの利いた声で威嚇していたな。
「靴屋のせがれ……確か名前は、トシキといいましたか。『第一回商工会議所主催育成プロジェクト』の応募者名簿に載ってましたね」
さすがスーパーコンピュータレベルの記憶力は抜かりがない。端正な顔立ちを崩さぬまま、加藤弁護士が内情を明かす。
「沼沢利輝、十九歳。沼沢靴店の長男です。選考会議では高校時代の成績が低いことや仕事の姿勢が疑問視されて、落選しています。選ばれた川田靴店の跡取りがイタリアで修行中です」
当選者は一年間の留学費用が保証され、帰国後は本場で修業したプロ中のプロとして、商店街を盛り上げる存在になる。
「親子して『小春が借金のカタに龍青会へ売られて、ソープで働かされている』と触れ回っています」
「ふふふ。テツさん、こめかみの血管が切れそうですよ。私がゴロツキを海に捨ててきましょうか」
「淫魔店長、冗談はよしてください。テツさん、名誉毀損で訴えますか?」
新寺弁護士まで茶々を入れ始めた。
「なあ、加藤弁護士。沼沢靴店は、どこのビルに入ってる?」
「蓮さんの持ちビルですよ」
加藤弁護士がそつなく答える。
「そうか。じゃあ、賃貸契約の更新はなしだ。ブルーレン警備会社の警備契約も終了し、半径二キロ圏内から追い出せ」
「わかりました」
賃貸契約が更新できなければ、昭和から続いてきた老舗靴店は移転せざるを得ない。ブルーレングループとの契約が解除される、これは龍青会に見限られた事を意味する。
「蓮さん、そこまでしなくても……」
「あのクズは小さい頃から小春ちゃんを狙ってたじゃねえか。じきにソープへ押しかけて騒ぎ出すぞ」
何だと? まさかソープで抱けるとでも思っているのか。
「俺の小春に……ふざけやがって」
獲物を仕留める為に立ちあがった。
「まあまあ、テツさん。真田さんが上手く取り計らってくれますよ。蓮さんは、みかじめ料……おっと、警備料でしたね。それを倍にするだけで許してくれますよ。堅気には心が広い漢ですから」
加藤弁護士に宥められてソファーに座った俺を、蓮さんが愉快そうに眺めていた。
佐伯不動産の副社長が直々に契約解除を突きつけたら、気の弱い店主は逃げだすだろう。
帰りしな組事務所を出たところで、新寺弁護士を呼び止めた。
「先日は屋代亭の債務整理をしていただき、ありがとうございました」
「いいえ。テツさんには厄介な荷物を押しつけた、貸しがありますから」
レイを荷物に例えるとは、冷徹と噂される男だけある。高級クラブいちの美人ホステスが泣いても、どこ吹く風だ。
「葉月君はその後、元気になりましたか?」
新しい敏腕弁護士が選んだのは巨乳美女ではなく、天真爛漫な若者だった。
「荷物が消えて? ああ。葉月はレイを姉のように慕ってましたからね。でも大丈夫ですよ。瑠衣君が友達になってくれました」
若頭の義理息子が葉月君を気に入れば、レイの事など忘れてしまうだろう。レイが瑠衣君を拉致監禁した理由も『ライラ(敵の女スパイ)にそそのかされたから』『資産十億円の男が、青年(瑠衣君)を伴侶にしたのがムカついたから』と浅はかこの上ない。
人は改心し、更生できる――。
そんなのは嘘だ。人間の本質は変わらない。
レイがこの街を去ったのを悲しんだ人間は、新寺弁護士の伴侶だけ。その純粋さが、ヤクザの世界で生きる男の精神解毒剤になり得るのだろう。
タワマンを出ると、汗が噴き出すのも構わずに走り出した。
俺の解毒剤は家で夕飯を作っているはず。玄関を開けたら廊下も駆け抜け、キッチンの恋女房を抱き上げて寝室まで運ぼう。小春はきっと笑い転げて、俺の心に花を咲かす。ピンクの花びらが、殺されかけた記憶を隠してくれる。
あの時、死を覚悟した俺の脳裏に浮かんだのは小春の笑顔だった――。
探偵事務所の明かりが消えているのを確認し、ビルのエレベーターに乗った。レイの痕跡はセキュリティーデータから抹消された。今頃は彼女も新天地で新しい生活を送っている。俺と無関係になって、さぞホッとしていることだろう。
ピンポーン。
ガチャリ。
「おかえりなさい!」
