空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第5章 新たな場所へ

第18話 グランツの町 霧と静寂

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 険しい山道を抜けると、視界の先に美しい谷間の町が姿を現した。

 石造りの建物が山の斜面に沿って階段状に整然と並び、中央には石畳で舗装された大きな市場広場が広がっている。その向こうには白い煙を勢いよく吐く鍛冶屋の工房や、水車がゆっくりと回る粉挽き小屋が見える。山間部の豊富な水資源と鉱物を活かした、典型的な山岳地帯の交易拠点だ。ここが、この地域の商業と職人技術の中心地《グランツ》である。

 町の配置は地形を巧みに利用しており、谷間を流れる川を中心として放射状に道が延びている。石造りの建物は山の石材を使って頑丈に建てられており、厳しい冬の寒さにも耐えられる構造になっている。遠くから見れば、まるで山に刻まれた一幅の絵画のような美しさがあった。

 しかし――町の様子が明らかにおかしい。

 昼下がりという商業活動が最も活発になるはずの時間帯にもかかわらず、町全体が不自然なほど静まり返っていた。普段なら活気に溢れているはずの市場広場にいる商人はまばらで、露店の数も少ない。路地を歩く人々も声を潜めるようにして足早に目的地へ向かい、立ち話をする者も見当たらない。まるで町全体に重い雲が垂れ込めているような、息苦しい雰囲気が漂っていた。

「……市場がやけに閑散としてるわね」

 リィナが馬上から町を見下ろしながら眉をひそめる。エルフの鋭い感覚で、この町の異常な空気を察知している。

「山間部の交易路の重要な中継地だから、通常ならもっと賑やかなはずなんだが」

 バルグが荷車を引きながら周囲を警戒するように見回している。歴戦の戦士としての経験が、この異常事態を敏感に感じ取っているようだ。

 俺は上空から市場広場全体を詳細に俯瞰する。鷲の優れた視力で人の流れを注意深く観察していると、人数は少ないが、その分だけ不自然で怪しい動きが際立って目についた。

 市場広場の外れ、古びた石造りの倉庫の前で、黒い衣装をまとった男たちが大きな樽を組織的に運び込んでいる。樽の特徴的な形状と、風向きによって微かに漂ってくる異臭……間違いない、港で発見した例の毒干物と全く同じ臭いだ。

「リィナ、バルグ、市場広場東側の古い倉庫で怪しい搬入作業が行われている。黒羽同盟の可能性が極めて高い」

 俺の報告を聞いた二人の表情が一瞬で緊張に引き締まる。

 しかし、ここで派手な戦闘に発展すれば、無関係な町の人々を危険に巻き込む可能性が高い。俺たちはひとまず宿を確保し、夜になってから慎重に行動することにした。



 宿は市場広場に面した二階建ての立派な石造りの建物で、山の厳しい寒さに備えて厚手の毛皮製の絨毯や大きな暖炉が備え付けられている。部屋の窓からは広場全体が見渡せ、監視には最適の立地だった。

 部屋に荷物を置くと、リィナが薬草袋を丁寧に広げて果樹園で採取した貴重な薬用果実を種類別に仕分け始めた。薬師としての几帳面さと専門知識が遺憾なく発揮されている。

「こっちの実は解毒薬用に加工しておくわ。あなたは――」

「町の食材と市場の調査だ」

「……どうせ真っ先に果物屋に直行するんでしょ」

「情報収集を兼ねている」

 そう言い訳をしつつ、俺は宿を出て市場の詳しい探索に向かう。情報収集という名目だが、確かに果物への興味も大きな動機の一つだった。

 市場の果物屋の棚には、山間部特有の山葡萄や赤いリンゴ、そして見慣れない黒い皮の柑橘類が所狭しと並んでいた。どれも高地の厳しい環境で育った、逞しく味の濃い果物ばかりだ。

 嘴でそっと黒い柑橘に触れて詳細に鑑定すると、甘みの奥に複雑で上品な苦味があり、果皮には強力な抗菌成分が豊富に含まれている。薬用酒にも向くし、保存食としても優秀だろう。

「……ほう、これは非常に面白い」

 思わず独り言が漏れたその時、背後から低く冷たい声が響いた。

「珍しい鳥だな。まるで専門家のような鑑定でもしてたのか?」

 振り向くと、黒い外套をまとった中年の男が無表情で立っていた。顔の上半分を深いフードで隠しているが、覗く視線は氷のように冷たく鋭い。明らかに只者ではない雰囲気を漂わせている。

 その背後にはもう一人、同じ黒い外套の男が控えている――さっき倉庫での作業を監視していた連中だ。

「……ただの観光客だよ」

 俺はとぼけた調子で答えてみたが、男たちは薄く不気味に笑った。

「そうか。それなら忠告しておこう。夜はあまり出歩かない方が身のためだ。この町は……最近、とても危ないからな」

 それだけ言い残すと、二人は人混みに巧妙に紛れて姿を消した。まるで最初からそこにいなかったかのように、完全に気配を断って去っていく。

 その後ろ姿を見送る俺の胸に、氷のような冷たい感覚が走る。

 ――こいつら、俺たちが港から追跡してきたことを完全に知っている。



 夜が深まると、山間の町特有の深い霧が市場広場を包み込んだ。

 石畳の上にはところどころに設置された篝火の明かりがぼんやりと滲み、幻想的だが不気味な雰囲気を醸し出している。昼間の静寂とは違う、緊張感に満ちた静けさが町を支配していた。

 俺たちは宿の人目につかない裏口から慎重に抜け出し、霧を利用して東側の倉庫へと向かう。バルグは足音を殺して移動し、リィナは暗闇に紛れるエルフの能力を活かして気配を完全に消している。

 霧の向こうで、黒衣の男たちが組織的に樽の積み替え作業を続けている。その量は想像以上に多く、町の規模を考えれば異常なほどだった。

 バルグが俺たちに聞こえるように低く呟く。

「……あの毒物の量なら、この町の住民全員を毒殺できるぞ」

 リィナは弓に矢をつがえ、矢尻に毒の検知薬を慎重に塗っている。薬師としての専門知識を戦闘に活かす準備だ。

 俺は倉庫の屋根の上から全体を監視し、敵の人数、配置、動きのパターンを記憶していく。これまでの経験で培った戦術眼で、最適な攻撃タイミングを見極めようとする。

 冷たい霧の中で、確信が胸の奥で固まっていく。今夜、この町の不自然な静寂は確実に破られる――そして俺たちと黒羽同盟との本格的な戦いが、ついに始まろうとしていた。
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