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第二章 伯爵令嬢と伯爵令嬢

6.『理不尽』に振り回された姉妹の果て

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 私がよろけてギルバートに抱きついてしまったときに一瞬息を呑んだのも。
 馬車が揺れて背中が壁にぶつかったときわずかに呻いたのも。
 馬車で背中が触れないようにピンと背筋を伸ばして座っていたのも。

 まさか背格好が違いすぎるギルバートが狙われるわけがないと思って、見過ごしてしまった。
 ギルバートは私の身代わりとなり、ミシェルに階段から突き落とされていたのだ。

 ギルバートが誰かにやられるわけがないし、つまらないミスをするわけもない。
 わざとでない限り、ギルバートが怪我をするなんてありえない。

 ギルバートはミシェルなら私を傷つけて参加を断念させるだろうことも予測していた。
 あれは実際にギルバートがされたからだったのだ。だから私に怪我をしたフリをさせようとしたのだ。

「べ、べつに、ピンピンしてるんだからいいじゃない。それにあれはお姉さまが勝手に転んだだけよ。私はちょっとぶつかっただけだわ。間違いなんて誰にでもあることだし」

 動揺を隠そうともしないミシェルに対して、冷たく怒りを孕んだ目をすっと向けた。

「本当にあなたは愚かだわ。人を傷つけるなんて腐った人間のすることよ」

「お姉さまが私の前にいるからいけないのよ」

 私の冷たい目に耐え切れなくなったように、ミシェルはふいっと顔をそっぽ向けた。

 相変わらずの理屈に閉口した。

 私達は姉妹だ。
 家族だ。
 同じ家に暮らしているのだ。
 目障りなのはわかる。
 だが階段から突き落としたとなれば、死んでいたっておかしくはない。

 そう。
 もしもギルバートがただの人間だったら、死んでいたかもしれないのだ。
 その事実が私から体中の熱を奪って行った。
 そしてその倍以上の熱が、体の底から這いあがってきた。

 怒りに目がくらみそうだった。
 これほどまでにミシェルに怒りを抱いたことはなかった。
 どんなに自分が傷つけられても、我慢すればいいだけだったから。
 でもギルバートを傷つけられたと思うと、冷静になれなかった。許せなかった。

 もっと早く気付かなかった自分にも腹が立った。
 気づくべき時はいくらでもあったのに。
 ミシェルのことに気を取られて、ギルバートの怪我に気づけなかった。
 ギルバートが私の身代わりになるつもりだったことにも。

 私は拳を握り締めた。

 もうミシェルは越えてはならない一線を越えてしまった。
 私達はもう、このままではいられない。

 だからこそ、最後にきちんと聞いておかねばならないと思った。

「ミシェル。あなたの嫌いな私に成り代わってまでパーティに出席して、あなたが得るものはなんなの? そうまでして、あなたは何がしたいの」

 家を継ぐミシェルが出席すべきだと言っていたはずだ。それなのに私のフリをしたら意味がない。「ミシェル」が出席するのではないのだから。

 そうまでしたのには理由があるはずだ。
 ミシェルにはミシェルなりの行動原理があるはずだ。
 そうでなければならない。

 今にも殴りかかってしまいそうな自分を、そうして理性で抑え付けた。
 理由がほしい。
 納得できるだけの理由が。

 問えば、ミシェルの瞳にもまた憎しみの火が灯ったのが見えた。
 ミシェルは答えた。

「いつもいつもお姉さまばかりがズルイからですわ。殿下に気に入られ、『今回ばかりはシェリアでなくてはならない』なんて言わせて。お姉さまがやることは何でもうまくいく。評価される。学園でも一人でいれば誰かが寄ってくる。お姉さまは誰のことも求めてはいないのに、努力もしていないのに、いつもお姉さまばかりがもてはやされる。私たちは同じ姉妹なのに、そんなの不公平だからですわ」

 熱がこもったその口調に、いつもとは違う何かを感じた。
 だけど私は怒りを堪えることに必死で、その違和感は流してしまった。

「そうね。何もしていないわね。人を貶めるようなことを吹聴したりも、人に怪我をさせることもしない。そんな私はあなたよりは無害だからでしょうね」

 いつものようにミシェルの言葉を受けたつもりだった。
 けれど、ミシェルの瞳がすっと冷えたのがわかった。
 返ってきた言葉は、ミシェルらしからぬものだった。

「それは違いますわ。私達はスタートが違うのよ」

 いつものように感情任せに、やぶれかぶれに投げつけた言葉ではない。

 初めて見る顔だった。
 怒りも苛立ちも腹の奥にすっと沈んで行ったような、静かな火だけが揺らいでいるような、そんな顔。

「私は妻のある男が妊娠中に他の女と遊んでできた子供。そしてその妻を精神的に追い込み、死においやった後、厚顔無恥にも母娘で転がり込んだ。対して、あなたは母をなくし、憎い敵に転がり込まれた可哀そうな子。私たちは最初から平等などではないのよ」