廊下から走ってきたのは商業高校の制服を着た小春だった。白い半袖ブラウスにチェックのリボン、リボンと同じ柄のプリーツスカートが眩しい。ポニーテールが若々しさを強調していた。
「うおっ」
飛びついてきたので、そのまま抱き上げて廊下を進んだ。
「可愛いな。ひとりコスプレ大会か?」
「高校時代にイチャイチャできなかったから、青春を取り戻すの!」
「じゃあ、週に一回は着ないとな」
「うん。セーラー服も着ようかな。でも胸がキツいかも」
チュ。
くぼんだ頬にピンクの唇が触れた。寝室に直行しようとしたら、開け放ったドアからスパーシーな匂いが漂ってきた。
「いい匂いだな」
「今日はね、リエママ秘伝のスパイシーカレーだよ。初果ちゃんに教える予定なんだ」
腹の虫が鳴ったので食事を優先した。後でゆっくりと二人で湯船に浸かるのもいい。がっついて、女房の努力を無駄にしたくはない。
「もしかして、もうシャワーを浴びたのか?」
うなじからは花束の香りがした。おい、その後れ毛はわざとなのか。
「うん。料理してから、着替えたの」
俺を迎えるために。小春の恥じらう様子が、みぞおちを苦しくさせた。くそっ、前言撤回だ。今すぐ首筋を舐め上げてえ。
「制服が汚れちゃうから」
フリルのエプロンで鍋をかき回す小春をカウンター越しに見守ったら、ジーンズの中で息子がいきり勃った。壁の仏像カレンダーに視線を逸らし、阿修羅像に蹴られるイメージを思い浮かべる。おい、少しは節制しろ。毎晩抱いてたら小春が倒れちまうだろ。落ち着いてきたので恋女房をスマホで撮影し、待ち受け画面を新しくした。二人で購入した食器に好物のカレーが盛り付けられる。
「テッちゃん、これが大好きだよね」
「ああ。三杯はいけるな」
「私も大好き。やっぱりリエママの腕前はシェフレベルよね~」
素直に褒め称える小春は決して他人を恨んだり、妬んだりしない。
「小春、『絶品親子丼』は誰に教わったんだ?」
「父さんだよ」
「虎爺さんが『親子丼の味は三人とも違っていた。絶品親子丼は三代目の味だ』って言ってたぞ」
「父方の祖父母は私が小学校に上がる前に亡くなったから、味は覚えていないの。私が店を手伝うようになったのは母さんが家出した後だって、テッちゃんも知ってるでしょ。私が一人前になって両親を助ければ、仲良く暮らせると思ってた。丸川の祖父ちゃんが私を応援する為に醤油をくれたのが嬉しくて、両親に作ったの。父さんが『店で使ってみよう』って褒めてくれて、すごく嬉しかった」
「それが『絶品親子丼』の誕生秘話か」
「うん。最初は客の冗談かと思って両親は受け流してた。でも口コミで客が増えてからは、祖父ちゃんの【丸川醤油】を使うようになったの」
小春は微笑みながら思い出話を語っていたが、口をつぐんでしまった。表情も幾分か暗くなっている。
「儲かるようになって、親父さんが遊びまくったのか?」
夜の歓楽街で酔った店主を見かけたのは、一度や二度ではない。
「それもあるけれど……父さんは酷い風邪を引いてから味覚障害が治らなくて、お酒を飲む量が増えたの」
「いつ頃だ?」
「私が中学三年生の時だよ。父さんは……朝の仕込みも、調理も、やる気がなくなったの。パチンコや競馬で勝ったときだけ、機嫌良くお客さんと喋ってた」
「小春が学校に行ってるときは、どうしてたんだ?」
マズいとか、しょっぱいなどの悪い噂は聞こえてこなかった。それどころか、客が列を作っていたではないか。
「マニュアルを作ったの。【かえし】の割合を私と母さんで決めて、それを使って【絶品親子丼】やそば類も店で出してた……」
マニュアルがあれば、味見をしなくても上手に作れる。酔っ払いのギャンブラーが味覚障害だった。俺と結婚しなければ、小春は一生ろくでなしを養っていくつもりだったのか……。一瞬、レイの顔が頭をよぎった。あの女は小春の父親と似ている。金や楽な暮らしを欲し、他人に命令されれば被害者づらして嘆く。ああいう手合いは、自分を軸に地球が回っている。小春や俺なんぞは利用できる人間としか見ていない。
「ちきしょう。俺が知ってさえいれば、とっくに攫っていたのに」
