空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第7章

第79話 影の港潜入

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 海霧が薄らぎ、東の水平線に朝日が顔を出した。橙色の光が雲の隙間から差し込み、海面をきらめかせている。潮は静かに引き、海面の色が深い青から褐色混じりの浅瀬色へと変わっていく。潮汐の力により、これまで隠されていた海底の地形が徐々に露わになっていく。

 やがて霧の向こうに、黒々とした岩の壁が姿を現した。まるで海から突き出た巨大な城塞のような威圧感を放っている。入り口は一本の細い水路――両脇を暗礁が覆い、波が岩肌にぶつかって白い飛沫を上げている。まさに天然の要塞だった。

 このような地形では、潮が満ちている時には完全に隠蔽され、干潮時のみアクセス可能となる。古代から海賊や密輸業者が利用してきた、完璧な隠れ家の構造だった。

「……見えたな。影の港だ」

 バルグが斧の柄を握りしめる。その表情には、いよいよ本格的な戦いが始まるという緊張感が宿っていた。

 俺も頷き、船首に出て風の匂いを嗅いだ。鷲としての鋭敏な嗅覚で、空気中の微細な成分を分析する。湿った空気に混じって、あの化学的な刺激臭がかすかに漂っている。港町で嗅いだ、汚染液の匂いだ。

 この匂いの存在により、俺たちの推測が正しかったことが確認できた。ここが汚染液の製造拠点であることは間違いない。

 水路の奥には、入り江を埋め尽くすように並ぶ船影。軍船から小型の偵察艇まで、様々な種類の船舶が整然と停泊している。そして、背後に聳える岩山をくり抜いた巨大な倉庫群が見えた。

 自然の岩山を利用した要塞化により、外部からの攻撃に対する防御力は極めて高い。潮が満ちれば完全に外界と遮断される構造――この時間を逃せば侵入は不可能だ。

「突っ込むぞ。干潮は長くもたない」

 航海士の声で、船は加速した。エンジンの回転数が上がり、浅瀬をかすめるように進む。水深が浅いため、船底が海底に接触する危険もあるが、今は速度を優先しなければならない。

 入り江へ滑り込む瞬間、俺たちは一斉に身を低くした。敵の見張りに発見される可能性があるからだ。



 中は異様な静けさだった。港には軍船が数隻停泊しているが、甲板に人影は少ない。潮待ちで多くが外へ出ているのだろう。この時間帯は、敵にとっても活動の谷間に当たるようだ。

 しかし、倉庫の方からは金属音と低い唸り声が聞こえてきた。機械の稼働音と、何かの実験が続行されている証拠だった。製造施設は24時間体制で稼働している可能性がある。

 俺たちは船を岩陰に着け、徒歩で倉庫群へ向かう。船は発見されにくい位置に隠し、退路を確保した。途中、見張りを数人倒したが、抵抗は小規模だ。

 バルグの格闘技術により、敵の見張りは音を立てることなく無力化された。彼の豊富な戦闘経験が、こういう隠密行動でも威力を発揮している。

 最奥の建物――そこから、強烈な化学臭と、耳鳴りのような低周波が漂ってきた。建物の構造は、外見よりもずっと複雑で、内部に大規模な施設が収容されている様子だった。

 翼先をそっと扉に触れた瞬間、俺の頭に情報が流れ込む。特殊能力により、建物内部の詳細な構造と設備の状況が一瞬で把握できた。

(……ある。あの奥に、培養槽がひとつ)