 熱のない、静かなその言葉に、はっとした。
 それは事実には違いない。
 だが生まれに関してはミシェル自身が何かをしたわけでもなんでもない。
 それでもミシェルは常にそう見られるところから入るのだ。
 社交の場にロクに出ない母親の代わりに、一身にその身に非難の目線を感じていたのかもしれない。
 たとえ周囲が何も思っていなくとも、ミシェルにその負い目がある限り、どんな目線にもそんな非難が混じっていると感じてしまっていたのかもしれない。

 だけど、そうどこか他人事に考えていた私に、ミシェルは静かながらも小さな灯の揺れる目を向けた。

「初めて私たちが会ったとき。あなたは恨み言も何も言いはしなかった。ただ憎むような目をちらりと向けた。だから私は戦うしかなかったのよ。責められたら私の負けだもの。悪者は私なのだもの。だから私は私の居場所と存在価値を守るために、ただただ私のためだけに戦ってきたのよ。私が一つの家庭の幸せを奪った子供だという事実は一生消えないのだから」

 ミシェルの瞳には今までにない、強い光が宿っていた。

 私は重いものを胸に呑み込んだようになって、言葉が継げなくなった。


 そこに居ていいと言ってくれないから。それなら自分で居場所を守るしかない。追われないために強くあらねばならない。

 そうして存在を主張するばかりのモンスターのようになったミシェルを生んだのは、私だ。


 どこかの誰かの偏見ではない。

 私がミシェルをここまで追い詰めたのだ。

 その事実が今さらになってのしかかった。

 私はミシェルに対して文句を言ったりはしなかったけれど、母が亡くなるのを待っていたかのように父に連れられてきた義母と異母妹を許すことができなかった。
 この二人のせいで母が死んだのだと、心で非難していた。

 ミシェルにしてみたら、そんなのはどうにもできないことだ。
 ごめんねと謝ることでもない。
 ミシェルは何もしていないのだから。

 もしやり直しても、最初から受け入れることはできなかったと思う。
 だけどどこかで私からミシェルに歩み寄るべきだった。
 悪者のまま戦うしかなかったミシェルから歩み寄ることなんて、できなかったのだから。

 それなのに私は、ミシェルに抗うのもいつしかやめ、受け流すようになった。
 それは家族として受け入れたというような好意的なものではなかった。冷めた視線はそのままだったのだから。

 それはミシェルにとっては、相手する価値もないとみなされたと同じことだったのかもしれない。
 だから『無いもの』とされないために、ミシェルの言動はエスカレートしていったのかもしれない。

 今更気が付いた事実に打ちのめされていた私に、ミシェルは悔しげに口元を歪めた。

「私が何をどんなに頑張っても、人の幸せを奪っておいてまだ何か欲しいのかと言われる。私がどんなに着飾り、美しく成長しても、奪って手に入れた美しさだと言われる。人を苦しめ手に入れた身分でのうのうと生きていると見られる。最初から公平なんてない。私が正当に評価されることはない」

 だからいつも『お姉さまはズルイ』と言っていたのだ。
 だから私に成り代わろうとしたのだ。

 最初からマイナスに見られることはない私に。
 何もしなくとも「かわいそう」と同情されることで好意的な目を向けられるというアドバンテージを持った、私に。

 これまで不自然なまでに張り付けてきた「ですわ」も、ミシェルの矜持だったのかもしれない。
 蔑む周囲に対して、それでも誇り高くあろうとした。

 私は根本的に思い違いをしていた。

 これまで私は、ミシェルはミシェルで生きればいいのにと思っていた。
 そんなに私のことが嫌いなら、無視すればいいのにと思っていた。
 だけどミシェルがそうしたくても、できなくさせていたのは周囲だ。
 常に「かわいそうな姉」と「厚顔無恥な妹」として並べて見られていたのだから。

 ミシェルはずっと、理不尽と闘ってきたのだ。

 やっと少しだけ、ミシェルのことがわかった気がした。


 だけど気づくのが遅すぎた。
 ついにミシェルから私を守ろうとしたギルバートを傷つけてしまった。
 そのことでまた私はミシェルを許せなくなってしまった。

 向き合うべきなのだろう。
 だけど今すぐに整理できるものでもない。今は冷静にはなれない。

「ミシェル。今日のところは帰りなさい」

 静かにそれだけを言った。
 
「いやよ。お姉さまだけが殿下と親しくするなんて許せない」

「ミシェル。ここは王城よ。あなたが継ぐアンレーン家が恥をかくわ」

 ギリリ、と私を睨み上げたミシェルに、私はゆっくりと、一語一語をはっきりと告げた。

「これだけは言っておくわ。次に人を傷つけたら、許さない。それが誰であっても。たとえ私がどこにいたとしても」

 ミシェルの冷たい瞳が訝しげに細められた。
 何度か口を開きかけて、だけど結局何も言わないまま閉じた。

 私は歩みを進めた。
 ぐっと奥歯を噛みしめたミシェルと、すれ違う。

 扇の根本には黒いコウモリの根付がゆらゆらと揺れていた。

 きつく閉じられた赤い唇は形を歪めたまま、言葉を発することはなかった。
 足音が馬車へと向かうのを背中に聞きながら、小さな黒いこうもりの根付を掌でそっと包んだ。

「ごめんね、ギル」

 コウモリは何も言わなかった。
 ただ私の掌の上で、そっと左右に揺れた。
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