ギリギリと歯を軋(きし)らせたら、小春が慌てて俺の頬を撫でた。
「もう過ぎたことだよ。父さんも辛くなったから、街を出ていったんだね」
そうじゃねえ。あのクソッタレめが。
お前に借金を押しつけて消えたクズを、まだ父親と呼ぶのか。ああ、だからこそ俺は、この優しくて健気な女を愛するのだ。
「……龍青会が親父さんと一緒にいた金髪女性を追っている。今はこれ以上、話せない」
「わかった」
テーブルに皿を置いた恋女房を腕の中に閉じ込め、キスに念を込めた。
これ以上、小春を辛い目に遭わせるものか――。
「屋代亭の権利を買った会社はダミー会社です。同じ電話番号で登録されている会社が新たに見つかりました。野村が確認中です」
「失踪事件の重要参考人と、屋代亭店主の関係は判明したのか?」
「金髪女性が親しげに店主を『ダーリン』と呼んでいたのを小春が聞いてますが、男女の仲かは不明です」
「事件が解決するまで、小春ちゃんも落ち着かないだろうな」
「俺との結婚も、家族と一部の人間しか知りません。屋代喜一に金をせびられたら、俺に連絡をするように小春の祖父にも伝えました」
「小春ちゃんの祖父?」
「丸川町で『丸川醤油』を造っています。屋代亭の『絶品親子丼』は、祖父の醤油を使うようになってから人気が出ました」
「それは確かか?」
箸を置いた組長に、俺は小さく頷いた。
「はい。『絶品親子丼の味は、三代目の味だ』と虎爺さんに知らされるまで、全く気づきませんでした」
俺の腹立たしげな口調に、新寺弁護士は目を丸くしている。当然だ。ついひと月前は、俺がレイに懸想してると思いこんでいたからな。あとで債務整理の礼をしなくては……。
「俺が出前を頼み始めたのも組長になってからだ。そりゃあ、気づく人も少ないだろうな」
「虎爺さんの餃子も絶品ですね」
加藤弁護士が満足げに茶をすすり、褒め称えた。
「虎爺さんから連絡があり、ルキアの社長も同席して話を聞いてきました。虎爺さんが所有する泉岳の別荘を売って欲しい、と金髪女性がホテルに来たそうです。これが渡された名刺です」
受け取った青龍神が眉をひそめた。
「株式会社『屋代亭』……また店を開くつもりか?」
「別荘の場所は地下鉄終点駅から車で十分。距離も八キロです」
「『絶品親子丼』の名を謳って、客が押し寄せるのか疑問ですね」
俺の告げた情報を、牛タン焼きを飲み込んだ新寺弁護士が分析した。
「もっと別の使い道をするかもしれない。屋代の同乗した車の足取りを追っている相沢さんに、泉岳近辺を調べてもらいましょう。金髪女性や屋代を見かけたら、懐に潜り込むでしょうからね」
銀縁メガネの奥で敏腕弁護士の瞳が光る。英知が滲む笑顔に騙される女性の、なんと多いことか。
『加藤弁護士のイケメンスマイルは、OLさん達を痺れさせてるんだよ!』
などと小春が喋っていたな。まさか彼の伴侶も男性だとは、世の女性は夢にも思うまい。
「最後に。沼沢靴店の親子が組について、あらぬ噂を流しています」
「あらぬ噂だぁ?」
組長の気分が怒りモードへ切り替わった。ヤンキー時代……いや、高校時代は喧嘩を吹っ掛けられると、こうしてドスの利いた声で威嚇していたな。
「靴屋のせがれ……確か名前は、トシキといいましたか。『第一回商工会議所主催育成プロジェクト』の応募者名簿に載ってましたね」
さすがスーパーコンピュータレベルの記憶力は抜かりがない。端正な顔立ちを崩さぬまま、加藤弁護士が内情を明かす。
「沼沢利輝、十九歳。沼沢靴店の長男です。選考会議では高校時代の成績が低いことや仕事の姿勢が疑問視されて、落選しています。選ばれた川田靴店の跡取りがイタリアで修行中です」
当選者は一年間の留学費用が保証され、帰国後は本場で修業したプロ中のプロとして、商店街を盛り上げる存在になる。
「親子して『小春が借金のカタに龍青会へ売られて、ソープで働かされている』と触れ回っています」
「ふふふ。テツさん、こめかみの血管が切れそうですよ。私がゴロツキを海に捨ててきましょうか」
「淫魔店長、冗談はよしてください。テツさん、名誉毀損で訴えますか?」
新寺弁護士まで茶々を入れ始めた。