 触れただけで分かった。数千リットル規模の液体が循環し、その中で病原体が増殖している。温度管理、栄養供給、遺伝子改変……全てが精密に制御されている。

 この培養システムの精密さは、単なる化学兵器製造を超えて、生物学的研究の最先端技術を応用したものだった。敵の技術力の高さを改めて思い知らされる。

「一つ潰せば、供給は止まる」

 そう告げると、リィナは即座に薬袋を開けた。彼女の動作には一切の迷いがなく、既に破壊工作の準備を済ませていたようだ。

「爆薬はないけど、これなら腐食させられるわ」

 取り出したのは強酸性の薬液と、触媒になる粉末。医療用とは思えない物騒さだが、目的は明確だ。化学反応により金属を急速に腐食させ、培養槽を破壊する計画だった。

 リィナの化学知識の応用範囲の広さに、改めて感心させられる。薬学だけでなく、破壊工作にまで応用できるとは思わなかった。



 扉を蹴破ると、内部は巨大な半球状の空間だった。天井は高く、まるで地下聖堂のような神秘的な雰囲気を醸し出している。中央に銀色の培養槽が鎮座し、無数の管が壁に走っている。

 培養槽は想像していたよりもずっと巨大で、その表面は鏡のように磨き上げられていた。槽の表面には、港で見た刻印が繰り返し刻まれていた。これらの刻印は単なる装飾ではなく、何らかの宗教的または魔術的な意味を持っているのかもしれない。

 その前に、白衣姿の男たちが立ちはだかった。研究者のような外見だが、防毒面を付け、手には短剣や注射器を握っている。明らかに戦闘要員としての訓練も受けているようだ。

「侵入者は生かして返すな!」

 号令と同時に飛びかかってくる。その動きは研究者とは思えない俊敏さで、軍事訓練を受けた兵士のような戦闘能力を持っていた。

 バルグが先頭を薙ぎ払い、敵の攻撃を一身に引き受ける。彼の豪快な戦闘スタイルが、狭い空間でも威力を発揮していた。俺はその背後から培養槽へと駆け寄った。

 リィナは戦闘の合間に薬液を管にぶちまけ、触媒を投げ入れる。化学反応が即座に始まり、じゅうっと金属が焼ける音と共に、槽の表面が黒く泡立った。

 酸による腐食が予想以上の速度で進行し、培養槽の構造材が急速に劣化していく。設計者が想定していなかった化学攻撃により、精密な制御システムが破綻しつつあった。

「あと十秒で破裂する!」

 リィナの叫びで全員が出口へ走る。彼女の計算によれば、構造材の腐食により培養槽が崩壊するまでの時間は極めて短い。

 背後で金属が軋み、やがて鈍い爆音と共に、緑色の液体が床に広がった。培養されていた病原体が一気に放出され、施設内が汚染状態となった。

 俺は振り返り、落ちた液の一部を小瓶に採取する。これが治療法の手掛かりになるはずだ。危険を承知で、敵の生物兵器のサンプルを確保した。



 外へ出ると、敵船の警笛が響き始めた。施設の破壊により警戒態勢が発令され、港全体が騒然としている。干潮は終わりかけており、潮が入り口を塞ごうとしている。

「急げ!」

 岩場を駆け抜け、船へ飛び乗る。追跡してくる敵兵たちの声が背後で響いているが、もう手遅れだ。水路を抜けた瞬間、背後で岩壁が潮に飲まれ、港の入り口は完全に閉ざされた。

 まるで巨大な口が閉じるように、影の港は海中に没していく。自然の力を利用した完璧な隠蔽システムが再び作動し、外部からは何もない海域に見えるだろう。

 影の港は沈黙したまま、霧の中に消えていった。俺たちの任務は成功し、敵の主要な製造施設を破壊することができた。

(……供給は絶った。あとは、治す番だ)

 小瓶の冷たい感触が、俺の胸の奥で重く響いた。この中に入っている病原体のサンプルが、港町の人々を救う鍵となる。今度は医者としての本領を発揮する時だ。

 船は荒波を乗り越え、故郷の港町へ向けて航行を続けている。仲間たちの表情には、任務完遂の達成感と、新たな挑戦への決意が宿っていた。

 帰港後の治療法開発という、また別の困難な戦いが待っているが、今回の経験により俺たちの絆はさらに深まった。どんな困難にも立ち向かえる自信がある。

 朝日が高く昇り、海面を金色に染めている。希望に満ちた光が、俺たちの帰路を照らしていた。
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