「なあ、加藤弁護士。沼沢靴店は、どこのビルに入ってる?」
「蓮さんの持ちビルですよ」
加藤弁護士がそつなく答える。
「そうか。じゃあ、賃貸契約の更新はなしだ。ブルーレン警備会社の警備契約も終了し、半径二キロ圏内から追い出せ」
「わかりました」
賃貸契約が更新できなければ、昭和から続いてきた老舗靴店は移転せざるを得ない。ブルーレングループとの契約が解除される、これは龍青会に見限られた事を意味する。
「蓮さん、そこまでしなくても……」
「あのクズは小さい頃から小春ちゃんを狙ってたじゃねえか。じきにソープへ押しかけて騒ぎ出すぞ」
何だと? まさかソープで抱けるとでも思っているのか。
「俺の小春に……ふざけやがって」
獲物を仕留める為に立ちあがった。
「まあまあ、テツさん。真田さんが上手く取り計らってくれますよ。蓮さんは、みかじめ料……おっと、警備料でしたね。それを倍にするだけで許してくれますよ。堅気には心が広い漢ですから」
加藤弁護士に宥められてソファーに座った俺を、蓮さんが愉快そうに眺めていた。
佐伯不動産の副社長が直々に契約解除を突きつけたら、気の弱い店主は逃げだすだろう。
帰りしな組事務所を出たところで、新寺弁護士を呼び止めた。
「先日は屋代亭の債務整理をしていただき、ありがとうございました」
「いいえ。テツさんには厄介な荷物を押しつけた、貸しがありますから」
レイを荷物に例えるとは、冷徹と噂される男だけある。高級クラブいちの美人ホステスが泣いても、どこ吹く風だ。
「葉月君はその後、元気になりましたか?」
新しい敏腕弁護士が選んだのは巨乳美女ではなく、天真爛漫な若者だった。
「荷物が消えて? ああ。葉月はレイを姉のように慕ってましたからね。でも大丈夫ですよ。瑠衣君が友達になってくれました」
若頭の義理息子が葉月君を気に入れば、レイの事など忘れてしまうだろう。レイが瑠衣君を拉致監禁した理由も『ライラ(敵の女スパイ)にそそのかされたから』『資産十億円の男が、青年(瑠衣君)を伴侶にしたのがムカついたから』と浅はかこの上ない。
人は改心し、更生できる――。
そんなのは嘘だ。人間の本質は変わらない。
レイがこの街を去ったのを悲しんだ人間は、新寺弁護士の伴侶だけ。その純粋さが、ヤクザの世界で生きる男の精神解毒剤になり得るのだろう。
タワマンを出ると、汗が噴き出すのも構わずに走り出した。
俺の解毒剤は家で夕飯を作っているはず。玄関を開けたら廊下も駆け抜け、キッチンの恋女房を抱き上げて寝室まで運ぼう。小春はきっと笑い転げて、俺の心に花を咲かす。ピンクの花びらが、殺されかけた記憶を隠してくれる。
あの時、死を覚悟した俺の脳裏に浮かんだのは小春の笑顔だった――。
探偵事務所の明かりが消えているのを確認し、ビルのエレベーターに乗った。レイの痕跡はセキュリティーデータから抹消された。今頃は彼女も新天地で新しい生活を送っている。俺と無関係になって、さぞホッとしていることだろう。
ピンポーン。
ガチャリ。
「おかえりなさい!」
廊下から走ってきたのは商業高校の制服を着た小春だった。白い半袖ブラウスにチェックのリボン、リボンと同じ柄のプリーツスカートが眩しい。ポニーテールが若々しさを強調していた。
「うおっ」
飛びついてきたので、そのまま抱き上げて廊下を進んだ。
「可愛いな。ひとりコスプレ大会か?」
「高校時代にイチャイチャできなかったから、青春を取り戻すの!」
「じゃあ、週に一回は着ないとな」
「うん。セーラー服も着ようかな。でも胸がキツいかも」
チュ。
くぼんだ頬にピンクの唇が触れた。寝室に直行しようとしたら、開け放ったドアからスパーシーな匂いが漂ってきた。
「いい匂いだな」
「今日はね、リエママ秘伝のスパイシーカレーだよ。初果ちゃんに教える予定なんだ」
腹の虫が鳴ったので食事を優先した。後でゆっくりと二人で湯船に浸かるのもいい。がっついて、女房の努力を無駄にしたくはない。
「もしかして、もうシャワーを浴びたのか?」
うなじからは花束の香りがした。おい、その後れ毛はわざとなのか。
「うん。料理してから、着替えたの」
俺を迎えるために。小春の恥じらう様子が、みぞおちを苦しくさせた。くそっ、前言撤回だ。今すぐ首筋を舐め上げてえ。
「制服が汚れちゃうから」
フリルのエプロンで鍋をかき回す小春をカウンター越しに見守ったら、ジーンズの中で息子がいきり勃った。壁の仏像カレンダーに視線を逸らし、阿修羅像に蹴られるイメージを思い浮かべる。おい、少しは節制しろ。毎晩抱いてたら小春が倒れちまうだろ。落ち着いてきたので恋女房をスマホで撮影し、待ち受け画面を新しくした。二人で購入した食器に好物のカレーが盛り付けられる。
「テッちゃん、これが大好きだよね」
「ああ。三杯はいけるな」
「私も大好き。やっぱりリエママの腕前はシェフレベルよね~」
素直に褒め称える小春は決して他人を恨んだり、妬んだりしない。
「小春、『絶品親子丼』は誰に教わったんだ?」
「父さんだよ」
「虎爺さんが『親子丼の味は三人とも違っていた。絶品親子丼は三代目の味だ』って言ってたぞ」
「父方の祖父母は私が小学校に上がる前に亡くなったから、味は覚えていないの。私が店を手伝うようになったのは母さんが家出した後だって、テッちゃんも知ってるでしょ。私が一人前になって両親を助ければ、仲良く暮らせると思ってた。丸川の祖父ちゃんが私を応援する為に醤油をくれたのが嬉しくて、両親に作ったの。父さんが『店で使ってみよう』って褒めてくれて、すごく嬉しかった」
「それが『絶品親子丼』の誕生秘話か」
「うん。最初は客の冗談かと思って両親は受け流してた。でも口コミで客が増えてからは、祖父ちゃんの【丸川醤油】を使うようになったの」
小春は微笑みながら思い出話を語っていたが、口をつぐんでしまった。表情も幾分か暗くなっている。
「儲かるようになって、親父さんが遊びまくったのか?」
夜の歓楽街で酔った店主を見かけたのは、一度や二度ではない。
「それもあるけれど……父さんは酷い風邪を引いてから味覚障害が治らなくて、お酒を飲む量が増えたの」
「いつ頃だ?」
「私が中学三年生の時だよ。父さんは……朝の仕込みも、調理も、やる気がなくなったの。パチンコや競馬で勝ったときだけ、機嫌良くお客さんと喋ってた」
「小春が学校に行ってるときは、どうしてたんだ?」
マズいとか、しょっぱいなどの悪い噂は聞こえてこなかった。それどころか、客が列を作っていたではないか。
「マニュアルを作ったの。【かえし】の割合を私と母さんで決めて、それを使って【絶品親子丼】やそば類も店で出してた……」
マニュアルがあれば、味見をしなくても上手に作れる。酔っ払いのギャンブラーが味覚障害だった。俺と結婚しなければ、小春は一生ろくでなしを養っていくつもりだったのか……。一瞬、レイの顔が頭をよぎった。あの女は小春の父親と似ている。金や楽な暮らしを欲し、他人に命令されれば被害者づらして嘆く。ああいう手合いは、自分を軸に地球が回っている。小春や俺なんぞは利用できる人間としか見ていない。
「ちきしょう。俺が知ってさえいれば、とっくに攫っていたのに」
ギリギリと歯を軋(きし)らせたら、小春が慌てて俺の頬を撫でた。
「もう過ぎたことだよ。父さんも辛くなったから、街を出ていったんだね」
そうじゃねえ。あのクソッタレめが。
お前に借金を押しつけて消えたクズを、まだ父親と呼ぶのか。ああ、だからこそ俺は、この優しくて健気な女を愛するのだ。
「……龍青会が親父さんと一緒にいた金髪女性を追っている。今はこれ以上、話せない」
「わかった」
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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません
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✿初公開23.10.18✿
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